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やっぱり今日もひきこもる私(303)France 5 放送が巻き起こした「ひきこもり取材の在り方」

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France 5 2020年6月の放送より

#ひきこもり報道ガイドライン


by ぼそっと池井多

 

今日、ひきポスから配信されている次の記事は、フランス語版だけで日本語版がない。

 

www.hikipos.info

 

そこで、VOSOTブログの本記事によって、日本語の読者のために少し説明を補わせていただきたい。

 

ひきポスから配信されているフランス語記事の内容は、本ブログでも

やっぱり今日もひきこもる私(277)

やっぱり今日もひきこもる私(278)

などでお伝えした、私を含むひきこもりに関して今年6月にフランスの公共放送France5で放送されたドキュメンタリー番組の検証である。

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

 

本ブログの皆さまはご存じのように、私はこの番組に大いに異議を唱えたわけだが、制作したフランスの女性ジャーナリストミカエル・ガニェは、

「この番組は、フランス国内ではありとあらゆる批評家から絶賛を浴びた」

自画自賛に終始して、私の批判を受け付けなかった。

 

そこで私は、フランスのひきこもり当事者たちはこの番組をどのように見たのだろうか、と思って聞いてまわった。

その結果については、本ブログでも

やっぱり今日もひきこもる私(280)

で少し触れている。

vosot.hatenablog.com

 

フランスのひきこもり当事者は、この番組によってフランスの「ふつうの人」たちが、ひきこもりを精神医療の対象として見るようになってしまったことを憂いていた。

この番組が放送されたことで、たしかにひきこもりという現象はフランス国内でも周知された。しかし、

「ひきこもり? そりゃ大変だ。頭がおかしい。精神科へ連れていけ」

とフランス人が考えるようになってしまったのだ。

 

ここに、20年前の日本と似た状況がある。

そのため、今日ひきポスに出した記事の題名は、

 

La France Va Répéter l'Échec Depuis 20 Ans du Japon ?
Examen de l'Émission sur Hikikomori par France5

フランスは日本の20年の失敗を繰り返すのか?

France5のひきこもり番組を検証する

 

とさせていただいた。

 

 

 

 

ミカエル・ガニェの率いる取材クルーは、いったいどこがいけなかったのか。

その問題を突き詰めていくと、最近とみに (*1) 論議されるようになってきた「ひきこもり報道ガイドライン」と深く関わってくることがわかる。

 

*1. たとえば2020年8月25日 TBSラジオ荻上チキ Session-22」

 

まず、ひきこもり取材クルーがひきこもり当事者たちに嫌われたり批判されたりする理由として、第一に挙がるのが、

「部屋に入ってきた」

というものだが、誤解のないように言っておくと、France5が私のひきこもり部屋に入ってきた事実はない。

たしかに、彼らは私のひきこもり部屋へ入ってくることを何度も望んだが、そのたびに私は拒否した。そして拒否という意思表示が尊重された。

したがって、そこに紛争の種はない。

 

それでは問題は何かというと、そのように私が意思表示したにもかかわらず、ミカエル・ガニェがそれを無視をした、いくつかの点にある。

たとえば、取材を受けるにあたって、こちらが出した条件である。

私は、

「もし放送前に、私の語った言葉がどのようなフランス語に訳されるのかわかったものではないという状態は嫌だから、その訳文を放送前にチェックさせてくれるのならば、この取材を受ける」

という条件を出した。

そして、彼女がこの条件を呑んだために取材が始まったのである。

 

ところが実際は、ひとたび収録を終え、彼女たちクルーがフランスへ帰ってしまうと、訳文テキストの事前チェックはおろか、放送日すら教えてこなかった。

いきなり「すでに放送された」という事実を、フランスのひきこもり仲間から知らされて、こちらは驚いた次第である。

 

「これはいったいどういうことか」

とディレクターを問い詰めると、彼女はそれを、

「わざとあなたの条件を無視したわけではない」

と弁明した。

 

わざとであろうが、わざとでなかろうが、げんに条件が履行されなかった以上、それは現場責任者である担当ディレクターが責を負う問題であることには変わりがない。

 

そもそも「わざとでなく」相手の条件を無視してしまった、とはどういうことだろうか。

それだけで「過失」である。

 

もっと深読みをすると、たんなる「過失」で済む問題だろうか、という疑問も浮かび上がってくる。

私が条件を提示したときにそれを聞いていない、もしくはメールに書いたときもそれを読んでいない、ということが考えられるのだ。

実際には、その線がいちばん強いと思っている。

 

そして、被取材者インタビュイーは、取材者インタビュワーである彼女にとって、言っていることをていねいに聞くほどの存在ではないようだ。

彼女は被取材者を独立した主体を持った対等な人間として考えていないのである。

ちょうど赤ん坊がむずがっても、それを放っておく、という態度に似ている。

 

私の語りの翻訳を、事前に私にチェックさせなかったことに関して、さらに問い詰めると、彼女はこう言ってきた。

 「通常の取材時と同じように、被取材者が外国語の話者の場合は、その言語を母語とするプロフェッショナルな翻訳者に訳してもらい、それを吹き替えの原稿とする。

ちゃんと通常の手続きを踏んでいるから問題はない

 

しかし、それを「問題はない」と考えているのは、取材者である彼女であって、私ではない。被取材者である私はそれを「問題である」と考えている事実は、ここでは一顧だにされていないのである。

