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海外ひきこもりだった私(26)限りある言葉の舟 ~ 私が「国際ジャーナリスト」であった理由

海外ひきこもりだった私(25)」からのつづき・・・

vosot.hatenablog.com

 

 

by ぼそっと池井多

 

一昨日、「海外ひきこもりだった私(25)」で、私が師と仰いだ、I師匠が亡くなったころの話をさせていただいた。

 

 

I師匠が急逝した25年前、日々は蒸し暑い梅雨の入口にあった。

湿気がしつこく肌にまとわりつく感覚が今、あのころの記憶を呼び起こしているのである。

 

 前回は

「社会的には、あのころが私の人生のピークだった」

などと書かせていただいた。

 

すると、多くの人はこういう疑問を持つであろう。

「じゃあ、なぜそのままやっていかなかったのか」

と。

 

中近東やアフリカを主戦場とする国際ジャーナリストという肩書きを与えられたなら、それで「喰っていけば」よかったじゃないか。

なにも社会の底辺に転落して、生活保護の無職の貧しいひきこもりになんぞならなくてもよかったじゃないか。

そのままやっていけば、もっと社会的にも尊敬される、裕福な暮らしが望めたのではないか。

……そんなふうに、人は思うことだろう。

じじつ、今まで何回もそういう質問を受けたことがある。

 

 どうしても、そうは行かなかったのだ。

そこに、私の必然性と独自性がある。

それを言葉で解きほぐしていかなければならない。

 

 

 

 

最初の一冊を上梓したとき、末尾のプロフィールのところに、私は自分の肩書きを

「ものかき」

とだけ書いた。

じっさい当時の私の名刺は「ものかき」を肩書きとし、当時のペンネーム、住所、電話番号が書かれている。メールアドレスやSNSマークは、まだ存在しなかった。

しかし、出版社の編集者が、

「『ものかき』などという肩書きはない。

こういう本をうちから出すからには、『国際ジャーナリスト』とか何とか書いてもらわないと、うちが困る」

とおっしゃるので、かなり不本意ながらも「国際ジャーナリスト」などと派手な肩書きを名乗ることになった。

それは、私の身の丈に合っていなかったわけだが、どうやらこれで私の社会的地位が固定してしまった。

その後、メディアで取り上げていただくときも、「国際ジャーナリストの○○○○さん」という言われ方をするようになった。そのたびに私は戸惑いをおぼえたけれども、自分の本で名乗っている肩書きなので、いまさら訂正するわけにもいかなかった。

 

遡れば、私はどちらかというと文学の畑の出身であった。

大学のゼミは、本ブログにもたびたび登場するように、鈴澤先生の門下だったわけだが、彼は押しも押されぬ仏文学者である。となると、たとえ何も勉強しなくても、彼のゼミを卒業した私は「文学を学んだ」ことになるのではないか。

少なくとも、私は教育機関でジャーナリズムを学んだ経験はまったくない。

 

「たかがアフリカの本を一冊出したくらいで、な~にが国際ジャーナリストだ」

と内心、自らをせせら笑っていたが、肩書きとは恐ろしいもので、そういう肩書きを持っていると、そういう肩書きにふさわしい仕事の話が舞い込んでくるようになる。

やがて私は「国際ジャーナリスト」として、毛ほども興味のなかった中国経済の本を書くことになる。

取材に使う中国語も、NHKの語学番組のカセットを買って日本を発ち、中国へ渡ってから、向こうでカセットを聞き始めるという、なんともお粗末な泥縄式の習得ぶりであった。

 

こんな身の丈に合わないことをやっているうちに、私のなかで裂け目が生じ、それが日増しに広がっていったのである。

そもそも私がはじめにノンフィクション大賞に出した作品は、こんにち私がこのVOSOTブログやHIKIPOSに出しているのと同じ当事者手記に他ならない。

それが、たまたまアフリカのある国を舞台にしていたために、政治経済を描いたジャーナリスティックな作品と見なされたのだった。

さらに、その政治経済が日本とは異なる国のものであるというだけで、冠に「国際」の二文字がつき、「国際ジャーナリスト」になっていったわけである。

 

ところが、私としては遠い外国の政治や経済など、どうでもいいことであった。

いや、「どうでもいい」と言い切ってしまうのが問題であるならば、せめて「何も、この私が言葉にしなくてもいいだろう」という内容の問題であった。

私が書かなくても、そのうち誰か他の「国際ジャーナリスト」が、もっと良い品質で書いてくれるであろう問題であった。

 

言い換えれば、私には、国際政治よりももっと他に言葉にしなければならない切実な問題があった。……他ならない、この私が言葉にしなければ、世界で他の誰も言葉にしない、言葉にできない問題が。

私の魂は、それだけ国際政治経済ではない何かによって、切迫していたのである。

 

 

 

 

 

私にとって言葉は、心身の奥深くに埋まっている傷から出る膿のようなものである。

母からの虐待、精神科医と転移患者たちからの迫害、そういったすべてのことが、灼熱の溶岩のように、私の奥底に沈殿して滞留している。

それを言葉にして外へ出してやらないと、私ははちきれそうになって、耐えられない。

だから私はそこへ言葉という舟を遣わす。

舟に、それら溶岩を載せて、私の外へ掻い出すためである。

 

限りある輸送量の言葉という舟を、私はその用途に使いたい。

国際政治経済まで、書いている暇はなかったのである。

 

しかし、このようなことさえ、当時は言葉にできなかった。

言葉にできなければ、他者へ伝えられなかった。

 

そう、I師匠という他者にも伝えることはできなかったのである。

 

だからI師匠は、自分の死後も、私という鼻持ちならない若造が、中近東やアフリカを主戦場とする「国際ジャーナリスト」としてやっていけるように、彼が営んできた学会の中央に据えてくれたのだ。

 

I師匠の死後、その学会の担い手として見なされたのは、私をふくめ5人の、いずれも30代前半の若者だった。

 

そのなかには、I師匠の実の息子である創一さん(仮名)や、I師匠の仕事上の部下である健一さん(仮名)もいた。

 

私には、彼らに連なる実力はなかった。

I師匠が持ち上げてくれていたから、かろうじて「国際ジャーナリスト」として通用していたが、存在の基盤であるI師匠が亡くなると、私は砂糖菓子のようにもろくも崩れ去るしかなった。

その結果として、私はI師匠の期待にも応えることができなかった。

 

1995年以降、私はまた深いうつへと落ちていき、家から出られなくなって、魂の底辺を彷徨することになる。

 

 

 ・・・「海外ひきこもりだった私(27)」へつづく

 

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