VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(224)「地域で支えるひきこもり」運動の危険性 その3

f:id:Vosot:20200218003930j:plain

 

 by ぼそっと池井多

 

昨日に続いて、「地域で支えるひきこもり」へ高まる気運のことを考えている。

これまでのお話はこちら。

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

 

これだけひきこもりと「地域」は相性が悪いのに、なぜ「ひきこもりは地域で支えていく」などということが、さかんに語られるようになったのだろうか。

 

その発端には、昨年の初めに「8050問題の象徴」などとして報道された札幌母娘餓死事件(*1)があるように思う。 

 

あの事件は、「8050問題」の象徴などではなかった、ということを、上記の記事「やっぱり今日もひきこもる私(22)」では述べさせていただいた。

 

そして、札幌母娘餓死事件が人々の涙を誘ったとき、あの事件は

「地域に見捨てられた貧困層が孤立して餓死した」

といったイメージで広まっていったと思う。

 

そのため、人々は、

「これは何とかしなければ」

という焦りに駆られたのだ。

 

しかし、それは本当だろうか。

あの事件を冷静に振り返ってみよう。

 

悲劇が起こる何日か前に、近所の銭湯のご亭主が、やがて餓死することになる娘さんに声をかけていたことが、事件後の取材で明らかになっている。

また、近所の人も、その母娘に生活保護の申請を勧めていたこともわかっている。

つまり、彼女らはけっして「地域から見捨てられて」亡くなったのではないのである。

「彼女ら自身に周囲に助けを求める力がなかった」

ということが、悲劇の直接の原因であることは明らかだ。

 

また、餓死という亡くなり方は、お金も食べるものもなくなって、困窮のうちに亡くなった、つまり貧困死といったイメージに直結しやすい。

ところが実際は、亡くなった母娘の部屋からは9万円の現金が見つかっている。

9万円があったからといって、彼女たちが貧困層でなかったことにはならないが、「所持金が尽きて亡くなった」といったような、画に描いたような貧困の悲劇ではないのである。

 

では、なぜ彼女たちは餓死しなければならなかったか。

おそらく理由は、彼女たちの「権利意識のなさ」といったものに求められるのではないか。

少なくとも「地域の冷たさ」よりも、その方が格段に切実だろう。

 

しかし、それを解明するのは至極むずかしいことだ。だから、人々はわかりやすいイメージに走りたがる。すなわち、

「地域に見捨てられたかわいそうな貧困層孤立死

といったイメージである。

 

 そして、このようなイメージが、

「それぞれの地域にいる(にちがいない)生活困窮者を助けよう」

といった運動につながっていき、その延長として

「孤立しているかわいそうなひきこもりは地域であたたかく支えてあげよう」

といった思考に結びついているのである。

 

言い換えれば、「地域で支えるひきこもり」といったスローガンは、もともとが事実誤認から始まっているのである。

 

ひきこもりの長男を父親が刺殺した、練馬事件などを見ても、

「地域で支えるひきこもり」

などという運動が起こっていれば、あの元農水次官の父親が家庭の中の恥を捨て近所に助けを求めるようになったとは、ちょっと現実的には考えにくい。

 

結局、求められるのは人々の意識改革である。

意識の変革は、たとえば「地域」といった、日常的に顔を突き合わせるような近い人たちから働きかけられるのが効果的だとは限らない。いや、むしろそれが逆効果に作用する場合の方が多いだろう。

私だって、「近所のおばさん」に意識変革を求められたら、即座に反発するかもしれない。それが良いこととか悪いこととか価値判断を超えて、そうすると思う。

 

 

けっきょく「地域で支えるひきこもり」などということを提唱している人たちは、ひきこもりの気持ちを何もわかっていないのだ。

 

 

 

 関連記事

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

 

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020