「海外ひきこもりだった私(27)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
こうして、I師匠が亡くなったあとの「中近東とアフリカを語る会(仮称)」は解散することになり、運営を押しつけられた若手5人で、最後に一席、飲むことになった。
I師匠の実の息子である創一さん(仮名)が言った。
「会が解散しても、ぼくらはときどき会おう」
彼は、私の2歳下だった。
私は、I師匠には父親像を投影していた。
そのため、I師匠を現実の父親としている創一さんを目の前にすると、私とはいつも居所のない感覚をおぼえた。
「私は、あなたのお父さんを父と仰いでいます」
というと、なにやら隠し子として名乗り出ているようで恥ずかしくもあり、一方では、
「あなたは、あんな父親が居て、いいね」
という羨望のまなざしを送っているような雰囲気にもなってしまい、なんとも奇妙な感覚なのである。
創一さんから語られるI師匠は、身勝手で専制君主の、どうしようもない親父であった。
「国際ジャーナリスト」として海外を飛び回っていたI師匠は、ときどき日本の自宅へ帰ってくると、創一さんが学校の成績が落ちていることに腹を立て、夜の部屋にノシノシと入ってきて、
「これからは、こういうふうに勉強せよ!」
と、自ら作った学習予定表を突きつけてきた、という。
I師匠はそのようにすることによって、いつもは家に不在である父親としての責任を全うしようとしたのだろう。
しかし、高校生だった創一さんからすれば、
「ふざけるな」
ということになる。
いつもは居ないくせに、都合のよい時だけ帰ってきて、こちらの事情も知らないままに「もっと勉強しろ」と圧力を加えてくる、おそろしく強権的な父親にほかならなかった。
ジャーナリストであったI師匠は、世界の国々の民主主義に関してメディアで歯に衣着せぬ論評をふるっていたが、
「そういう自分がいちばん非民主的じゃないか」
というのが創一さんからの見立てとなる。
こうしてI師匠と創一さんは、何度も取っ組み合いの喧嘩をしたらしい。
そんな創一さんから見ると、私がI師匠に父親像を投影していたなどという告白は、まるで物事を知らないウブな女子中学生が語る初恋の告白のように、大人の失笑をそそる言葉だったのにちがいない。
けれども、創一さんとI師匠のあいだに起こった父と息子の熱い衝突は、私と私の父のあいだには起こらなかった、ということだけは言えそうだ。
私の父は、幼い私を、母に命じられるままに、よくベルトで殴りつけた。
しかし、あれは父と息子の熱い衝突ではなかった。
私は無抵抗であり、父は無表情であった。
父は、頭の上がらない妻に命じられて、なぜ殴らなければいけないか、その意味もわからないまま、まるでロボットのように私を殴りつけている奴隷にすぎなかった。
私も、奴隷であるそんな父が哀れで仕方がないために、黙って打たれてやっていた部分がある。
おそるおそる目を上げると、そこには私を打つためのベルトを持った哀れな父の姿がそこにあった。
そこでは父を憎むという私の感情は生じようがない。感情は私から離脱して、中空をさまよった。
そんな私にとって、父に抵抗することは、父自身に抵抗することにならず、まるで宙をあがいているような虚しさだけがつきまとった。
しかし、創一さんを殴りつけるI師匠は、あくまでも自分で考え、自分で選んだ行動として暴力をふるっていた。
それだけに、I師匠の死が迫ってくるころになると、I師匠と創一さんのあいだには父と息子としての親密なやりとりが重ねられることになる。
そろそろ死が近いであろう87歳の父と私の、20年来の音信不通とは対照的である。
母がいなければ、父と私も、もっと親子の交流ができたように思う。
・・・「海外ひきこもりだった私(29)」へつづく