VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(321)東京のひきこもり、北海道へ向かう<9>40年前の生ぬるいビールの記憶

f:id:Vosot:20201025182133j:plain

18歳の私が訪れ撮影した(らしい)納沙布岬

 

by ぼそっと池井多

 

今回の北海道への旅は、図らずも私が18歳のときに独りで北海道へ行ったときの道程の一部を、40年の歳月をへだてて辿ることでもあった。

当時の私が北海道で撮った写真は、今でも残っている。

肝心な私が、あのとき北海道をどのように回ったか忘れてしまっているのに、こうして残っている写真を読み解くことで、若造だった私がたどった足跡を蘇らせることができる。

 

 

 

 

名古屋で高校3年生だった私は、まったく大学へ行く気がしなかった。

そのため、親友だったトリタという男と、

「浪人しようぜ。浪人は今しかできない人生体験だ」

などと申し合わせ、意図的に二人とも大学受験で玉砕した。

地元の国立大学であった名古屋大学を受けたのだが、最初の受験科目の時間に30分遅刻するなどし、試験監督官も呆れ顔であった。

そんな受験を仕方をすれば受かるわけがないし、また逆に、たとえ受かっても行きたくなかった。

「もしそんなに行きたくないならば、なぜそこを受けたのか。

はじめから受けなければいいのに」

と人は思うことだろう。

ごもっともである。

じつはそこに、やがてひきこもりになる者らしい矛盾と葛藤が垣間見られるのである。

 

f:id:Vosot:20201025210336j:plain

素朴な駅名標、時刻表つき。今はない興浜北線。


今にして思えば、大学を受験したときの、あの煮え切らない矛盾に満ちた私の行動は、「ひきこもり」の前哨戦だったのだ。

トリタはどうだか知らないが、少なくとも私はそうであった。

 

あちこちでお話しさせていただいているように、私のひきこもりは大学卒業のときに始まった。

就職活動をし、企業から内定をもらい、それで喜ぶどころか絶望してひきこもったのである。

しかし、それより5年前、高校から大学へ進むとき、私は似た行動を取っていたわけだ。

「受験する」という、大学へ行くように見せる行動をとりながら、「浪人する」という、それを自ら阻止する行動をとったのである。

 

今ならば私は自分の人生を解読することができる。

会社へ入ることも、大学へ入ることも、母が望んだ人生のレールを進む点において共通していた。

私の無意識は、

「そのレールを前へ進んではいけない。

進めば母親の虐待を追認する形になる」

と必死に私の意識による選択にブレーキをかけていた。

その結果、大学受験のときは浪人となり、大学卒業のときはひきこもりとなったのである。

 

そんな私であったから、名古屋大学を受験している最中も、受験のことなどどうでもよく、受験が終わったら行く予定にしている北海道の旅程ばかり考えていた。

こうして18歳のときの北海道旅行は、私の大学受験と、その不合格発表のあいだの日々で行われた。

たしか十日間ぐらいだったと思う。

 

f:id:Vosot:20201025182647j:plain

「こんな所まで行っていたのか」と驚く。根室標津駅。現在はない。

 

40年前に自分が撮った写真を見ていくと、青函連絡船で函館に上陸してから、まずは札幌を通らずに、室蘭本線まわりで根室をめざしたようである。

根室では納沙布岬まで行って千島列島を臨んでいる。

それから十年もしないうちに廃線となった根室標津へ行き、どうやら釧路から北上して網走にまわり、あちこち細かい支線を終点まで乗りつぶし、やがて稚内へ行き、宗谷岬に立ったものらしい。

札幌に寄ったのは、本州への帰路である。

夜行列車で函館へ帰る前の晩に、少しばかり札幌で時間を作ったのだった。

しかし、「乗り鉄」人間にはよくあるパターンだが、ほとんど駅から出ていない。

改札は出たが、駅構内から地下街へ降りただけで、大通り公園も時計台も、札幌の街はいっさい見ていないのである。

高校3年生に見た、私の札幌の記憶は、駅の南に広がっている地下街だけだ。

 

あのとき私はそこで、

「せっかく北海道に来たのだから、海の幸を喰っておかなければ」

などと考え、すし屋に入ることにしたのだった。

道中、食事はいつも駅の立ち食いそばのような安物ばかりであったから、せめて道内最後の食事ぐらい奮発して、自分としては精いっぱいの贅沢をしようと考えたのである。

しかし、しょせん地下街の雑踏にあるすし屋などというものは、立ち食いそば屋と同じで、「本格的な」北海道の海の幸を期待するところではない。

それでも、

「北海道を最後に離れる前に、自分は贅沢にもすしを喰った」

というアリバイが欲しかったのである。

 

