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やっぱり今日もひきこもる私(291)「死ぬ権利」は「生きる権利」と背反しない  ― 京都ALS女性嘱託殺人事件を考える ―

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MBSニュース画面より

by ぼそっと池井多

 

さて、前回「やっぱり今日もひきこもる私(290)」に引き続き、京都で起こった嘱託殺人について考えてみたい。

 

事件が起こった直後、亡くなったALSの女性、林優里さんと同じ難病を持つ、れいわ新鮮組参院議員、舩後靖彦氏は、

「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切

と述べた。(*1)

 

 

いかにも良識的な、「ごもっともな」フレーズではあるが、私はいささか違和感をおぼえた。

「生きる権利を守る社会にしていく」ことは確かに大切だが、それはそれとして進めていき、一方では人間の「死ぬ権利」ついても、私たちは考えていかなくてはならないのではなかろうか。

舩後議員の言い方であると、「死ぬ権利」を考えることと、「生きる権利」を考えることは、あたかも一つのフランスパンを分け合うように、どちらかを大きくすれば、もう片方が小さくなるかのような印象がある。

そうではないはずだ。

二つは別個の問題である。

 

 

また、生命倫理や死生学を専門とする鳥取大学の安藤泰至准教授は、

この医師たちは弱り切った難病患者や高齢者を生きる価値のないかわいそうな人と決めつけ、その命を絶つことを善行だと考えているように見えます。この点で、2016年にあった相模原市の障害者施設での殺傷事件に近いのではないでしょうか。

と述べた。(*2)

 

 

これもまた、私の耳には論点のすりかえに聞こえるのである。

相模原事件の植松死刑囚がおおぜいの障害者の人たちを殺したのと、今回の大久保愉一容疑者、山本直樹容疑者という二人の医師たちによる嘱託殺人は、たしかに「優生思想」という共通項でくくろうと思えばくくれるかもしれないが、かなり苦しい。

殺された本人の意思表示があったかなかったかという点で、天と地のような開きがあるからだ。

 

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また、安藤准教授はこうも述べている。

今回の事件が、安楽死の法制化ではなく、どんな人も生きやすくなる社会について考えるきっかけになってほしいと切に願っています。(*2)

*2.  上掲

 

安楽死の法制化ではなく、どんな人も生きやすくなる社会を」

という言い方は、さきほど挙げた舩後議員の

「死ぬ権利ではなく生きる権利を大事に」

という言い方と同じく、そもそも別個の問題であるものを、一つのフランスパンにまとめてしまっているのである。

 

「どんな人も生きやすくなる社会」をつくることは大切だが、それは「安楽死の法制化」と背反するものではない。

むしろ、オランダのように「安楽死の法制化」を進めることによって「どんな人も生きやすくなる社会」を志向している国もある。

 

死の瞬間、私たちはもう自分の人生を決めることはできない。

しかし、「死に方」を決めるのは、意識があれば、まだ生きている最中である。

つまり、「死ぬ」は「生きる」の一部であり、「死ぬ権利」は「生きる権利」の一部なのだ。

サルトル流に言えば、「人は生き、恋をし、……おまけに死ぬ」のであり、キューブラー=ロスの言い方を借りれば「生の最終段階としての死」なのである。

 

 

 

 

このように、今回の京都の嘱託殺人事件は、社会福祉の専門家や良識派の知識人たちによって、

「手を下した二人の医師は、ゴリゴリの優生思想を持つとんでもない悪人で、殺されたALSの女性はかわいそうな犠牲者である」

というようなイメージに塗り込められようとしている。

 

そのような解釈になる背景は、確かにある。

容疑者である大久保愉一医師は、『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』などという発信をおこなっており、


「コロナで介護が滅んで老人が死屍累々になっても、べつに驚かない。若い人の負担が減ればよいではないか」


などと発言してきたという。

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こういう竹を縦に割ったような合理主義が、高齢者のみならず、社会福祉の専門家たちの神経を逆なでするのは言うまでもない。

