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やっぱり今日もひきこもる私(305)「ひきこもり報道ガイドライン」作成の問題点

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by ぼそっと池井多

 

#ひきこもり報道ガイドライン

 

先日も「やっぱり今日もひきこもる私(303)」でも少し触れたが、8月25日のTBSラジオ荻上チキのSession22」の放送以来、にわかに私の身辺が「ひきこもり報道ガイドライン」の策定について騒がしくなってきた。

 

私は本ブログでも「当事者活動を考える(37)」で書かせていただいたように、「暴力的支援団体を考える会」という集まりに呼ばれて、2019年12月4日に一回だけ行ったことがある。

そこで出た「ひきこもり報道ガイドライン」という議題についても多少の意見を申し上げたが、私自身が積極的にガイドライン作成を推進したという事実はない。

その「暴力的支援団体を考える会」もとりあえず初回だけ参加してみた、という感じである。その後、第2回以降の開催のお知らせはいただいていないように思う。

そのため、その会の名前で発信されることが、私をふくめ、その会に一度でも参加したメンバーたちの「総意にもとづくもの」と解釈されるのは、いささか違う気がする。

 

 

 

 

もちろん私自身、これまで多くのメディアとやり合ってきたために、ひきこもりに関する報道には山ほど言いたいことがある。

しかし、「山ほど意見がある」ということは、「ひきこもりに関する報道に反対する」ということとはちがう。

 

本ブログの読者の皆さまはご存じのように、最近では私はフランスの公共放送 France5 に抗議している。

いや、France5というよりも、その番組を作ったディレクターである、フランスでは有名な女性ジャーナリスト、ミカエル・ガニェに抗議しているのである。

 

しかし私が彼女におこなっている抗議は、ひと言でいえば

「約束を破ったな」

ということにすぎない。

それは、たとえ私がひきこもりでなくても同じように言うことであろう。

人は誰でも約束を破られたら、

「おい、馬鹿にするなよ」

と言いたくなると思う。

 

だから、私が異議を唱えているのは、彼女の「ひきこもり報道」に対してではなく、彼女の「報道」の姿勢そのもの、あるいは「ジャーナリズム観」だと考えるのがおそらく正しい。

 

 

 

 

ひきこもり報道から生じるトラブルで、いちばん良くあるのは、「ひきこもり部屋にカメラが入ってきた」というものである。

私自身も、2017年に某テレビ局の取材でひきこもり部屋にカメラが入ってきたときは良い感じはしなかったが、私としては渋々ながらも事前に同意しているので、そのことが「問題であった」とはいまさら言いたくはない。

 

一方で、今回ミカエル・ガニェたちの取材クルーは、執拗に私のひきこもり部屋の中に入ってきたいと主張したが、そのたびに私は拒否した。そのため彼女らは、私のひきこもり部屋に入ってくることはなかったのである。

したがって、私は彼女らが「ひきこもり部屋へ入ってきた」という問題はない。

 

 

 

 

「ひきこもり報道ガイドライン」では、

「ひきこもり報道においては、ひきこもりの部屋を写してはいけない」

という項目を盛り込むことが策定されているという。

 

私は、これはいかがなものか、と思う。

 

なぜならば、ひきこもりの中には、自分のひきこもり部屋を写してもらいたい当事者だっているからだ。

たとえば、今年8月に放送されたNHK Eテレ「バリバラ」に出演していた当事者おがたけさんのように、自分の部屋にカメラが入ることを許可するどころか、そこを番組収録の舞台として提供する方もいる。

おがたけさんの場合は、ひきこもり経験を看板にしているお笑いタレントを部屋へ入れ、そのなかで対談し収録させているのである。そういう「キラキラ当事者」でありたいと願っているようにお見受けする。

ああいう芸当は、いくら臆面もなくテレビにしゃしゃり出ることが多い私でも、とうていできない。

 

しかし私の場合は、ディレクターの要請にしたがって、カメラで自分の生活の一部を自撮りして提供することならばできる。

取材クルーは、たいていの場合3~4名であるから、彼らが六畳一間のひきこもり部屋へ入ってくると、それだけで十分に「侵襲」と表現したくなる圧迫感があるのだ。

けれど、自撮りであれば、取材クルーがズカズカと私のひきこもり部屋の中へ入ってくることもない。

 

このように、「ひきこもり部屋を写す」ということ一つに関しても、全面的にOKな当事者から、私のように部分的に許容する当事者から、まったくお断りする当事者まで、さまざまな当事者の意向が存在するのである。

 

まさしく、私がいつも申し上げている

「ひきこもりは多様であり、一人の当事者が他の当事者を代表・代弁できない」

という特徴が、「部屋を写す」という行為一つにも反映されるのだ。

 