遅熟であった私は、すし屋に入るなどということに慣れていない。

ひきこもりは、えてして対人恐怖であるため、「客下手」であり、私もそうであった。

店に入ると、その店で「正しい客」「慣れた客」をやらなくてはならないと考えて緊張し、妙な力が肩に入ってしまい、その結果、よけい「おかしな客」「いやな客」となってしまう。

その繰り返しであった。

大人になっても、ずっとその性癖は続くのだが、もちろん高校3年生であったこのときも、そういう見栄があった。

それ以前は独りですし屋など入ったこともなかったし、母はじゅうぶんな収入を得ていてもケチな人であったので、家族といっしょであっても、すし屋は入ったことがなかった。

f:id:Vosot:20201025212049j:plain

 

こうして、勇気を奮い立たせて入った安物のすし屋で、何を頼んだのかは忘れてしまった。

どうせ安価な握りのセットを頼んだのだろう。

ところが、そこで私は、

「なめんなよ。私は大人の客だぞ」

と見せかけるために、たいして飲みたくもないのに瓶ビールを1本注文したのである。

 

ここに、私の「客下手」が出たのだった。

自意識過剰で、店の人や店内の他の客が、みんな私がどのような人間であるかと注視しているかのように考えていた。

まだ18歳の未成年であること、この土地を知らないよそ者であること、などなど諸々の弱点を覆い隠すために、頼まなくてもいいビールを頼むことで、わざわざ大人ぶったのである。

 

ところが、店内は忙しい夕食どきであり、店のおばさんからすれば、私という客がどんな人間であるかなど、どうでもよかった。

ましてや、他の客たちは私という若造の存在にすら気づいてさえいなかったと思う。

 

おばさんは、たしかこう訊いてきた。

「お客さん、ビール冷えてないんだけど、生ぬるいまんまでいいですか」

 

私はもう髪の先からつま先まで緊張して、自分がどう見えるかということで頭の中がいっぱいだったから、そもそもおばさんの質問自体、ろくに聞いていなかった。

そこで、「このようにふるまうと大人としてサマになる」と思ったのか、鷹揚をよそおって、

「ああ、いい。いい」

といった風情でうなづいて演せた。

 

すると、やがて冷やしていないビール中瓶1本が運ばれてきた。

生ぬるいビールは、ひたすらまずかった。

 

鮨は、何を喰ったか、まるでおぼえていない。

ところが、店を出たときの会計が1400円だったことは、なぜか憶えているのである。

「ぼくは贅沢をしたんだ」

ということを自らに記銘したかったからかもしれない。

 

こうして私にとって札幌は、地下街の生ぬるいビールという記憶に集約されてしまった。

 

f:id:Vosot:20201025211351j:plain

これも「こんな駅まで行ったのか」と驚く。今はない。

その後、夜行で札幌を発って、朝に函館を発する連絡船に乗り、日本海側をまわって米原をめざした。

次の夜は、北陸本線を走る夜行列車の中だった。

早朝に名古屋に帰ってきて、名古屋駅の黄色い公衆電話からトリタに電話をかけた。

トリタは、私が北海道をまわっている間も名古屋に留まり、彼自身と私の不合格発表を見にいってくれていたのである。

「どうだった?」

「期待通りだ。二人ともめでたく浪人だ」

「よし」

そんな会話を短く交わした。

トリタの家も、大学に落ちたために険悪なムードになっていたから、それより長い時間話すことは危険だった。

もちろん、私の家でも、私の不合格を知って、母親が怒りまくっていた。

そんなささくれ立った感覚で、あのときの北海道の記憶は終わる。

 

 

 

 

今回私は、ほんらい帰りも別のルートでゆっくり東京へ帰りたかったのだが、さまざまな制約からそういうわけにいかず、仕方なく帰路は新千歳空港からあっけなく飛行機で羽田に帰ってきた。

しかし、

「今回の北海道、最後の食事は何にしようか」

と迷ったとき、40年前の自分の選択にちなんで、やはり鮨にすることにした。

新千歳空港ターミナルの中のすし店である。

今回、ビールは頼まなかった。

 

f:id:Vosot:20201025205410j:plain

今回、新千歳空港を飛び立つ前に食べた鮨。

 

 関連記事

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

vosot.hatenablog.com

 

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020