「スパゲッティの惨劇(70)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
同年代の仲間たちと、
「親の死に目に会えない、ということはどういうことか」
という話で盛り上がったことがある。
私が幼い頃は、
「そんなことをしていると、親の死に目に会えないぞ」
などと、さんざんおどかされたものだ。
いまの若い人たちは、この日本語じたいがよくわからないかもしれないので、少し解説しておくと、
「そんな悪いことをしていると、親が死ぬ瞬間にその横にいられなくなるぞ」
という意味である。
「そんなバカな」と、多くの若者は思うであろう。
その通りなのである。
そこで語られる「悪いこと」が何なのか、という根本的議論もさることながら、そういう結果にむすびつく原因として、「親の死に目に会えない」という事態が罰(バチ)として持ち出されることには、一考を要さなければならない。
「親に死に目に会えない」ということが、懲罰として語られているのである。
このような懲罰が持ち出される背景には、子どもが親を好きで好きでたまらず、親が死ぬといった最後の瞬間にはぜひとも傍らにいたいと子どもが思っている、という前提が必要である。
もちろん、そういう健全な親子関係を持った人もなかにはいるだろう。
私のように、母親に虐待されつづけ、さらに父親もそんな私をいささかも救ってくれないどころか、母親の虐待を脇から支えていたという者にとっては、
「子どもが親を好きで好きでたまらず、親が死ぬといった最後の瞬間にはぜひとも傍らにいたい、と子どもが思っている」
という前提が存在しない。
養育や子育てというプロセスにおいて、教育圧力その他、子どもの私が望まないことをつぎつぎを施され、それでいて
「ありがたいと思いなさい」
などと、あたかも私が望んでいるからやっているかのように文脈をすりかえられて、何かにつけて恩を着せられ育ってきた私にとって、いまさら間もなく死のうとしている親に対して、
「育ててくれてありがとう」
「養ってくれてありがとう」
などとは、さらさら言いたくもないのである。
私にとっては、父親はまだしも、とくに虐待の主犯である母親が重篤となった病床に、もし私が呼ばれたならば、まわりに弟夫婦や看護師などがいないことを確かめて、動けなくなった母親の耳元に、
「お前。さんざん私に何をやってきたか、おぼえているか。
お前がおぼえていなくても、私はおぼえているからな」
などと囁き、よけい苦しむ最期にしてやりたい。
親不孝者などと罵りたい人は罵ればよい。
それほど、私の中には抑えられない怒りが渦巻いている。
幼くて無力な私に母親がやったことを、老いて無力になった母親に私がしてやりたいのである。
いずれにせよ、私のような者にとっては、「親の死に目に会う」ことで、よいことは何もないような気がする。
となると、
「そんなことをしていると、親の死に目に会えないぞ」
というフレーズが脅迫や警告として機能しないのである。
そとこもりの日々の怯え
そうであるにもかかわらず、私が幼いころ、……いや、若いころまでも、「親の死に目に会えない」ということを、心のどこかで「避けなくてはならないこと」として私は認識していたと、告白しなければならない。
たとえば、私は20代の大半を海外ですごし、そとこもりをしていたわけであるが、そのあいだ常にある不安を抱えていた。
それは、
「こんなに日本から遠いところに居て、もし日本から『親が死にそうだ』という報が届いたらどうしよう」
という不安であった。
私は、他の日本人と会うのもいやだったので、できるだけ日本人がいない国や町をえらんで滞在し、ひきこもっていたわけだが、そうするとニューヨークやパリといった日本から交通の便が良い街は捨象される。
私が長逗留していたのは、アフリカ、アラブ、アジアの奥地が多かった。
すると、まず電話が通じない。航空便も、日本から届くのには一ヵ月以上かかったりした。
こんなところまで、そんな知らせが届くだけでも時間がかかり、届いたころには親が死んでいるのではないか。
それは、私が『親の死に目に会えない』ということであり、それは一番まずい事態が起こってしまうということではないか。
……意識の下ではそのように考えていたからこそ、私はどこの国でもつねに落ち着きがなく、えもいわれぬ不安に駆られていたのである。
だからこそ、「父親が通風という病気にかかって死にそうだ」という内容の手紙が母親から届いたときに、私は冷静に処理できず、南アフリカから日本に帰ってきてしまった。
帰ってきたら、何のことはない。
父親は、ぜんぜん「死にそう」ではなく、痛風という病気も、命にかかわるものではまったくなかった。私は、またしても母親の嘘と脅迫にだまされたのだ。
いちど帰国してしまうと、また出ていくのは大変だ。財力もいる。私は、ふたたび日本を出ていく力がなかった。それで私がそとこもりとして海外ですごす時代は終わってしまったのだ。
こうして振り返ると、私のそとこもり時代の終わりも、
「親の死に目に会えない、となったら、大変だ」
という当時の認識が原因となっていることがわかる。
日本に帰ってきても、けっきょく私は「ふつうの人」たちの日本社会へ入っていくことができず、4年ののちに、今度は国内でガチこもりになった。しかし、このガチこもりの期間にフロイトを読み、自分の精神構造を深く解明することができた。
それからあとは、
「親の死に目に会えない、となったら、大変だ」
などとは考えなくなったけれど、そのときはすでに私の生活は日本国内に深く根が生えてしまっていた。
そして、現在のひきこもり生活に至るわけである。
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・・・「スパゲッティの惨劇(72)」へつづく