「海外ひきこもりだった私(28)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多
私が父親像を投影したI師匠の、実の息子である創一さんと私は、前回「海外ひきこもりだった私(28)」で述べたような関係であったのだが、I師匠が手塩にかけて10年間も運営してきた「中近東とアフリカを語る会(仮称)」を解散するとなったときに、私たち若手5人で飲み、そのとき創一さんが、
「会が解散しても、ぼくらはときどき会おう」
と言ったのだった。
それは、しごく自然な発言といえた。
べつに私たちは喧嘩をして「語る会」を解散するわけではない。
「語る会」を通じて培った人的なつながりを、このまま無にしてしまうのは惜しい、という思いは誰の胸にもあった。
しかし、創一さんが何気なしに続けて言った言葉が、その後長いあいだ私に深く突き刺さることとなる。
創一さんは、こう言ったのだった。
「お互い、ときどき見たいし。
『ちゃんと生きてるかな』って」
創一さんがここで「ちゃんと生きてるか」といった意味は、生物学的に生命を保っているということではない。
社会的に胸を張って、誰に見せても恥ずかしくない生き方をしているか、という意味であった。
私は、彼のこの言葉に戦慄した。
創一さんは、いわば私の一人目の父親像である鈴澤先生と同じようなことを、私より2歳下でありながら言っているのであった。
創一さん自身は、そう言われれば「ちゃんと生きている」人であった。
父親の仕事の影響か、彼も途上国援助にかかわる仕事をしていたようだが、学歴的なキャリアはけっして高い方ではないし、社会の一線でもてはやされる仕事でもなかった。
しかし、彼は誰に見られても恥ずかしくない生き方というものを、たしかにしている気配はあった。
そこへ行くと、私はどうであったろう。
私はとても「ちゃんと生きている」とは言えなかった。
私の「国際ジャーナリスト」としての業績も、後ろ盾となってくれていたI師匠の急逝により、まるでガラガラと音を立てて崩れ落ちる途上にあった。
それだけではとうてい喰っていけないので、収入はもっぱら受験生の家庭教師をすることから得ていたが、この仕事も私が心底コミットしているとはいえなかった。
私は教え手としてはそんなに悪い方ではなかったし、私のような人材でも「ぜひ、うちの息子(娘)に」と望んでくれるご家庭は多かった。
そういう要望に答えるべく、どの生徒にもとことんつきあった。
しかし、家庭教師という仕事は、やはり私の人生には合っていないと感じざるをえなかった。
成績が上がっていく生徒は、私が何もしなくても上がっていったし、逆に上がっていかない生徒は、私がどんなに力を入れて教えても、すぐに成績は落ちた。
ほとほと私は、
「家庭教師などという職業は要らない。
生徒の親の精神安定剤にしかならない」
と感じていたものだ。
そもそも、成績が上がらない生徒に、成績を上げさせるように周囲が力を尽くすことが疑問とされるべきであった。
私自身は、母親に教育圧力をかけられて、おかしくなった人間である。
母親が私にしたように、生徒が強迫神経症になるような教え方は、私はけっして行わなかったけれども、受験生のための家庭教師をやっている時点で、しょせん私も受験産業を肯定し、子どもたちに教育圧力をかけているではないか。
それでは、私が考えていることと、収入を得るためにやっていることは、逆の方向をむくのである。
そのため、私は新規の生徒の受け入れを行わず、家庭教師の仕事も減らしていった。
もし私の過去において母親の虐待がなければ、私がこのような疑問につまずいて、せっかく高収入が得られていた家庭教師の仕事もやめることはなかっただろう。
しかし、げんに私がそのような成育歴を過去に背負う以上、どうしてもそう考えるしかなった。
こうなると、どこかで良質な精神療法でも受けて、過去を精算しない限り、どんな仕事をやっても続かず、ひきこもりに戻っていくだろうと思われた。
こうして1995年から1999年の4年間は、人生のなかで3回目に「ひきこもり」が極まった時期となる。
いわゆる「ガチこもり」であった。
締め切ったカーテンの裏には、外で子どもたちが走り回るたびに影が揺らめいた。そのさまは、部屋の中で私が動けなくても、世界は容赦なく動いている、という事実を私に知らしめた。
その事実に、私は圧迫された。
だから私は雨戸を閉て、昼間から家の中を真っ暗にしてひきこもっていた。
蛍光灯の光もチカチカとして「痛い」と感じたので、明るさが必要なときはロウソクを灯して生活していた。
このような自分は、とうてい創一さんが言ったような「社会的にちゃんと生きている」状態ではなかった。
創一さんの言葉が脳裡によみがえってくるたびに、私は自分の在り様が同年代の彼に批判されているように感じて、暗闇の中で独りのたうち回った。
まるで洞窟のなかで暮らすような4年間の「ガチこもり」のあいだに、3回ほど正月がめぐってきたが、律義な創一さんは毎年必ず年賀状をよこした。
ところが、創一さんからの年賀状がそのたびに、
「お前はちゃんと生きているか。
ちゃんと社会に胸を張れるように生きているか」
と問いを私の胸元に突き付けているように思われ、私は苦しくて仕方がなかった。
ほんとうは、
「もう、年賀状は出さないでください。
あなたは私にとって、まぶしいくらい尊敬する人であり、私が父親像を投影したI師匠の息子さんでもありますが、あなたの問いに私は耐えられないので、もう縁を切りたい」
というのが本音であった。
しかし、まさか社会的な文脈からはずれたそんなことを手紙に書くわけにもいかない。
それでは、この私が気の狂った人だと思われる。……いや、気の狂った人であることがバレてしまう。
そこで私は毎年、いったい何を言いたいのだかわからない、煮え切らない、奇妙な年賀状返しを創一さんに送っていたのである。
その後、東京の貧居へ引っ越し、生活保護で生きながらえて、精神科医齊藤學(さいとう・さとる)が営む麻布村の患者となったわけだが、そのような生活では、なおさら私が「ちゃんと生きている」などと胸を張って創一さんに言える状態ではなくなった。
彼はその後も何年にもわたって年賀状を送ってきたが、やがて私は返事そのものを書かないようになり、そこにI師匠から始まる「中近東とアフリカを語る会(仮称)」の人脈はついに絶えたのであった。
こうしてみると、ひきこもりが社会的に孤立するのは、「人々に忘れられていく」ことによってではなく、自ら貴重な人間関係を消滅させていく成果であるからではないか、と思われるのである。