 

これ以外にも、大久保容疑者が発信している言葉は軽薄な文体が多く、それが、

「こいつは医師としての技法ばかりが先走り、生命の重さを考えていないのではないか」

という疑念を人々に起こさせるのである。


そこで、たちまち「相模原事件と同じだ」などと言われるようになり、植松死刑囚と同じ「悪者」に仕立て上げられているわけである。

 

しかし、はたして問題の核心はそんな所にあるのだろうか。

どうも良識派の知識人の言葉には、「……すべき」「……すべき」と綺麗事きれいごとでまとまるベキ論ばかりが並べられており、そこには亡くなった林優里さん本人の意思があまり尊重されていないように私は思うのである。

 

林優里さんは、一年以上前から

「なぜこんなにしんどい思いをしてまで生きていないといけないのか、私には分からない」

などとブログに綴り、安楽死が許されるスイスへ渡航して死ぬ計画も考えたことがあったようだ。(*3)

 

 

また、自分の主治医にも安楽死を依頼したが、主治医には「死に至る治療はできない」と拒否されていた。(*4)

*4. 読売テレビ 2020.07.28  11:48

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ytv news 画面より

 「いや、そこまで彼女が苦しいのはわかる。しかし、そういう苦しみを持つ人も生きやすい社会にすべき

「だから安楽死など考えないべき

というのが良識派知識人たちの言いたいことであろうが、そういう言葉や思想が今そこで苦しんでいる林さんを救ったであろうか。

 

倫理的な観点から、容疑者となった大久保・山本両医師たちを非難するのはたやすいことだが、同じ観点から被害者となった林さんが救えるかというと、そうは言えないように思うのである。

 

 

 

 

私がこのような思考を持つのは、抱えている問題の切実さは雲泥の差があるものの、私自身がひきこもり当事者として、「彼ら」(とあえて一括する)良識派知識人や専門家たちから支援の対象となる社会的存在だからである。

 

私は、「彼ら」知識人や専門家が良識派として発している言葉や支援は、じつはひきこもり当事者のほとんどは望んでいないのではないだろうか、と思う局面がたくさんあるのだ。

もちろん、私個人もそれらを望んでいない。

 

たとえば、8050問題の究極として、ひきこもりの孤立死という問題が語られるが、これにしても、良識派とされる専門屋や支援者たちが考えるほど、死ぬ本人であるひきこもり当事者は孤立死することを悲惨だと思っていないのではないか。

 

私自身を例に取れば、実家とは音信不通であるし、いずれ将来、自分のひきこもり部屋で孤立死する可能性が高いわけだが、

「社会的に孤立させてはいけない。どこか支援につなげよう」

と専門家や支援者たちがやってきて、どこかの病院や施設に入れられて、そこのスタッフたちの顔色を気にして、萎縮しながら死の床につくよりも、そんなよけいな支援にかまわれることなく、自分の部屋でひっそりと手足を伸ばして死んだ方がよほど幸せだ、という人生観もあると思うのである。

 

ところが、良識派知識人たちは、「社会的孤立はいけない」「孤立死は避けるべきである」ということを大前提として発言や行動を構築していく。

表面的には「それは当事者のため」ということになっているが、そうしないと、彼らの活動基盤も活動利権も守られないからでもある。

 

こうして、

孤立死はかわいそうだ。

だから、それを避けなくてはならない。

だから、8050問題はなんとかしなくてはならない。

だから、全国に居場所を増やそう。……」

といった論理が、必ずしもひきこもり当事者の真情と合致しないかたちで展開していき、お金ばかりが使われていく感じがするのである。

 

 

 

今回の当事者である林優里さんはもう亡くなってしまったから何も言えないが、彼女の死について、いま当事者ではない立場から多くの良識派知識人がメディアに発信している言葉を、はたして彼女は天国でどう聞いているであろうか。 

 

 

 

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