by ぼそっと池井多
今日は第19回「ひ老会」を開催する。
コロナ禍が始まってから、4月は一時中止、5月はオンラインという形で2回ほど試行し、それ以後はリアル開催に戻している。
しかし、畳の上で密集してリラックスするという、コロナ以前の形式は3密になるので、ただっぴろい洋室を借りて、対策を万全に取りながらの開催となる。
「ひ老会」のような集まりには、じつはあの3密が良かったりした。
密室で密着して語り合っていると、議論も密になっていく気がするのである。
しかし、そうも言っていられない。
最近はひきこもり関連のイベントが、のきなみ中止か延期になっている。オンライン開催では、なかなか代わりにならない。
そこで、やはりリアル開催が待望されている。
そこで、どうしても不自由な条件下でもリアル開催という結論になるのである。
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主催者としてこんなことを言うのは何だが、「ひ老会」というのは、参加者の悩みを解決してあげる場ではない。
「ひ老会」へ来ても、誰も悩みの答えを授けてくれる人はいない。
そこにいるのは、みな当事者だ。
たとえひきこもりの当事者でなく、取材などで来た方であっても、生きていれば何かしらの悩みはあるにちがいなく、「人生の当事者」としての参加をお願いしている。
それが受け容れられない方は、たとえどんな大きなメディアから来ていても、帰っていただく。
なぜならば、私たちは「ひ老会」という場において、人間として対等でありたいからだ。
どうも「悩み」とか「苦しみ」というものを、とかく世間の人々はいけないものとして、生活から除去したがるものである。
そして、悩みを持っているのは愚かさのためだと考えがちである。
相手にとっても「悩み」は害悪だなどと思っているから、悩んでいる人を見つけると、すぐその悩みから「救ってあげよう」などとする。
たとえば、ひきこもり当事者たちのための就労支援施設は、悩む空間としてあるのではなく、悩みから抜け出すための空間としてある。
だから、就労支援施設では、
「そんな、いつまでも悩んでいたって仕方ないでしょ」
とばかりに、社会に出るためのマナーやスキルなどを教えこむのだ。
「やっぱり今日もひきこもる私(302)」で議論したように、就労支援施設や自立支援団体というものも、いちがいに否定し去れるものではない。
「社会へ出るためのマナーやスキルを教えてほしい」
と願っている当事者もいると思われる。
そういう当事者は、自立支援施設でも就労支援施設でも、どこでも行けばよいのだ。
しかし、「そんなものはどうでもいい」とは言わないまでも、
「社会的なマナーやスキルは、こちらがその気になればいつでも学習できる。
問題は、その気にならない、という点にある」
という当事者もいっぱいいるのだ。
私自身もその口である。
自分というものを捨て、名刺の渡し方、上座への譲り方、盆暮れの付け届け方、政治家へのワイロの渡し方など、どうでもいいようなことを社会的なマナーやスキルとして学習すれば、それなりに習得できるだけの能力は潜在的に持っていると思われる。
けれども、貴重な人生の時間を削ってまで、そんなことを学習する気になれない。
こういう当事者が求めているのは、社会的なマナーやスキルではない。
では、何か。
それはたとえば、
「自分はいったい何者なのか」
「自分の人生とはいったい何なのか」
「自分にとって『働く』とは何か」
といった、とても社会では語れないくらい「青臭い」「恥ずかしい」とされる根本的な、哲学的な問いを考える場であったりする。
それらの問いに対する答えは、支援者など外部から与えられるものではありえない。
なぜならば、どんなに立派な言葉であっても、外部から与えられたとたんに、それが自分が編み出した答えではなくなるからだ。
やはり答えは、いろいろな人と言葉を交わらせながらも、結局は各自が自分でたどりつかなくてはならないのである。
答えは、おそらく自分の中に眠っているのだ。
まだ自分が、己の奥深くに眠っている答えに気づいていないだけなのである。
すると、答えに到達する作業が必要となる。
それは「悩む」ことだ。
「悩み」や「苦しみ」を否定し排除していては、いつまでも答えに到達しない。
私は「ひ老会」という場を、
「心ゆくまで悩める空間」
にしたいと願っている。
後記:次回、第20回「ひ老会」は11月15日を予定しています。