VOSOT ぼそっとプロジェクト

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海外ひきこもりだった私(23)「そとこもり」をした理由 ~ 異邦へ行けば異邦人性は正当化される

海外ひきこもりだった私(22)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

外国のうつ・ひきこもり事情(143)」において、ロシアから来たメディアの話を書かせていただいたところ、肝心なロシアのメディアそのものよりも、そこで述べた「異邦人性」ということについて多くのコメントをいただいた。

 

話の始まりは、こうである。

ロシアのメディアの通訳者であったクセニャーさんという女性が、エストニアに育ったロシア人であるため、どちらのアイデンティティにも根差さずに、

「自分はどこでも異邦人だ」

という意識をもって大人になったのだが、そのために私が書いたものに深く共感できた、と語った。

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クセニャーさん

私は、幼いころから自分はこの国、日本の人間ではないように思っていたが、それでは「どこの国の人間か」と問われると、答えがないので困っていた。

そのことが、成人した私が「在日へのあこがれ」という奇妙な感情を抱くに至ることにつながっていく。

 

 

それは大学に入って、鈴澤先生という主任教授に父親像を投影したことから始まった。

鈴澤先生は、1960年代から70年代にかけて在日朝鮮・韓国人の権利擁護のために奔走していた知識人である。

鈴澤先生は、それが社会的に選び取った立場であるから、何かというと過剰なまでに在日の人たちの味方となった。たとえ殺人のような悪いことをやっても、犯人が在日の人ならば、鈴澤先生は同情的な言葉しか吐かないのであった。

 

その同情的な言葉を、私は自分にかけてほしかった。

「父」である鈴澤先生に、存在を認めてほしかったのだ。

 

母親に虐待されておかしくなっていた自分の苦しさを、この鈴澤先生に承認してもらいたいがために、私はひそかにこう考えていたのである。

「ぼくが在日じゃないから、鈴澤先生はぼくの苦しさには見向きもしてくれないんだ。もしぼくが在日ならば、先生はぼくの生きづらさを認めてくれるだろう」

そこで私は、

「在日になりたい」

と心の底から願ったのである。

 

しかも、在日になれば、どこか「自分はこの国の人間ではない」という幼いころからの違和感も、それによって根拠を与えられ、私の中で正当化されるのであった。

 

社会的に考えれば、これは不謹慎な願望ということになるのだろう。

当時の在日朝鮮・韓国人の人たちが日本社会から受けてきた現実的な艱難を顧みず、知識人からの同情や庇護を欲するがあまり、「在日になりたい」などというのは、当事者、つまり当の在日の人たちから見れば、

「まったく自分たちの現実をわかっていない、けしからん奴」

ということになるのである。

しかし、社会を知らない日本人の遅熟な若者であった私の中では、その感情が内的な真実だったのだ。

 

 

facebookへコメントをくださった中で坂本勲さんは、外国人にアイデンティティを問われ、「在日日本人」と答えたことがあるという。

私もだいぶ齢を重ねてから、たとえば四十代には、自分のアイデンティティをそのように語ったことがある。

もし私が、高校生のころから「在日日本人」という概念にたどりついていたら、私のその後の精神的発育はもっと違う展開を遂げていたのにちがいない。

すなわち、「周囲に帰属したい」と願うのではなく、むしろ周囲とは訣別し、自分の独自性を真正面から打ち出していく人間になっていった可能性が考えられるのである。

 

 

いっぽう、蹌浪さんが本ブログのコメントで、

「私の中では世の中のものは自分と「それ以外のもの」の二種類しかない」
と書いておられるが、考えてみれば、これが真実にもっとも近い感覚なのではないか、とも思う。

 

自己と自己以外。

自己と世界。

その二つが峻別され、対峙するというのは、デカルトが言ったとされる

「我、思うゆえに我あり」

という近代哲学の出発点を思い起こさせる。

また、

「世界-内-存在 としての自分」

というような実存主義の出発点も、ここから始まるように思う。

 

となると、そうではない発想、すなわち、

「私とあの人は同じ。なぜならば同じ民族だから」

というような、「自分以外」であるはずの「他者」を何らかの理由によって自分へ取りこみ、「自分たち」という集合にたばねてしまう考え方こそが、真実から離れた幻想である、と言える。

 

平たく言えば、

「人は誰でも異邦人である」

ということである。

 

だが、そのことを早いうちに自覚できる人と、なかなか自覚できない人がいる。

 

私の場合は、この

「自分は、日本に生まれた日本人なのに、この国では異邦人である」

という居心地の悪さが、二十代の頃どうしようもないほど極大化し、それで一つの選択をしたのであった。

 

「異邦へ行ってしまう」

という選択である。

 

異邦へ行けば、誰でも異邦人である。

もともと異邦人である私は、異邦へ行くことによって、もともと持っている「異邦人」という属性を、遠慮なく全身に帯びることができたのだ。

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インド放浪から帰ってきた21歳の私


日本にいる場合、何か周囲とはちがうことをやると、変な目で見られる。

「へんな奴」

ということで白い目で見られ、存在をそのまま受容されない。

「文化」「習慣」の名のもとに、周囲への同調を強要される。

 

しかし異邦にいれば、何か周囲とはちがうことをやっても、

「ああ、この人は異邦(東洋)から来た異邦人だから、このように自分たちとは異なる行動を取るんだな」

という理解のされ方をし、その理解に基づいて存在を受容されるのである。

こうして、異邦では、私は私のままで、つまり「へんな人」のままで、存在しつづけることができる。

 

だから、二十代の私は好んで異邦へ行ったのであった。

そして、異邦にいることの心地よさに浸った。

 

まだ「ひきこもり」という語が流通していなかった1980年代に、同じひきこもりをするにしても、日本ではそうとう肩身のせまい思いをしなければならなかった。

自分がひきこもっている状態や理由を、周囲の人々がわかる言葉で説明できなかったからである。……否、たとえ説明できても、やはり肩身のせまさは残ったかもしれない。

ところが、それが異邦においては、異邦人ならではの奇妙な生活パターンとして人々に受け取られ、それで肩身をせまくすることなく暮らしていくことができたのである。

あるいは、異邦人であることでもともと持っている肩身のせまさへ、それは収斂されていたのかもしれなかった。

いずれにせよ、異邦では私が私でいることが、より寛大に許された。

これが、若い頃の私が「そとこもり」、すなわち海外ひきこもりを続けていた理由であった。

 

 

本シリーズ「海外ひきこもりだった私」を書き始めて、何年もかかって、ようやく核心の部分に近づくことができた。

 

 

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・・・「海外ひきこもりだった私(24)」へつづく

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