VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(235)私にとっての横浜とは何か。そして、戸籍謄本を取りにいった。

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写真・ぼそっと池井多

by ぼそっと池井多

 

前回「やっぱり今日もひきこもる私(234)」に続けて、私が横浜へ戸籍謄本を取りに行ったお話をさせていただく。

 

伝説の地名

横浜は、私の母方の地である。

父は東京・足立区北千住の人であったが、母と結婚して、新婚生活を営み始めたのは横浜であった。母の母、すなわち私の祖母が横浜市内のある区役所の前に暮らしていたためだと思う。

こうして、私も横浜で生まれた。

だから、

「生まれはどちらですか」

と聞かれるたびに、私は

「横浜です」

と答えざるを得ない。

すると、すぐさま「浜っ子ですね」などと言われるのだが、私が横浜で暮らしたのは2歳までであり、「浜っ子」を自称する資格はないように思う。

 

2歳のときに横浜から千葉県へ引っ越してからも、両親の会話の中には、よく横浜の地名が出てきた。

山下公園、六角橋、小机などなど、私が自分の目で見ることのない地名が親たちの会話にあふれた。

ちょうど全世界のキリスト教徒にとって、ベツレヘムだのサマリアだのナザレだのといった聖書に出てくる中近東の地名が、自分が生活の中で見知っているリアルな地名とは別に、いわば「伝説的地名」として脳裡に存在しているであろうように、家の中で両親の話に出てくる横浜の地名は、私にとっては何ら生活的な現実味を持たない、物語の中の地名、「伝説的地名」として記憶されていった。

横浜は、私にとってすなわちそういう意味を持つ。

 

その後も、年に一回か二回、正月や法事などのとき、私は親に連れられて「横浜詣で」をつづけた。先ほど述べたように、母方の実家が、ある区役所の前にあったからである。

私が5歳のときに祖母が亡くなって、母の兄、すなわち私にとっての伯父がそこの当主となってからも、私の「横浜詣で」は続いた。そう、私が両親と音信不通になる30代後半まで……。

 

出発の地へ戻った原家族

このように、私たち家族の歴史は横浜から始まったわけだが、その後は父の会社の都合で日本のあちこちを転々とした。私が20代でそとこもりをしている間に、母は名古屋にマンションを買ったので、もう家族の歴史も名古屋で終焉を迎えるものだと思っていた。

ところが弟が結婚すると、母は弟夫婦に、横浜に新居を持たせた。そして、弟を追うように、母と父も長年住み慣れた名古屋を捨てて、横浜へ戻ってきたのである。

彼らは、家族の最終章へ向けて出発点に戻ったのだった。

 

そこには、母の強い望郷の念が働いたのだと思う。

父の中に、どれだけ横浜に終焉の地を定めたい気持ちがあるのか、わからない。父自身は、横浜とはある意味、対照的な土地柄である下町、東京・足立区へ郷愁を感じているはずである。

それとも父は、たくさんの兄弟姉妹や親戚に囲まれて暮らしてきた下町、千住を脱出したかったのだろうか。そのように母方のコミュニティに帰属することによって、父は父なりにワンランク上の生活を目指し、「階級上昇」を図ったのだろうか。

ともかく、私を除く家族、すなわち母と父と弟は、2004年に横浜にふたたび集結し、近居というかたちで一緒に棲むようになった。

 

そこで振り捨てられた存在がいる。私である。

いわば、池井多家が故郷へ戻る船から振り落とされた形で、私はひとり東京郊外のボロアパートに生活保護で暮らすようになった。

だから、私にとって横浜は象徴的な故郷である。

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 またしても「なりすまし」の私

さて、このたび私が戸籍謄本を取りに行く区役所は、先ほども述べたように、母の実家の真ん前にある。

幼い私は「横浜詣で」のたびにここを訪れていたので、区役所は私にとって原風景でさえある。しかし、中へ入ったことはなかった。

これまで私は、パスポートを申請したり、戸籍謄本を取り寄せたりしたことはあるはずだが、そのためにこの区役所に足を運んだ記憶がないのである。

私が幼時だったころから変わっていない、まるで病院のように殺風景な建物である区役所は、私がいつも目の前に見ている建物であり、けっして自らが「訪れる」対象ではなかったのだ。それを、こんな経緯で訪れ、中へ入ることになろうとは。

 

ふと見ると、区役所の前の、かつて母の実家の平屋があったところは、細長いエンピツのように突っ立ったマンションに変わっていた。

私より三歳下の従弟が当主になっていることが考えられる。従弟は、いまどき儲からないタバコ屋をつぶしてマンションに建て替えたのか。時代に見合った転換とも思えた。

ところが、その隣にある、昔から呉服店を営んでいた家は、相変わらず古い風格のある店舗のままそこに存在していた。

覗いてみると、中はカフェとなっている。呉服屋という商売も、タバコ屋と同じように、儲からない店となっているのだろう。

私は、区役所の窓口へ行く前に、中毒気味になっているコーヒーを体内へチャージすることにより、気力を盛り返そうと考え、そのカフェに入った。

出てきたコーヒーをいただきながら、そこのマスターに声をかけた。

「私は昔、この界隈をよく通った者なんですけど、お隣の家は、今マンションになっているようですが、たしか以前はタバコ屋さんだったですよね」

少し白ばっくれて、そう聞いてみた。

私は、またしても「なりすまし」であった。

ほんとうは、隣の家の血縁であるにもかかわらず、一族と音信不通になって二十年ともなれば、通りすがりの者に「なりすまし」をしなければ、私は私として社会的に前へ進めないのであった。

