VOSOT ぼそっとプロジェクト

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海外ひきこもりだった私(27)支援者は支援の対象を「語る」ことしかできない

海外ひきこもりだった私(26)」からのつづき・・・

by ぼそっと池井多

 

前回「海外ひきこもりだった私(26)」で述べたように、I師匠が主宰していた「中近東とアフリカを語る会(仮称)」の運営は、I師匠の死後、私たち30代のメンバーたちに委ねられた。

 

いま書くにあたって、このように団体名を仮称にしたのだが、実在するほんとうの団体の名称も「……を語る会」で終わる。

「……学会」とか、「……を考える会」とかといった、その手の団体によくある名称ではないのである。

 

私の主治医、精神科医の齊藤學(さいとう・さとる)のように、自分を会長とする「学会」を6つも7つも作って、それらすべてが機能していない者もいる。

こうなると、みっともないことこの上ない。

 

そこへ行くとI師匠は、「学会」という語の持つ空虚な権威を嫌った。

 

また、「……を考える会」というネーミングにしても、対象が中近東やアフリカであるために、いちおう先進国であり文明国とされている日本の私たちが「……を考える会」とすると、どことなく上から目線で、オリエンタリズムになってしまうことを考慮したのだろう。

 

実質的には、中近東やアフリカへの支援の在り方に関する学会であったが、

「私たちはしょせん彼方にある国を語ることしかできない」

という、I師匠が中近東やアフリカをさんざん駆けめぐってきたすえにたどり着いた思想や境地が、「中近東やアフリカを語る会」という名称にこめられているのだと思う。

 

 

これは、被災地支援やひきこもり支援など、幅広い分野のほかの支援論に通底する。

「支援者は、支援対象を、はたして支援できるのか」

というラディカルな問いにつながっているのである。

 

いわば、

「支援者は、支援対象を、しょせん語ることしかできないのではないか」

という問題提起だった。

 

 

そのような「語る会」が、I師匠の急逝によって、とつぜん宙づりになったのは、25年前の6月であった。

上は80代から下は20代まで、大学教授や各国大使から学生に至るまで、幅広い層の会員が200名ほどいたが、私を含む5人の30代の若手に、それからの運営が委ねられることになった。

 

その時点で、会の運営はもう無理だ、と私は思った。

ほんとうに「語る会」の存続を望むなら、もっと実績のある40代、50代の、しかも社会的にも実力のある人が中央に座るべきである。

けれど、そういう人たちは、I師匠が亡くなるとさっさとその座を私たち若手に押しつけ、遠巻きに眺めているだけになった。

これはすなわち、次のことを意味する。

彼らは、ときどき人徳のあるI師匠に会いにくる口実として「語る会」に入っていたのにすぎない、ということを。

I師匠がいなくなった今、彼らは「もう会にやってくる意味はない」と見越したのだ。

 

年長の会員たちの意図が読めたので、運営を託された私たち若手5人も、おそらくI師匠の遺志に反したことではあろうが、さっそく会を解散することを考え始めた。

I師匠の期待に沿えなかったということで、なによりも無力に打ちひしがれたのは、私自身であった。

 

 

 ・・・「海外ひきこもりだった私(28)」へつづく

 

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