VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(290)「自殺予告」と「死ぬ権利」

by ぼそっと池井多

 

前回「やっぱり今日もひきこもる私(289)」では、本ブログの愛読者だった方の自殺に関連して、少し書かせていただいた。

 

いわゆるひきこもり当事者活動などと呼ばれることをやっていると、ピア・サポートを期待されるのか、「自殺予告」を聞かされることがある。

 

以前は、いろいろな人に電話番号を教えてしまっていたので、突拍子もないときに自殺予告の電話がかかってきた。

たとえば、食事を始めようと思っていると、いきなり電話がなり、

「自殺しようと思うんだけど」

というのである。

 

あるいは、夜半をすぎて、そろそろ寝ようとしていると、

「これから死にます」

といった電話がかかってきたものである。

 

もともと電話は嫌いであったし、これに懲りて、

「電話番号と性生活は、むやみに人に語るものではない」

ということに気がつき、それからは名刺にも電話番号を載せないようにした。

 

すると今度は、メールやメッセ、あるいはブログへの非公開コメントという形で、ときどき「自殺予告」をいただくようになった。

 

しかし、考えてみると、本気で自殺しようとしている人間を、他者はほとんど止めることができない。

たとえば、刑務所の中で自殺する服役囚は、15分に1回の看守の巡回の間に、わずかな紐を使って首を吊ってしまうという。

いくら監視していても、そんな自殺を止めきることはできない。

また、どこか高い所から飛び込もうとしている人を、その瞬間は止めることができるけれども、目を離したすきに再び飛びこまれてしまっては、これはもう手立てがない。

 

一方で、自殺したいという気持ちは、あまり長続きするものではなかったりする。

たとえば、26歳の私は死ぬことばかり考えて、いかにも死にそうな場所だと当時は愚かにも思ったアフリカ大陸へ行ったが、いつのまにか死なないままアフリカ大陸を縦断して日本に戻ってきてしまった。

帰ってきたときにはもう死ぬ気が失せていたものである。

 

だから、たとえば私は自殺予告を聞くたびに、こんなふうに答えている。

 

「ああ、そうですか。

私は、人間には『死ぬ権利』が認められるべきだと思うので、あなたが死にたいと思うのなら、私はお止めはいたしません。」

 

すると、「予告」を送ってきた相手は案外、死ななかったりする。

 

なかには、

「あなたに言っても、止めてくれないので、もうこの次からあなたには予告しません」

という人もいた。

 

「この次から」ということは、「この次」や「この次の次」があるのだろうか。

 

「死にたい」という表明の意味するところは、往々にして「生きたい」だったりする。

 

それならば、初めから

「私はもっと私自身を生きたいのですが、それができないため苦しいです。どうしたらいいのでしょうか」

という相談の形を取ってくれるとスムーズなのだが、そうはならず、

「もう、死にたい」

となるのである。

 

 

 私は生まれたときから自殺予告と縁があったようだ。 

その最たるものが、母親だった。

 

「もうお母さん、死んでやるからね。」

という「自殺予告」を、幼い私は2日に1回は聞いていた。

 

そのわりには、あれから50年以上が経ち、今年の3月になっても、私の母は、もう84歳になろうという年齢なのにまだ生きていた。

 

 

 

 

なぜこのような話題を考えているかというと、京都で起こった嘱託殺人にからんで、さかんに「死ぬ権利」という言葉が出てきているからである。

 

ところが最近、私はうつで、頭が働かず、長い文章が書けない。

本論に入るまえに頭が疲れてしまったので、これについては、また次回に書かせていただくことにする。

 

 

 

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