ところが、ここで特権的な当事者が出てきて、「ひきこもり部屋を写してはいけない」などということを「ガイドライン」として定着させるとなるとどうだろう。

どうしても、その当事者が、たとえ本人にそのつもりがなくても、ひきこもり当事者全体を代表している格好になってしまう。

すると、いったい何の権限があって代表するのか、ということが必ずや問題となる。

そういう特権的な当事者は、専門家にもかわいがられて、そこの上級患者だったりするのだが、そういう属性が「ひきこもり界隈」という曖昧なコミュニティの中で、ある種の権力基盤となっているとなると、これはとんでもないことだと思う。

そんなことなら、わざわざ「当事者」などという概念を強調する必要もなくなる。

 

 

 

 

これまで私は、「ガイドラインの作成」という行為が、その業界の既得権益を体よく守るために行われてきたという現場を、いろいろな業界で見てきた。

たとえば、私が30代に副収入を得ていた家庭教師の業界である。

業界大手が、自分たちの業態に適合した「プロ家庭教師派遣ガイドライン」を官公庁の肝いりで作成してしまうことにより、そのガイドラインに見合うサービスが供給できない新規中小業者を、家庭教師への需要という一つの市場から締め出すことに成功していた。

結局、表向きは消費者を守るように見せかけながら、当時の業界大手は「ガイドライン」を策定することによってライバル業者を打ちのめし、自分たちの寡占市場をキープしたのである。

 

同じような展開が、今後「ひきこもり報道ガイドライン」についても起こりうる。

「ひきこもり」という語が国際的に広まるにつれて、これまで「ひきこもり」という概念を知らなかったメディアが続々といろいろな国からやってくるようになった。

彼らは、

「ひきこもりを報道しよう」

「ひきこもりを表現しよう」

としてこの「報道市場」に参入し、日本のひきこもり当事者にもアプローチしてきている。

 

外国語で記事を出している私などは、まさに彼らを迎え撃つ矢面に立たされるわけだが、そのため面白くない思いをすることも多い。先に述べた France5 の件は氷山の一角にすぎない。

しかしだからといって、私はこれら「ひきこもり取材への新規メディアの参入」を根絶やしにする必要は感じない。

なぜならば、そういう新規メディアの5人に1人、あるいは10人に1人は、以前からひきこもりを取材してきた古参の報道者が思いもつかなかったような斬新な視点により、ひきこもりの真の姿を世界へ発信する手助けをしてくれているからである。

ひきこもりを古くから取材している古参のジャーナリストが、ひきこもり界隈の中に獲得している人脈を駆使し、大きな政治力を伴いながら、すでに彼の中で確立している彼の「ひきこもり観」に見合う方向へひきこもり界隈を持っていこうとするのに比べると、政治力のない新規のジャーナリストたちは、うまくいけば虚心にありのままのひきこもりの現状をとらえようとしてくれる。

そういう新規のジャーナリストは、ひきこもり当事者からするとありがたい存在だったりするのだ。

ところが、「ひきこもり報道ガイドライン」は、その策定の方法や内容いかんによっては、これらの新規のジャーナリストたちを、ひきこもり界隈という一つの報道市場から締め出してしまうことになるだろう。

 

 

 

 

「ひきこもり」という語が入っている報道ガイドラインであるから、それは取材対象がひきこもりである時しか効力を持たないはずである。

すると、きっとガイドラインが適用される対象者は「ほんとうにひきこもりなのか / - だったのか」といった議論が持ち上がるケースが考えられる。

となると、また話は「ひきこもりの定義」といった議論の泥沼へ戻っていくかもしれない。

 

France5の一件で懲りた私は、ともすればこのような「ひきこもり報道ガイドライン」の素案を書きたくなる。すなわち、 

「ひきこもりの取材に関しては、被取材者が出してきた条件が、たとえ一般的な社会通念に即さないものであっても、取材者は条件を受諾したかぎり、その条件を遵守するものとする」

 

たとえば、「電話をしない」という条件を呑んだら電話はしない。「事前に翻訳をチェックさせる」という条件を呑んだら、ちゃんとチェックさせる。そんな当たり前のことである。

 

しかし、これは考えてみると馬鹿馬鹿しい。

「ひきこもり」という部分を取り去って、

 

「取材に関しては、被取材者が出してきた条件が、たとえ一般的な社会通念に即さないものであっても、取材者は条件を受諾したかぎり、その条件を遵守するものとする」

 

と言っても同じだからである。

 

これはジャーナリズムどころか、人間社会の基本ではないか。

私が人間として当たり前のことを要求したのにすぎず、私がひきこもりであろうとなかろうと、相手はとうぜん守るべきことだったのだ。

それを守らせるために、なぜわざわざ「ガイドライン」などと仰々しいものを作らなければならないのだろうか。

 

 

こうして考えてみると、古参の報道者の既得権益の保護に役立つだけかもしれない空虚な「ひきこもり報道ガイドライン」ははたして必要か、という問いに戻ってくるのである。

 

 

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