 

そもそも「ひきこもり」を取材したいとメディアが願うのは、「ひきこもり」が「通常の人」ではないからではないか。

「通常の人」ではないのだから、「通常の手続き」さえ踏んでいれば大丈夫、という思考は通用しないはずである。

言い換えれば、「通常の手続き」で扱えない人々であるからこそ、それを報道することにニュースとしての価値があり、そのためメディアは「ひきこもり」に対する取材意欲をそそられている、とも言えるのである。

 

だから、「通常の手続きに従ったから問題はない」というのはおかしい。

 

私は、

「ひきこもりに関する言葉というのは、一見すると矛盾に満ちていて、直訳すればよいというものではない。

翻訳すると、とかく簡略化され、平板になりがちだ。それでは意図は伝わらない。

だから『通常の手続きを踏んでいれば問題はない』わけではない」

と反論した。

 

 

 

 

同じことは、取材中の電話連絡ということについても言えた。

彼女たちがパリからやってきて、最初の夜に私たちは新宿で会い、収録に関する打ち合わせをした。そのときに彼女が

「電話番号を教えてくれ」

というので、私は、

「私はひきこもりで、電話恐怖症なので、ふだん電話は使っていない。どうしても、というなら教えないでもないが、よほどの緊急時以外は使わないでほしい。連絡はメールにしてほしい。それを約束するなら教えてやる」

と言った。

 

「ああ、わかった、わかった」

という感じで彼女は私の言葉を受け流していた。

それで電話番号を教えたところ、それ以後、彼女が日本にいる間はしょっちゅう電話がかかってきたのである。

 

私としては、

「これが緊急時か?」

と皮肉をこめて問い返してやろうかと思ったが、その暇はなかった。

彼女はいつも電話口で自分に必要な用件だけを語り、こちらから必要なことを聞き出すと、サッと切ってしまうので、私がそのように悠長な皮肉を述べている時間は、通話のあいだには取れなかったのである。

 

ここにも「ふつうの人」たちが生きている「通常の時間」と、ひきこもりが生きている「ひきこもりの時間」の間の、微妙な差異があった。

 

この件についても、おそらくミカエル・ガニェは、

「電話というのは通常、そのように使うものであって、そういう通常の社会的習慣に従って電話を使用したのだから問題はない」

と言うであろう。

 

これについても、

「ひきこもりは通常の人とはちがう。だから、条件をつけている」

と私は言うであろう。

 

 

 

 

さて、問題はどこにあるのだろうか。

それは、彼らが、たとえばひきこもりに関することは言語が矛盾と葛藤に満ちていて翻訳しにくいとか、電話恐怖症が多いといった、ひきこもりの特性を理解しないことにあるのではない。

そうではなく、彼らがそのようにひきこもりの特性を理解しないことを先読みして、こちらがわざわざ条件をつけているにもかかわらず、彼らがその条件をのっけから無視して、「ふつうの人」と同じ方法で取材を敢行した点にあるのだ。

 

ミカエル・ガニェというジャーナリストは、私がひきこもりだから、あのようにこちらの主体を軽んじる取材をおこなったのだろうか。

もしそうだとしたら、彼女はひきこもり報道に携わる前に、まずは彼女自身のひきこもり観を正さなければならない。

 

しかし、ほんとうのことを言うと、私は、彼女は私がひきこもりだからあのような取材態度を取ったとは思っていないのである。

これは私の、いわば勘にすぎないのだが、彼女は誰に対しても、あのような取材態度で今までやってきた人なのだと思う。

 

経歴を見ると、彼女は世界中、取材に駆け回っている。

おそらくアフリカやアマゾンの奥地にも、被取材者を求めて分け入っていっただろう。

その延長で、日本のひきこもりを取材しに来たのである。

 

そこに、オリエンタリズムが見え隠れしている。

 

すなわち、ミカエル・ガニェにとって被取材者とは、道にころがっている石ころや、絵を描く時の絵の具と同じであって、彼女がドキュメンタリー作品をつくるときに、彼女の意のままに画面の中におさまってくれればよい素材、いわば客体にすぎない。

 

アフリカやアマゾンの奥地で彼女に取材された人々も、やはり私と同じように主体を認められず、素材として、客体として扱われたのではないか。

すなわち、あれがミカエル・ガニェというジャーナリストのジャーナリズム観なのだ。

 

しかし私の考えでは、被取材者とは、取材者の制作意図に合意し、いっしょにそのドキュメンタリー作品を作っていく、一人の独立した主体を持った共同制作者であるはずだ。

だから、被取材者は一般に出演料をもらわないのである。だから被取材者は俳優とはちがう。

もし「素材になれ」「道具になれ」というのなら、役者のようにギャラをもらわなければ、人間関係の平等性は保たれない。

  

私はミカエル・ガニェ宛てのメッセの最後にこう書いた。

 

あなたは、アエル(フランスのひきこもり当事者)に、私をなだめてくれ、と頼んだそうですね。

私の怒りは、そんな子ども扱いで鎮まるものではありません。

私は、もっと哲学的なことを語っているのです。

私は、もっとあなたのジャーナリストとしての核心に切り込むことを語っているのです。

 

「核心に切り込むことを語る」の部分は、フランス語で

Je parle de quelque chose qui va au coeur de votre...

(あなたの心臓へ達することを語っている)

と書いた。

こちらの方が私の意をよく表している。

 

 

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