by ぼそっと池井多
先日、「やっぱり今日もひきこもる私(298)」において、近年は「暴力的支援団体」という語が悪の表徴と化してきた、という話をさせていただいた。
そもそも何が問題であるのかがわからないまま、ともかく「暴力的支援団体」を批判し、攻撃する人が増えてきたのである。
そういう人にとっては、「暴力的支援団体」を批判し、攻撃することが、このひきこもり界隈の中で居場所を得るための入場券になってしまっている。
逆にいえば、「暴力的支援団体」を批判し攻撃すれば、「ああ、よしよし」ということで、ひきこもり界隈の中でかなり優位な居場所を与えられるのである。
「これはいかがなものか」
と感じていたところ、今年5月にあるSNS上で、いわゆる「暴力的支援団体」を支持するひきこもりの元当事者、桐山忠一郎さん(仮名)と突発的に議論が始まった。
もちろん、桐山忠一郎さんにとっては、「暴力的支援団体」は暴力的ではない。
彼は、どうやらひきこもり界隈で「暴力的支援団体」の筆頭に指定されている自立支援団体によってひきこもりを脱し、現在は働いている人のようである。
とうぜん彼のような存在は、ひきこもり界隈のなかでは居場所を得られない。じじつ、その後、彼は自分からひきこもり界隈を去ってしまったようだ。
しかし、今にして思えば、彼と私の「暴力的支援団体」「自立支援団体」をめぐる議論は、たいへん貴重なものであったと思うのである。
このような議論を封殺して、やみくもに「暴力的支援団体」批判を繰り返していては、それこそひきこもり界隈そのものが一つの暴力的界隈になってしまうだろう。
そこで彼との議論を、改行その他の編集を施しながら読みやすくして、振り返ってみたい。
*
桐山 忠一郎
許せない!
みんな、ひきこもりからの自立支援施設を「引き出し業者」など悪者扱いしている。
ほとんどの自立支援施設は、子どものひきこもりの原因は親だとはっきり言ってるし、親ができなかったことを、施設の人が親代わりになって一から教えてくれるのに。
基本的マナーやルール、協調性まで教えてくれる。
共依存してる親子を引き離してくれる。
ひきこもり、ニートなど同じ経験をしている者同士が、共同生活して訓練するから孤立もしないし、お互いつらい気持ちがわかってる人たちだから相談もできる。理解もしてくれる。
それのいったいどこがいけないのか。
監禁?とか馬鹿げたこという人がいるけど、親から預かっている以上、子どもがどこかにふらっと逃げ出して、そのまま行方不明になったらどうするんだ。それを防ぐために見張っていなくちゃいけないこともある。
逆にメディアが「引き出し業者」なんておおげさに誇張したせいで、本当に悪い引き出し業者が生まれてしまった。
いったい何やってんのかと思う。
ぼそっと 池井多
あなたはどこの団体を卒業されたのですか。
前にも、私はこの質問をあなたにさせていただきましたね。
あなたが、ご自分が卒業した自立支援団体を自分の親に代わる存在として支持したいのは想像できるし、自立支援団体を批判する人々に反論したい気持ちも尊重されるべきだと思いますが、そこまで自立支援団体を誇りに思っていらっしゃるなら、なぜ卒業したご団体を明かすことができないのですか。
桐山 忠一郎
ぼそっと 池井多 さん。私の卒業した自立施設団体の先生が、謂れのない批判を世間から浴びて、病んでしまったからです。そしてその自立施設団体はなくなってしまいました。
私は恩師である自立支援施設の先生を、これ以上苦しませたくないんです。
ぼそっと 池井多
なるほど。
優しい心をお持ちですね。
「監禁?とか馬鹿げたこという人がいるけど、親から預かっている以上、子どもがどこかにふらっと逃げ出して、そのまま行方不明になったらどうするんだ。それを防ぐために見張っていなくちゃいけないこともある。」
とおっしゃっていますが、本人の意志に反して、一つの場所に留め置かれたら、それはやはり「監禁」と呼ばれるべきでしょう。
一人の人間として「どこかにふらっと逃げ出して」いく自由はあると思います。
桐山 忠一郎
ぼそっと さん。それでは訓練になりません。
たとえば、これがお寺だったらどうでしょうか。
親に連れられてお寺に入れられた場合を想像してみてください。
自衛隊でもいいです。
深夜などに、勝手に外出してはいけないですよね。
お寺や自衛隊は監禁でなく、自立支援団体ならば監禁になるのはどうしてでしょう。
また、監視するのは自立支援団体の先生だけではなく、いつも一緒に行動している訓練生も監視します。みんなで行動することを覚えるためです。
なのに、一人だけ好き勝手をやっていたら、訓練にならないじゃないですか。それでは、施設に連れてくる前と変わらないままです。
ぼそっと 池井多
なるほど。
