VOSOT ぼそっとプロジェクト

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スパゲッティの惨劇(77)疾病利得と「大事な時に体を壊す癖」

by ぼそっと池井多

 

想起のきっかけ

最近、私は母の「おなか痛い!」とうめき出す声を思い出すようになり、それに関する記事を連投させていただいている。(*1)

 

 

もともと、これは夏休みが終わり、宿題を提出する季節になったために思い出したのだが、それ以外にも当人が気づいていないだけで、無意識に重要なきっかけがあった。

それは、「夏休みの宿題」とは似ても似つかない話題である。

8月28日に行われた安倍首相の辞意表明について、立憲民主党の石垣のりこ参院議員が

「大事な時に体を壊すのある危機管理能力のない人物」

と表現したツイートである。

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その夜のネット空間は、安倍首相の辞任よりもむしろ、この石垣のりこ発言による炎上のほうが燃え盛っていたきらいがある。

結局この件は、

「不可抗力である疾病に対して、それをと表現したのは不適切」

ということで謝罪に至ったようだ。

 

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しかし、私がそこでなによりも想起したのは他でもない、私の母だったのである。

 

 

大事な時に体を壊す癖

スパゲッティの惨劇(76)」で詳しく書いたように、母は「大事な時に体を壊す癖」か、あるいは「- 体を壊したように見せる癖」があったわけだが、それに加えて母はけっして謝らない人でもあった。

どんなに母が悪くても、家族内での揉め事は、母は悪くないことになった。それでは、そのぶん誰のせいになるかというと、第一子である私である。

だから、私は家族の「感情のゴミ箱」だったと過去を振り返る。

 

 

私のなかに捨てられたゴミは、私のなかで消えてなくなるわけではない。

蓄積して、固まっていった。

そしてやがて、それが大爆発したのが、大人になってからの「うつ」であり、就職を目前に控えた時に始まった「ひきこもり」だったわけである。

 

都合がわるくなると、

「あ、おなか痛い!」

と叫んでその場に倒れこむ母の行動は、いわば責任の放棄であった。

腹をかかえて倒れこんでいる母には、もはや何も責任を問えないし、問うてもいけない。

ところが、腹痛が治ったころには、責任を問うべき問題もどこへやら消え去ってしまうのであった。

もしも再び責任を問おうとすれば、すかさず母の腹痛はその場で再燃した。

つまり母の腹痛は、責任を免れるためだけに演じられていたものであった。

 

 疾病はいつも不可抗力か

フロイトは、このように病気になることで何か得をすることを「疾病利得」と呼んだ。

 

したがって、石垣のりこ参院議員の

「疾病を癖と表現することは不適切でした」

という反省は、私の母にもあてはまるように一般化することはできない。

母の「おなか痛い」は、ふつうの意味における疾病ではなかったが、癖でもなかったからである。

 

私の母は、もし「おなか痛い」というのが演技ならば、そのように演じてしまうこと自体が精神疾患、すなわち心の病いであり、その意味において「おなか痛い」は「疾病」である。

ところが逆に、もしあれが演技でなかったとしたら、潰瘍性胃腸炎なり神経性胃炎なり、なんらかの「疾病」だったことになる。

 

それでは、もし潰瘍性胃腸炎なり神経性胃炎なり、そういう器質的な病気が背後にあったとしたら、母の責任はいっさい問えないのだろうか。

そう考えられない。

なぜならば、母はそうした疾病を起こらないようにする努力は、まったくしていなかった。

むしろ、母はそうした疾病が起こるような努力をしていたきらいがあるのだ。

というのは、母は「胃が悪い」と自分で言っているのに、胃に悪いことがわかっているコーヒーを1日に5杯以上喫することを常としており、また食べ物も胃に悪いものを好んだ。

つまり、いつでも都合が悪くなったら「おなか痛」くなるように、つね日頃から準備していたといって過言ではないのである。

 

疾病は、不可抗力としてやってくるものだとされている。

しかし、母においてはそうではなかった。

母はそのような疾病を自らの身体に「飼っていた」、つまり体内に維持していたのである。

 

このような人間に対しては

「疾病を癖と表現することは不適切」

という言葉を反省とすることこそが不適切となる。

 

 

 

 

では、どこが問題か。

 

問題は、焦点があたっているのが「疾病」なのか「癖」なのか、という違いではない。

たとえ「疾病」であっても、都合が悪くなったら、いつでも症状が悪くなるように、その疾病を意図的に維持しているなら、その疾病維持という行為が批判されるべきなのである。

 

その点、安倍首相の場合はどうであったか。

私はまったく安倍首相の信奉者ではないが、7年8ヵ月の長きにわたって持病をコントロールし職責をになってきたことには、一人の人間として大変な努力が必要だったと思う。

そのあいだ、いつでも都合が悪くなったときに潰瘍性大腸炎が悪化するように、疾病を体内にキープしてきたとはとうてい思えない。

1ヵ月やそこらの職務ならば、たとえ首相という重職であっても、「疾病をキープする」といった芸当は可能かもしれないが、7年8ヵ月という長期となると、もうそういう範囲ではない。

そのような長期の職務の果てに持病が悪化しても、これは

「大事な時に体を壊す癖」

には相当しない、と言わなくてはならない。

私の母のように、三日と空けずに「あ、おなか痛い」とひっくり返って責任を放棄していたのと訳が違うのである。

 

それに安倍首相の場合は、コロナの感染拡大、五輪問題、豪雨災害など「大事な時」には、おそらく少し無理をして切り抜けてきた。

そういう問題群がひと段落して、

「今ならばいいだろう」

ということで辞意を表明したのだろう。

それを「大事な時に体を壊す癖」というのは、まさに批判のための批判であり、中身のない言葉だと思う。

 

党派でなく人間を見るということ

しかしながら、このような舌禍事件が起こると、世間の人はすぐその責任を、問題発言を行なった政治家が所属する政党に帰するものである。

私はそのような党派的な視点を持ちたくない。

石垣のりこ議員が所属するのが、たとえ立憲民主党でなくても、自民党でも共産党でもどこでも、これは彼女が40代の新進気鋭のキャスター出身の駆け出しの女性政治家であるかぎり起こりえた舌禍事件であると思うのだ。

思うに、彼女自身の身近な周囲に、たとえばそれこそ母親とか、姉とか、「大事な時に体を壊す癖」がある人がいるのではないだろうか。もしくは、彼女自身が幼いころにそのように母親に叱咤されてきたから、こういう時にこういう言葉が出る、とも想像できるのである。

これを、

「これだから立憲民主党は……」

というように、党派の問題として語ることは意味がないと思う。

 

石垣のりこ参院議員は、9月1日に次のような反省の弁をツイートした。

 

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うーむ。まだ、なにか違うような気がする。

「洗練」された表現は、はたしてどこへ向かうのだろうか。

政治家は往々にして答弁を「洗練」することによって、核心には答えず、選挙民を煙に巻いていく。

そんな言葉を、石垣のりこ氏の支持者たちは求めていないのではないだろうか。

 

 

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