VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(292)当事者同士の他者性

f:id:Vosot:20200801161657j:plain

ANN ニュース画面より

by ぼそっと池井多

 

前回「やっぱり今日もひきこもる私(291)」では、先日起こった京都ALS嘱託殺人事件について書かせていただいた。

裁判の行方によっては、この事件の呼び名も、今後「京都ALS不法安楽死事件」に変わるかもしれない。

 

そこでも書かせていただいたように、事件が報道されるやいなや、すばやくコメントを発表したのが、自らも同じ難病ALSを持っておられる参議院議員、れいわ新撰組の舩後靖彦(ふなご・やすひこ)氏であった。

 

彼は、このように述べている。

私も、ALSを宣告された当初は、出来ないことが段々と増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。しかし、患者同士が支えあうピアサポートなどを通じ、自分の経験が他の患者さんたちの役に立つことを知りました。死に直面して自分の使命を知り、人工呼吸器をつけて生きることを決心したのです。(*1)

*1.  舩後靖彦 Official Site
事件を受けての見解 2020.07.23
https://yasuhiko-funago.jp/page-200723-2/

yasuhiko-funago.jp

 

これに続けて、前回にもご紹介した彼の

「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。

という発言がつづいている。

 

難病の中から発せられる舩後氏のこういう発言は、非常に重みを持っている。

私のように、鬱病だ何だと小さな持病は持っていても、手も足も自由に動かせる人間は、思わずここで襟を正して聞かざるをえない。

すなわち、「死ぬ権利よりも生きる権利を……」という彼の発言は、舩後氏が自らの当事者性にもとづいて発信している言葉だといってよいだろう。

いうなれば、私が何かというとあちこちで言っている「当事者発信」である。

 

そして、文中に舩後氏もその語を出しているように、ピアサポート(*2)というものに大きな期待をかけ、舩後氏自身も林優里さんのように絶望して死を希ったことが過去にあったが、ピアサポートによって救われ国会議員として活躍する現在がある、といったことを述べている。

 

*2. ピアサポート (peer support) : 同じ問題をかかえる者同士が助け合うこと。また、その助け合いの行為。この場合「ピア (peer)」とは、「地位や能力などが同等の者」を指す。

ピアサポートは、ひきこもり界隈でも重要視されている概念であり、「引き出し屋」などを回避する手段として期待されている部分もあるが、ひきこもりにとってのピアサポートについては、長くなるのでまた別の機会に述べたい。

 

しかし、一方では、ここにピアサポートという概念の限界の一つが示されているといってもよい。

 

私は、ALSという難病についてはほとんど何も知らない。

おそらくその病気も一様ではなく、身体のどこから動かなくなるといった愁訴の詳細や、病気ぜんたいの進行の仕方などには、さまざまなパターンがあるのにちがいない。

 

けれども、いま仮に、林優里さんと舩後参院議員の病態が、まったく同じであったと仮定してみよう。

なぜ、そんな仮定をするのか。

なぜならば、私はここで

「ならば、舩後参院議員の言葉は、ピアサポートとして絶対的に林優里さんに対して有効であるか」

という問いを立ててみたいからである。

 

やさしく言い換えると、こういうことだ。

もし、そういう仮定をすると、舩後参院議員の難病が進んできたのとまったく同じように、これから林さんの難病も進んでいくことになる。

ということは、林さんが今、まったく手足を動かせなくても、いずれ舩後さんのように国会議員として活躍できる可能性だってあることになる。

すると、林優里さんは絶望する必要はなく、いま安楽死を選択するのは間違いである、と言える根拠になる。

 

 

しかし、現実には、そのように言えるだろうか。

 

私は「必ずしも、そう言えないのでは」と思う。

たとえ、林優里さんの病状が、これから舩後参院議員の場合とまったく同じ進行の仕方をするものだとしても、林さんが今の時点で味わっている絶望や苦しみはなくなるわけではないのではないか。

 

もちろん、そのように難病を持ちながらも、旺盛に国会議員として活躍している舩後氏の存在は、林優里さんにとって希望や励みにはなるだろう。

しかし、だからといって、それで林さんの絶望が希望に一変するとはいえないのではないだろうか。

 

むろん、小さな希望であっても、ないよりあった方がよい。けれども、いくら同じ難病を持つピアといっても、しょせんは別の人である。別個の人間存在である。

難しく言えば、舩後さんと林さんのあいだには相互に他者性がある。

この他者性の壁を越えて、人間は互いに交わることも入れ替わることもできない。

人はみな、「自分の」人生しか生きられないのだ。

 

となると、林さんの絶望は、あくまでも彼女だけのものであり、舩後さんの人生や希望は、あくまでも舩後さんだけのものなのである。

 

これは、残酷な真理だ。

  

したがって、舩後氏があのように述べたあと、

「だから、死ぬ権利については考えず、生きる権利について考えようじゃないか」

などといっても、やはり亡くなった林優里さんの、「あの時の」耳には入らなかったのではないか。

 

前回私が述べたように、「死ぬ権利」は「死ぬ権利」として、「生きる権利」は「生きる権利」として確立していくべきであり、なぜならば、「死ぬ権利」はその人の「生きる権利」を行使するなかで重要になってくるものだから、と私は考える。

 

ここにピアサポートの限界があるし、一方では、安楽死が法制化されたときの本人の意思の重みというものがあるように思う。

 

 

関連記事

vosot.hatenablog.com

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020