「海外ひきこもりだった私(24)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
ちょうど四半世紀前の今ごろ、私は一人の師匠を喪った。
梅雨に入り始めた蒸し暑いこの季節に、I師匠は急逝したのである。
いまの私と同じ年齢だった。
急逝といっても、周囲の人々は大方わかっていたらしい。
私にとって「急」であった、というだけの話だ。
師匠は、その前年に青梅マラソンを完走している。
あとからわかったのだが、そのときにはもうガンが見つかっていたらしく、
「それでも自分はマラソンを完走した」
ということを自分への心の支えとするべく、必死で走りおおせたものらしい。
50代後半になると、私の周囲でも、なにやらマラソンを始める人が増えてきた。
健康のためにそんなことを始めるには、これが年齢的に最後のチャンスだから、ということがあるのだろう。
「フルマラソンを走った」
というと、なにやら「健康である」「まだまだ生きる」ということの保証書のように思えるからでもあるのではないか。
しかし、そういう人たちを見ても、私はどこか胡乱な目つきで眺めてしまう。
I師匠の記憶があるからだ。
「フルマラソンを走ったって、人間、死ぬときは死んじゃうんだから」
とでもいうような、投げやりな気持ちが心の底辺にとぐろを巻いている。
さらに、それが
「しんどいことはやりたくない」
という怠け心とないまぜになって、いっこうに今さらマラソンなど始める気持ちにならないのである。
*
考えてみると、私は人生で師事した人が二人いる。
師事した、といっても、一方的にこちらが師事した気持ちになっていただけであって、彼らは私を弟子と考えていたのかどうか、よくわからない。
一人は、本ブログでもよく鈴澤先生の名前で出てくる、私の大学時代の主任教授である。
鈴澤先生には父親像も投影した。
もう一人は、「そとこもり」から帰ってきた私を、一気に「国際ジャーナリスト」などという豪壮な身分に盛り立ててくれたI師匠である。
精神科の主治医であった齊藤學(さいとう・さとる)が、ひたすら私の能力が発揮されないように、私の人間つぶしを行なったとすれば、I師匠は逆に無能な私をさかんに社会に売り出そうとしてくれた恩人であった。
*
「そとこもり」していたアフリカから帰ってきた私は、しばらく何もしないで日本でひきこもっていたが、勧める人があって、アフリカ時代の体験を書いて、あるノンフィクション賞へ応募することになった。
すると、運よく部門賞の次点にひっかかり、それがきっかけとなって、初めて本を出すことになった。
ちょうど三十路に入ったころだろうか。
今の私からすると、恥ずかしくて言う気になれないので、そのとき出した本の題名その他、そのあたりに関する詳しい情報はどうかご勘弁いただきたい。
ともかく私としては、アフリカにおける「そとこもり」の「自分探し」の記録を書いたのであった。すなわち、中味はこんにち私が本ブログやHIKIPOS冊子版に書いているようなことと大差ない。
しかし、それを読む人々は、アフリカのある国を舞台にしたノンフィクション作品として読んだ。ノンフィクション賞に応募したのだから、当然そういう読み方をされるわけである。
つまり、私をジャーナリスト志望と見なしたのである。私としては、たんなる当事者手記を書いただけなのだが。
その本を読み、「会いたい」と言って、わざわざ出版社経由で連絡をくださったのが、I師匠であった。
I師匠は当時、毎日テレビに出ているほど有名なジャーナリストだったようだが、これまた私は、こまめにテレビを見ることもなく、社会の流れにもうとかったので、そういう業績はいっさい知らないままにお会いすることになった。
どうも、私の人生にはこういうマヌケな話が多い。
鈴澤先生も、そのご専攻が何かを知らないままに、ゼミの門を叩いてしまったのであった。(*1)
I師匠は私を、彼が主宰する学会へ入れてくれた。
師匠が専門分野とする、中近東やアフリカに関する学会であった。
そこを通じて、私は大学教授や各国大使など広汎な方々に知己を得ることとなる。
また、一冊の本を出しただけで、たちまち「専門家」などとおだてられ、あちこち講演に招かれるようになった。
社会的な意味では、あのころが私の人生のピークだったかもしれない。
たいした実力もないくせに、なにか勘違いして、肩で風を切って歩いていた若造であった。
中近東やアフリカは、私にとって「そとこもり」の舞台であったので、多少は造詣が深かった。
いま思えば、I師匠は私に、彼のそうした分野の後継者の一人を託そうとしたのだろう。
I師匠は、自らの命がもう長くはないことを知っていたのだ。
自分の死後、彼の学会を私たちの世代の若者に託そうと考えておられたのだと思う。
しかし、私はI師匠の期待には沿えなかった。
彼の急逝の後、私はまるで自らの存在基盤を失ったかのようにショックで鬱に落ち、人生三度目の「がちこもり」に突入することになる。
そして、人生のピークから8年後には貯蓄も使い果たし、日比谷公園でホームレスになることを覚悟するが、生活保護を受けてなんとか生き延びる選択をするに至る、という次第である。
・・・「海外ひきこもりだった私(26)」へつづく
関連記事
「スパゲッティの惨劇(62)日比谷公園のホームレス」