VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

外国のうつ・ひきこもり事情(149)「ひきこもりは自らの価値を示そうにも示せない人々」インドのひきこもりニティンの見方

f:id:Vosot:20200729153101j:plain

インド・ガンジス河  Photo by Pixabay

by ぼそっと池井多

 

「コロナ鬱」が、遅れて私にもやってきたのが6月であった。

 

鬱で頭が作動しないので、しっかりした文章が書けなくなった。

そのため、それまでは一週間に一度出していたひきポスの記事も、さっぱり書けなくなった。

「そろそろ、ぼそっとさんからも記事を出してくださいよ」

という若い執筆陣からの催促もあり、ようやく昨日、2ヵ月ぶりぐらいで一本出した。

といっても、オリジナルの執筆ではなく、翻訳である。

 

www.hikipos.info

  

インドでひきこもりだったという、ニティンさんという30代男性の当事者手記を訳させていただいたわけである。

 

彼の言っていることに、私は一から十まで賛成するわけではないけれども、なかには宝石のようにキラリと光る、すばらしいことを言っている箇所がある。

 

それは、

ひきこもりの共通点とは、自らの価値を示そうとしても示せない人たちである。

という箇所だ。

 

その背後には、ひきこもりとは多様であり、ひきこもりになった経緯からひきこもっている環境まで千差万別で、

「ひきこもりの共通点など容易に挙げることはできない」

という事実がある。

そうした事実をわかったうえで彼が言っているところに、初めてこの言葉が輝きを持っている。

 

 

 

 

今まで、ひきこもりが自らの価値を示せないことに関しては、

「ひきこもっていて、示そうとしない」

と見られていた。

 

自らの価値を示そうとしない、ということはすなわち、社会が持っている価値判断の物差しに自分を合わせようとしない、という解釈である。

 

それゆえに

「ひきこもりは適応障害

と考えられる。

 

すなわち、

「社会に適応しようとしても適応できない欠落をもつ人々」

という見方を生んだわけである。

 

そこでいう「社会」とは、何が何でもそこへ属する個人個人が適応しなければならない場所として設定されている。つまり、社会を「価値の物差し」として絶対化しているのである。

 

ところが、ニティンのいう

「自らの価値を示そうとしても示せない」

という考え方のなかでは、

「価値を測る物差しが悪いから」

という含みがあるように思う。

 

物差しの方を絶対化していない。

 

「ほんとうはその人のなかに大きな価値があるんだけど、今の社会という物差しでは物差しの質が悪いからそれを価値あるものとして測ることができず、それゆえにひきこもりは自らの価値を示そうとしても示せない」

という見方を、彼はさりげなく提示しているのだ。

 

それは、

「ひきこもりには、ほんとうは能力があるのに、その能力を評価する体系が、社会と呼ばれる現在の環境に整っていない」

といった展開が潜在している。

 

この一点があったために、私は多くの方に読んでもらいたくなり、ニティンの手記を翻訳したといって過言ではない。

 

慾をいえば、ニティンにはインドの中流階級の生活をもっと詳しく書いてほしかった。

 

 

関連記事

www.hikipos.info

 

www.hikipos.info

 

 

 

 

 

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020