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海外ひきこもりだった私(22)言語フェティシズム<2>

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アムハラ(ゲエズ)文字

海外ひきこもりだった私(21)言語フェティシズム<1>」からのつづき・・・

 

by ぼそっと池井多

 

先日、「やっぱり今日もひきこもる私(173)」において、勤勉なミャンマー人の女性のことを書き、そこから回想して、私はそとこもりの最中にどこの国へ行っても言語に目が向いていたということを書かせていただいた。土地の人や風物や飲み物にもとうぜん目が行ったが(とくに私の場合「女性」にことさら目が行ったが)、なんといっても言語に目が行ったのである。

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思い返せば、幼稚園のころには、すでに私は異常なまでに言語に偏執していた。

幼稚園に通い始めたころに、ローマ字を熱心に読んでいたことを思い出す。

考えてみれば、これは奇異なことである。

なぜならば、昭和30年代から40年代にかけての東京近郊で、日本人としてふつうの日常生活をしているかぎり、ローマ字はそんなに多く出会わない。せいぜい鉄道に乗った時に見かける駅名標ぐらいである。

逆に、そのような稀少価値があったからであろうか。

街の風景の中にローマ字を見つけると、私はたちまちそれを「征服」するかのように、挑みかかって読んでいたのである。

ちょうど後年、20代の私にとって、スラブ文字やアラビア文字やアムラハ文字など、自分にとって読めない文字が書き連ねられている外国に身を置くことから無上の歓喜を得たように、幼稚園へ行き始めるころの私にとっては、ローマ字は歓喜をもたらしたのである。

 

いっぽう、幼稚園のころは、学習研究社かどこかから出ていた小学生の漢字辞典を手放すことができず、どこへ行くにも携えていた。そのため、小学校へ上がる前に小学6年生までに習う漢字はぜんぶ読み書きができるようになっていた。

これはなにも、私の知的早熟を自慢するものではない。

一方で私は、おそろしく遅熟な子どもだったのである。とくに人間関係においてはそうであった。今でもそうかもしれない。そのことが後年、私が社会の主流秩序からはずれ、ひきこもりとして生きることにつながっていると思う。

尋常な人間関係を営んでいけないので、同年代の子どもと外で泥まみれになって遊ぶようなことがなかった。それは、

「近所の子と遊ぶとバカになるから、遊んではいけません」

などと母が言っていたから、ということもある。

でも、私自身も、同年代の子どもと遊ぶことが、まったく楽しくなかったのである。

母は、私を近所の子どもたちから孤立させたわりには、

「家の中にばかり閉じこもっていてはいけません」

などと矛盾することもやかましく言って、私を外へほっぽり出した。

仕方がないから、私はふたたび家に入れてもらえる時間まで外で過ごすのだが、友達を見つけて遊ぶということをせず、一人であてどもなく歩き回り、好きなところで立ち止まり、好きなことをしていた。

私の好奇心は自然科学的な対象へ向かうこともなく、外にいても、部屋の中にいるときと同じように、頭のなかで想像の世界に浮かんでいたものである。

 

 

小学生の漢字辞典を読了した私に、父は、彼自身が使っていた角川書店の漢和中辞典を私に貸し与えた。そのため、小学1年生が終わるころまでには、漢和中辞典に収録されている漢字はだいたい読み書きできるようになった。

のちに、お坊ちゃん学校で知られる名古屋の私立中学校に入ったところ、私と似たような発達障害っぽい子はウヨウヨいた。

 

 *

 

このような前段階があって、20代に「そとこもり」を始めてからは、見知らぬ国でわからない言語や読めない文字へ強烈に惹かれていくこととなる。

そこでは、未知の音韻や記号によって、私のわからない意味が人々のあいだで交換されていたのだ。

ああ、それはなんとスリリングな光景であったことだろう!