カフェのマスターは30代に見えた。

となれば、50代の私が幼少であるころに、この界隈へ出入りしていた姿を目撃したとは思えない。それどころか、彼は隣の敷地がタバコ屋であった時代すら知らないかもしれない。

 

そう考えていると、意外にも彼はすらすらと答えてくれた。

「ええ、そうですね。隣はタバコ屋さんでした。そこのお父様が亡くなって、しばらく娘さんが住んでいましたが、今では娘さんもいなくなって、他のオーナーが入って、2年前にこのマンションを建てたようです」

「あ、そう。ありがとう」

私はいかにも関心なさそうに、そっけなく答えを聞いて見せた。しかし、内心は激しく動揺したのである。

彼がいま語ってくれた「亡くなったお父様」とは、私の伯父に他ならなかった。母の兄である。

(伯父さんは、亡くなったのか……。)

そして、「しばらく住んでいた娘さん」とは、私の従妹にちがいない。私の弟と同じ齢であるはずだ。

その上の従弟はどうしたのだろう。

しかし、あまり個人情報をしつこく聞きだすのも怪しまれると思い、懸命にその先の質問を止めた。

 

いまさら、

「じつは私は……」

などと告白するわけにもいかず、そのまま関心なさそうな表情を顔に貼りつけたままカフェを出た。

 

伯父は、年齢的には私の父の一つ上でしかない計算になる。明らかに死は、私の家系でも、その世代へ着実に訪れているのだ。

だが、醒めて考えてみれば、年齢と死との間には、いったいどれだけの関係があるというのだろう。若くして死ぬ人はたくさんいるし、逆に長寿の人がたくさんいる。

もし伯父が生きていたら、今、88歳という計算である。長寿ではないか。統計学的にいっても、その死はなんら驚くに値しないはずである。ところが、伯父がその齢で死んでいるということは、

「おそらく私の父も、もうこの世にいないのでは」

という感覚を私にもたらしたのであった。

 

区役所のカウンターで

私は覚悟を固めた。そして区役所の中に入っていったのである。

 

戸籍謄本を請求する書類を書き、受付の人に手渡すと番号札を与えられた。それを持ったまま、しばらくベンチで待つことになった。

私が手のひらに握りしめている番号札が、何やら私の家族の運命を握っているようにも思えてきた。

やがて、その番号が呼び出された。

私は立ち上がり、カウンター越しにその番号札を渡し、係りの人から一枚のペラっとした紙を渡された。

一枚のペラっとした紙に、私の家族の現在の運命が集約されているのである。

私はおそるおそるそこへ目を落とした。

 

 

父の名も、母の名も、そこに書いてあった。

とくに追記されていることがない。

 

私は怪訝に思って、係りの人に尋ねてみた。

「こうやって、二人の名前がここに書かれているということは、この二人はまだ生きているということでしょうか」

まるで小学生のような馬鹿な質問であったにもかかわらず、プロの公務員である区役所の人は、なんら感情的な色づけを加えずに淡々と説明した。

「そうですね、もしお亡くなりになっているようでしたら、この方々の前、こちらの欄に『除籍』と印字されて出力されてきますから」

その係員は、戸籍というシステムの完璧さを力を入れて説明したいようであったが、それを聞いている私の関心は、もちろんそんなところにはなかった。

 

私の中で、低音の管楽器が鳴り始めた心地がした。

父も母も生きている。

とくに父は、87歳という高齢になる計算であるのに、まだ生きている。

父は五人兄弟姉妹で、もっとも上の兄が80歳で亡くなったところまでは、私も一族を放逐される前のことだったので知っている。20年以上前のことだ。

それを知って、あのころ私は、

「うちの父も80ぐらいかな」

などと寿命を予測したものだ。

しかし、長兄よりも父ははるかに長生きしているではないか。

 

ただ「生きている」というだけで、その状態はどういうものかわからない。例えばずっと入院していて、病院で何本ものチューブに繋がれ、ただ生命を維持しているだけかもしれない。そういう状態でも、この書面には『除籍』と表示されず、つまりは「生きている」と出力されるのである。

しかし、ここにおいて「生きている」という状態の公的保証は、どんなに大きな価値を私にもたらすものであろう。

私は、ここから大きな可能性を突きつけられている、と言ってよい。 すなわち、せっかく生きているのだから、これから私たち親子が再会し、対話し、関係を修復する可能性である。それは、ほぼ夢物語に近い。しかし、夢物語はゼロではないのである。

