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やっぱり今日もひきこもる私(264)コロナ感染した友人との関係性

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Photo by Pixabay

やっぱり今日もひきこもる私(263)」からのつづき・・・

 

by ぼそっと池井多

 

前回「やっぱり今日もひきこもる私(263)」では、けっして友人が多くはないひきこもりの私でも、すでに友人のうち3人もコロナに感染してしまった、ということを書かせていただいた。

にもかかわらず、私の正直な感覚としては、コロナは「他人事」の領域から出てこず、とうてい自分の「トラウマ」にはなっていない、というお話であった。

感染者を孤立させてはいけない。かわいそうだから共感してあげよう。……そういったことは、スローガンとしてはいくらでも言えるが、では「現実的に」どうするか、となった時に、ここにはむずかしい問題がある。

 

感染者を「心配する」むずかしさ

それでは、コロナに感染した、この3人の友人を私は心配していないのか、というと、そんなことはない。もちろん心配しているのである。

20代の現役力士でさえコロナで亡くなってしまう(*1)ので、いくら若くて丈夫でも、一般人である私たちにも死は迫っている。これを心配しないわけがない。

しかし、ここでいう「心配」とはいったい何であろうか。

 

*1. 大相撲の現役力士がコロナで死去 三段目勝武士さん、28歳
時事通信 2020.05.13
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020051300544

 

3人のうちの1人に話を絞ってみる。

彼女もひきこもりで、両親とは別居、独りで暮らしているらしい。

「コロナに感染して、部屋に自己隔離している」

と聞かされてから、初めのうちは、私は毎日でも彼女の容体を気づかうメールを出してあげようかと思った。

岡江久美子さんの場合がそうであったが、コロナはどうやら、はじめは微熱で始まったとしても、ある日とつぜん重症化し、そのときを境に意識はなくなり、言葉も交わせなくなり、何日か人工呼吸器につながれたあげく、亡くなってしまうということがあるらしい。

となると、この重症化する「日」が境目となる。その日の前しか、まともに話ができないことになる。

いや、午前はまだ元気で、午後のある時間から急速に重症化した、などという話も聞くから、重症化する「日」ではなく「瞬間」が境目となるのかもしれない。

だから、彼女にその瞬間がやってこないかと「心配」し、

「今日はどんな調子?」

「今日は元気?」

などと毎日のようにメッセージを送り、容体を聞きたくなったのだ。

 

……しかし、「待てよ」と私はためらうことになった。

 

「万が一の時は駆けつける」という虚しさ

その人と私は友人といえども親密な関係ではない。独り暮らしの彼女には、おそらく万が一の時に駆けつけてくれるような親密な関係の人がいるだろう。

となれば、なにも彼女の容体を毎日、私が心配してあげる必要はないわけだが、そもそも心配とは、必要があってするものでもない。

だから、どうしても毎日、様子伺いのメールを出したくなってしまったのだ。

つまり、彼女が重症化する境目を跨いでいないかどうかを確かめるメールだった。

 

しかし、考えてみると、もしそれで彼女が重症化の瞬間をすでに跨いでいたら、それでどうだというのか。

まず「駆けつける」というわけにいかない。

他の病気でもそうだが、コロナの場合はとくにそうである。

外出自粛をよいことに、まったく外出しなくなっているひきこもりの私が、そのためだけに外出し、彼女のアパートに駆けつければ、それだけ感染のリスクを広げることになる。また、そこまでリスクを冒して駆けつけてあげても、何ができるものでもないのだ。

というのは、もし受け入れてくれる病院があるなら、彼女はそこへ行けばよいだけである。

私たちひきこもり仲間は、かなり親しくても、お互いの住所は知らないものだ。メールアドレスやSNSのIDだけ知っていれば、住所は必要ないからである。最近では電話番号も教え合わない。

彼女と私もそういう間柄なので、私が彼女の居宅に救急車を呼んであげるわけにもいかない。というか、先に述べたように、そういうことをしてくれる人は他にいるだろうから、そういうことはその人に任せておけばいい。

駆けつけてもできることはないのである。

 

 

コロナが重症化しても生還した、という人の体験談などを読むと、

「重症化したときに、なかなか保健所に電話がつながらなくて困った」

という話が出てくる。

そういう時は、ひたすら電話をかけては切り、かけては切り、という単純作業が必要になるし、高熱が出ているときに、そんなことをやる気力もなくなるだろう。

けれども、感染者本人に代わって、友人である私がそれをやってあげるわけにもいかない。

こうなると、たとえ彼女からメールがあって、彼女のコロナ感染が重症化を始めたと私が知っても、遠く離れ、住所も知らない私には、何もできることはないのである。

 

けっきょく彼女の容体も、あるいは生死でさえ、私の「知りたい」という欲望を満たすだけの対象と化してしまうのではないか。

そんなことを彼女は望んでいない。

となれば、これは聞かない方がよいということになるのである。

 

感染者との関係のむずかしさ

「いやいや、そういう問題ではない。

心配するのは、実用性ではなく気持ちの問題だ。

たとえ何もできなくても、『大丈夫?』と毎日メールしてあげればいいのです」

などという人もいるかもしれない。

 

ところが、私の他にも似たようなことを考えている友人は彼女のまわりにたくさんいるらしく、どうやら彼女は、感染者の体調の変化に探りを入れてくる、この手のお加減伺いのメールの山にうんざりしている様子であった。

そういう様子が、返信の端々から伝わってきた。

なるほど、彼女にしてみれば、ただでさえ熱があって、メールに返信するのがかったるい。そんなときに、

「はい、私は大丈夫です」

「はい、今日はまだ重症化してません」

などと一人ひとり返信しなければならないとは、なんと面倒なことだろう。

 

そんなわけで、彼女がコロナに感染したと知ってから、私が容体をうかがうメールを出したのは一度だけで、あとはメールや連絡を控えるようにしているのである。

これでは、彼女のコロナ感染は、私自身にとって「自分事」というにはあまりに遠く、ましてや私の「トラウマ」などとはとうてい呼べない。

 

「コロナを他人事とは思わないようにしよう!」

「自分のことだと思って共感してあげよう!」

 

などとスローガン的なことを口で叫んでみても、やはり彼女のコロナ感染は「他人事」なのである。

 

知らんぷりをすればよいのか

それでは、友人が感染した時には、とにかく何もしないで放置すればよいのだろうか。

それもまた、ちがうように思うのだ。

 

それはともすれば、

「感染した人には、みんなで知らんぷりをしましょう」

ということになりかねない。

 

それまでどんなに親しく交流していても、いったんコロナに感染したならば、もうこの世界に存在しないかのように、誰も相手にしなくなるということになりかねない。

それでは、ただの感染者差別と同じではないか。

 

感染者との関係性の作り方はかくも難しい、ということに気づかされている昨今である。

 

(了)

 ・・・「やっぱり今日もひきこもる私(265)」へつづく

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