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やっぱり今日もひきこもる私(302)MBA大学院でのオンライン・シンポジウム公開 「分断」と「つながり」 幸せな孤独死について

by ぼそっと池井多

 

先日、「やっぱり今日もひきこもる私(294)」において、私がMBAの大学院でのオンライン・シンポジウムに登壇することになったとお知らせした。

vosot.hatenablog.com

その映像が、一般にも公開されている。

こちらである。

 

Globis 知見録

globis.jp

 

他の登壇者は、若くして起業家として社会の第一線で活躍されていたり、大学の特任教授になっている方々なので、そこへ「働いてない」ただのひきこもりの私がノコノコ入っていってはたして良いのか、いったい何が話せるだろうか、と当初は登壇を危ぶんだものである。

そのせいか、映像の前半のころの私は、

「私がここに居ていいのか」

とでもいうような、まごついて固まった表情をしている。

しかし、グロービス大学院講師の山中礼二さんのファシリテーションのおかげで、次第に議論の場になじみ、あれこれ放談して終わることができた。

 

「分断」と「つながり」

 「コロナ禍のもとでの『分断』と『つながり』」

というのが与えられたテーマだった。

 

社会的には「分断」と「つながり」は逆の方向をむいたベクトルであり、もっと言えば

「分断はいけないことで、つながるのはよいこと」

という先入観があるように、私には思えてならない。

 

それは、ひきこもり当事者の立場から言わせていただければ、ときに正反対にもなるのである。

 

たとえば、ひきこもりは、

「ああ、もう今はいっさい人と関わりたくない。

放っておいてくれ!」

という心境や感覚であるときには、たとえそれが一時的なものにすぎないとしても、社会から自分が「分断」されることを望んでいる、と言えよう。

 

そのような心境のときに「社会とのつながり」などという、社会福祉家が好んで言いそうな生温かい概念を振りかざされると、まるで二日酔いの人間が酒を連想させるものはすべて見たくないように、

「うわっ、もう、やめてくれ」

と目と耳をふさぎたくなる。

 

ところが、このようなひきこもりの感覚で社会は動いていない。

社会は、もっと「健全な」市民感覚で動いているわけであって、そうすると、

「分断や孤立はいけません。みんながしっかりつながろう」

というところへ結論が持っていかれるのである。

 

このように、ひきこもりと「ふつうの人」では、そもそも世界観の根底に近いところが正反対なのだ。

すると、いろいろな点で価値観に相違が生じてくる。

その究極にあるのが「孤独死」あるいは「孤立死」の問題である。

 

幸せな孤独死

 「8050問題」を「孤独死」の問題として喧伝するひきこもりの「専門家」ジャーナリストは、「孤独死」は絶対に避けなくてはならない事態である、という不動の前提を持っているように思われる。

いわば、社会から「孤独死」をなくすために、8050問題へ人々の注意を呼びかけているわけである。

 

しかし、ひきこもり当事者として、じっさい孤独死孤立死をするかもしれない立場から言わせてもらうと、孤独死孤立死というものはそんなに「悪いこと」「かわいそうなこと」なのだろうか、という疑義が私には浮かぶのである。

 

他者と関わりたくない人が、

「死ぬときぐらい、独りで静かに死なせてくれよ」

と思うことだってあるかもしれない。

いや、大いにあるだろう。

 

ところが、そこへ

孤独死はいけない。孤立死を避けよう!」

とスローガンを掲げたソーシャル・ワーカーたちが、救世主のような顔をしてズカズカとひきこもり空間に入りこんできて、本人が望んでもいないのに、どこかの支援につなげ、施設に入れてしまう。

すると、その施設で最期の時を迎えるときは、たしかに孤独ではないし、孤立もしていないかもしれないが、知らない人たちに四方を囲まれて、あれこれ遠慮しながら死んでいかなくてはならない。

そのような死に方よりも、誰に気兼ねすることなく独りひっそりと孤独死した方が、ひきこもりにとってはよほど幸福だという考え方があるのだ。

 

しかし、今のところそれは「専門家」たる社会福祉家たちと、「当事者」たるひきこもりが真っ向からぶつかりそうな一点である。

また、専門家のいうことの方が社会的にはいわゆる「まとも」だということは、当事者も知識としてはわかっているから、それを表立っては否定しない。だから議論が進まない。

 

オンライン登壇ではいささか舌足らずとなったが、そのようなことが言いたかった。

 

 コロナで何かが生まれたのではなく

 「分断」と「つながり」は相反する現象で、どちらかが起こっているならばもう一方は起こらない、というものでもない。

両者は同時並行的に起こり、進んでいくものだと思う。

それは、コロナの前だろうが後だろうが変わらない。

 

コロナの最中は、そんな変形が加速しているだけの話だ。

 

コロナの出現によって、何か革命的に新しい動きが始まったのではなく、もともと社会の中に潜在的にあったニーズが、コロナによって顕在化して加速しているだけなのである。

 

たとえば、コロナですっかり定番となった Zoom その他の通信アプリによるリモート会議だが、そんなものは国際的な企業では30年も前から使っていた。

いや、国際的な企業などという(貧民からすれば)上流社会だけではない。貧者たちが集まる当事者会のオンライン化も、驚くなかれ、1990年代にはすでにあったものだ。

1997年ごろであったか、私がインターネットを導入してまもなく、魂のライフラインを整えたいと思い、アメリカを根拠地とする12ステップの自助グループ、EA International に加わったのだが、そこではオンライン・ミーティングというものがすでに行われていた。

また、書類に捺すハンコの廃止も、以前から叫ばれていたことだ。

 

 

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