50代の今の私は、20代の私がおぼえた、知らない言語の世界に分け入った時の、あのワクワクした感覚を思い出すことができる。しかし、これを他の方々に伝えるのは至極むずかしい。

そもそも、他の人々はこのような言語フェティシズムの感覚を理解してくれるだろうか、という強い疑念がある。たとえば、ラグビーの好きな人が熱心にラグビーの魅力を私に語ってくれても、私はさっぱりわからないからである。

いまはインターネットがあるから、どんな言語の文化圏へも、日本から一歩も出ることなく到達できる。いや、それどころか、自分の部屋から一歩も出ることなく、机に向ってクリック一つで、まったく読めない不思議な文字を書き連ねる国へ飛べるのである。

こんな時代に、30年前の言語偏執狂の若者の、あの面妖な興奮を理解してもらうことはほとんど不可能にちがいない。

 

 *

 

たとえばスイスのような国では、たいていの人が4か国語を話す。

フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語である。

そのうち前3つはスイスの公用語である。

「スイスの子どもは、どうしてそんなに早く4か国語を話せるようになるの?」

と、スイスで同年代の若者に尋ねたことがある。

「それは自然な流れさ。たとえばフランス語圏の家庭だったら、両親が子どもに知られたくない会話をするときは、ドイツ語かイタリア語に切り替える。すると、聞き耳を立てている子どもはすぐにその外国語をおぼえる。」

と解説された。

なるほど、子どもがいちばん知りたい情報が異言語で話されているならば、学習も早いわけだ。日本の英語教育とは根本からしてちがう。

 

 

私が思春期を迎えると、西洋アルファベットとはまったく違うキリル文字アラビア文字、アムハラ文字などを使う言語が、強烈に私を惹きつけるようになった。まるでエギゾティックな香水をつけた異文化の女性に惹かれるような吸引ぶりであった。あれは知性化された私のエロスであったのだ。

街中にあふれる看板が、まったく読めない文字で書かれている都市や国へまぎれこんだ時の興奮と緊張。……私にはわからない意味が人々のあいだで交換されている。私はできるだけその音韻を理解しようと耳をそば立てる。

あの時の私には、ちょうど親たちの会話を盗み聞きして、禁じられた生活情報を必死に得ようとするスイスの子どもの心理に近いものがあったにちがいない。

私以外の人々がやりとりしている言語がわからなければわからないほど、

「ようし、わかってやるぞ!」

ともいう意欲が掻き立てられた。

「ここに、自分の仕事がある」

という感覚にもなった。

いや、意欲などという健全な代物ではない。

女性と見れば「モノにしたがる」ような、セックス依存症のモテまくりの男性は、自分を拒むプライドの高い女性にあったときに、

「ようし、この女を征服してやるぞ!」

という気になるらしいが、そういう何か尋常ではない勃興に近いものであったのにちがいない。

私自身はモテない男であったから、ついぞ女性に対してそういう気持ちになったことはないし、プライドの高い女性に会えば、ひたすらおじけづき、萎縮するばかりであった。しかし、対象が言語となると、がぜん私は怪しい変態的な目を光らせたのである。

 

フランスの精神科医ジャック・ラカンは、

「男が恋するとき、相手は女性である。

女が恋するとき、相手は女性である」

という、謎のような言葉を残している。

 

それはおそらく「女性」というジェンダーが文化的に背負わされてきた「対象」というシニフィエを意味しているのだろう、と私は考える。

そのような前提で語ると、「女性」も「言語」も、男性というジェンダーを選び選ばされ、生きてきた私にとっては「対象」という点で同じである。

しかも、言語には人格がないので、主体もなく、かりに「ねじふせた」ところで、性暴力で訴えられる恐れがない。

 

 

言語は、社会の表徴である。

赤ちゃんは、言語を学ぶことで、大人たちが営む社会の中へ入っていく。

幼稚園の私にとって漢字やローマ字は大人たちの「社会」であった。

両親がキッチンでこっそり交わしている会話を、こっそり寝室から盗み聞きしているスイスの子どもにとって、キッチンという空間はおそらく大人が営む世界、すなわち「社会」なのだと思う。

自分という存在を峻厳に拒む「社会」へ、したたかに潜入し、「参加してやるぞ」という野心を持つ子どもは、両親たちが交わす謎の信号を傍受し、未知の意味体系を解析するのである。

同じように、あてどもなく「そとこもり」で放浪し、読めない文字を書き連ねる国に漂着した私の眼前には、異邦人である私を峻厳に拒む「社会」が存在していた。

私はそこへしたたかに入り込んでいこうと、耳をそば立て、未知の記号の法則性を見いだそうと目を見開いたのではなかったか。

親からはじかれ、第二の故郷を夢見た精神科の患者村からも放逐された私は、異国という生活空間へ望まれない社会参加を企てて、彼らの言語に異様な関心を示したとも考えられるのである。

 

 

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 ・・・「海外ひきこもりだった私(23)」へつづく

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