しかし、お寺や自衛隊は、本人の意志でそこに入るものでしょうけれど、私が知る限り多くの自立支援団体では、本人の同意は取っていないか、あるいは形だけ取っていても極めて本人の意向は軽視された形で、その施設に「入れられて」いるのです。
その違いは大きいと思います。
桐山 忠一郎
だいたいの場合、本人の同意はちゃんと取っています。
しかし、たとえ本人の同意が取れない場合でも、強引に連れていく必要が生じるときはあります。家庭内で暴力をふるう、どうしようもない場合はどうでしょうか。
また、強引に連れていく理由には、子どもにエゴを押し付けるやばい親から引き離すため、ということも入っています。
施設に入ったら、第三者が加わるわけですから、親は子どもを「親のいうことは絶対だ」という思惑通りにコントロールしつづけることはできなくなります。
そこで親が何か言うと、施設から
「いや、それは子どもさんが決めることですから」
と断ってくれるのです。
それを不服した親たちが、あーだこーだとわめきたてるということは、自立支援施設ではしょっちゅう起こっています。
ひきこもり当事者からしたら、施設はそんな危ない親から守ってくれて、しかも同じ気持ちをもった仲間がいる場所です。そこで社会で生きていく知識を一つ一つ身につけることができます。
そんな施設から、なぜ脱走までして家に戻りたがるひきこもりがいるのか、私には理解できません。
ぼそっと 池井多
私が想像するに、それは同じ自立支援施設に入っていても、ひきこもり当事者は多様で、一人ひとり事情がちがうからではないでしょうか。
しかし、事情がちがうからこそ、ひきこもり界隈で「暴力的支援団体」と呼んでいる業者や学校が性に合っている当事者もいるのだということを、あなたは私に教えてくださっています。
となると、ますます
「そもそも暴力的支援団体の何がいけないのか」
をはっきりさせなくてはいけません。
「子どもにエゴを押しつけるやばい親から引き離すため」
というのが、彼らが当事者をむりやり連れていく理由であっても、他ならないその「子どもにエゴを押しつけるやばい親」が、子どもである当事者のいないところで勝手に結んだ契約によって、子どもは「強引に連れていかれる」ことが多いですよね。
それでは、子ども=当事者にとって、主権の侵害ではありませんか。
なぜ子どもが施設から逃げ出して、自分の家に戻りたがるのか。
私が想像するにそれは、強引に連れてこられた子ども自身が、施設での暮らしがいやだと思っているからでしょう。
もし、施設の中に居れば虐待的な親から離されているとしても、当人の意思が尊重されていなければ、本人の人権が侵害されているという意味では、虐待親のもとで暮らしているのと同じになってしまいます。
桐山 忠一郎
いいえ、それはちがいます。
親が子どもにエゴを押しつける教育と、施設が当事者に施す教育を、一緒にするのは間違いです。
エゴを押しつける親の教育は聞かなくていいですが、施設の教育は、当事者が社会で自立するのに向けて最低限のマナー、ルール、協調性を教えてているものです。本人のためになるものです。
エゴを押しつける親みたいに、レールをひいて人生まで「あーしろ、こーしろ」と指示して強要してくるものではありません。
子どもの人生は親が決めるのではなく、子どもが決めるものだからです。
しかし、社会の中で生きていく上で、最低限必要なことがあります。いくら自分を生きるといっても、他人に合わせることもある程度は必要です。
だから、
「俺は自由に生きたいんだ。何一つとして指示されたくない」
なんていうのは間違いだと思います。
人間は向上心がなければ成長はしません。施設は向上心を教えてくれるところです。
強引に連れていくと、すぐに人権の侵害だとか言いますが、長年のひきこもりは親にとってお金がかかることでもありますし、家庭内の暴力が始まることもあり、そんな悠長なことを言ってる場合ではありません。
ぼそっと 池井多
親が子どもにエゴを押しつける教育がまちがっている、という点は同意するとして、施設が当事者に施す教育はまちがっていない、ということは言い切れないと思います。
あなたは、あなたの経験から「施設の教育はまちがっていない」とおっしゃっているのでしょう。あなたは自立支援施設のような所が合っていたのだと思います。
しかし、ひきこもりは多様であり、そうではない当事者もいます。
桐山 忠一郎
たしかに私は施設が合ってました。
私以外にも、自立支援施設が合っていて、それによって人生を始められている元当事者はたくさんいます。
だから、そういう施設は社会の中にないと困ります。
「暴力的支援団体」「引き出し業者」などと悪く言うことによって、ひきこもりの自立支援施設そのものが減ってしまうようなことは、非常にやめてもらいたいものです。
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