もし私がまだ両親と対話ができるとなったなら、私はいったい何を対話することを望むだろうか。

 

私がもっとも知りたいのは、親が「本当は」私をどのように思っていたか、ということである。

この「本当は」という部分がものすごく重要だ。

例えば、父親に対して問うならば、

「あなたが、母親の私への虐待の片棒を担ぎ続けたのは、母親に、すなわち妻という家庭内権力者に命じられて、仕方なくやっていたことだったのか。 それとも、あなた自身が本当にそうすることが良いと信じてやっていたことなのか」

という質問である。

父親の歴年の行動が、彼自身の信念によるものなのか、それとも情けない番犬として半ば不本意に仕方なくやっていたことなのか。それによって、私から父親へそのさき問いたいことも、言いたいことも、みんな変わってくるからである。

 

いっぽう母親に対しては、

「なぜあなたは私にあのようなことをしたか」

という質問がまず思い浮かぶ。

そこで母親は「憶えていない」と答えることが、まず予想される。

私はそれを認めない。

なぜならば、私は長年一緒に暮らした人間として、母親という人間をよく知っており、母親が「憶えていない」というのは嘘であるということも私が知っているからである。

もし母親が、本当に正直になったとしたら、私の質問に答えるであろう彼女の答えは、こうかもしれない、とも想像している。

……すなわち母親は、今の私がそうであるように、結婚も子作りも本来したくはなく、ただ自己実現に邁進したかったのである。なぜならばそのような手段によってしか存在承認が得られないと感じるように、母は、彼女の母に育てられたからであろう。

ところが、そこで社会の同調圧力に屈し、所属している日本社会に要請される人生のマニュアルに従い、23歳で結婚し、26歳で第一子、すなわち私を産んでみた。

しかし、それらは彼女の人生の内発的な希求からは乖離している行動であった。

結局、私という存在を、母は自分で産んでしまったものの、私という存在は、彼女にとって、彼女自身の人生の時間を奪うだけの存在としてしか感じられなかった。

私は、母の自己実現を邪魔するだけの存在だったのである。

だから、母は私を憎んだ。

しかし、憎んでいる、ということも認められないまま、毎日のように虐待した。

「親が子を憎く思うわけがない」

などという世間的な教条を隠れ蓑として、いつでもどこでもそばにいて好きなだけ虐待できる存在が長男の私であった。

けれども、

「なぜ、お前は生まれてきた。なぜ私の人生の時間を侵食する存在として、お前はこの世界に出現したのだ」

と母から私に責任を問われても、私は困る。

答えようがない、というか、

「それは私の責任ではありません」

というしかない。そして、

「それで、虐待されなくてはいけない義務はありません」

といってやるほかないのである。

 

ともかく、母はそれでせめて私を彼女の自己実現の道具として客体化することにより、彼女の内面からこみあげてくる根源的な不満を処理しようとした。

すなわち、私を競走馬として鞭打ち、自分が選んだ配偶者である父親の持っていない高学歴、とくに結婚前に自分が恋した男が在籍していた一橋大学の学位を私に持たせようと、ヒステリックに教育圧力を加えた。

このヒステリー自体、母親のエロスの産物である。……

 

このような答えが、もし母親の口から語られるならば、たとえその内容が私を深く傷つけるものであっても、私はある種の深い満足を得るのではないか。

そして、そこから先の、母と私の対話も拓けるのではないか。

なぜならば、そのような答えからは、母も一人の人間であり、同じように私も一人の人間である、という前提が保証されるからだ。そうした正直な回答によって、母と私の人間的対等が極限のフェイズに置いて実現する。

 

戸籍謄本は取得した。

父も母も、あれだけの高齢にもかかわらず、まだ生きているということがわかった。

思わず「ああ、よかった」という言葉が漏れてくる。

 

ちょっと待て。これは、解放であろうか。

否! ……これは、ある意味では新たな拘束である。私は新たな課題を背負いこんだのに他ならない。

すなわち、せっかく親が生きているならば、その事実をどのようにしたら最も実りある形に活かすことができるかを、私はこれから考えなくてはならなくなったのである。

せっかく生きているのに、このまま何もしなければ、そう遠くないうちに、必ず二人は「もう生きていない」状態へと移行する。となると、今回獲得した僥倖をドブに捨てることになるのだ。

まるで鮮度が衰えるのが早い魚を入荷したようなものであった。

こうして、新たな問題を抱え込んだわけだが、 しかし、私は今までだって手を尽くして両親と対話しようとしてきた、ということを思い返す。 両親の方が、私との接触や対話を避けて逃げ回っているのである。

そうである以上、「両親が生きている」とわかったところで、けっきょく私にできることなど何もないのではないか。この音信不通の状態は、しょせん彼らが死ぬまで続いていくのではないか。……

 

葛藤した思考をグルグル回りながら、私は横浜からの帰途についたのであった。

 

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