by ぼそっと池井多
今日のひきポスでは、これまで弊ブログなどに断片的に出してきた、私の「そとこもり」に関する考察をまとめて、「そとこもりの原理」と題して記事を書かせていただいた。
「ひきこもり」を理解する人の中でも、「そとこもり」を理解しない人が多い。
そもそも「ひき+こもる」という動詞の中に、「内へ撤退する」という響きがあるため、それが「外へ」というベクトルと結びつかないのである。
しかし、ここでは「撤退する」という部分に重点的な意味が宿る。
「そとこもり」する側から言わせていただくと、撤退する方向が内ではなく外でも、何ら不思議はないわけである。
東京から札幌まですべて各駅停車で行くという旅路は、予想通り私をおおいに癒してくれた。
なぜ、それが癒しになるのか。
鈍行の旅そのものが、「そとこもり」であるからだと思う。
何時間も列車に乗っているあいだ、あまたの数の人が乗り降りするが、私の場合、車内ではたいてい誰とも会話を交わさない。
今はコロナだから、車内の会話が推奨されないということもあるが、コロナでなくても、私は車内では人と話さないのである。
おそらく「放っておいてくれ」というオウラを全身から発して、私は窓から外を見ているのだろう。
これは一種の「そとこもり」状態である。
後ろへ飛び去っていく車窓の風景を見ていると、過去のことがいろいろと思い出されてくる。
これは、おそらく精神療法などで使われるEMDR(眼球運動療法)と関係があるのではないか。
目を右へ左へ、あるいはグルグルと動かすだけで、脳の中の思考が進む。
それで悩みごとが解決するまでは行かないだろうが、一定の心理的な効果を得る療法である。
そこに加えて、つぎつぎと眼前に現われる風景が、さまざまな過去を記憶の前面に引き出してくる。
また、何時間もただ列車に乗っている、という状態がいい。
前に書いたように、8時間ぐらいまではまったく飽きない。
20代、そとこもりをしていたころも、私はアジアで、あるいはアフリカで、堅い座席のバスに何時間も揺られていた。
私と同じような旅人が、長い乗車時間に飽きても、どういうわけか私だけは飽きることがなかった。
移動は、そういう乗り物に乗っているだけで何かをやっている気分になる。
つまり、列車やバスの中で、何もやらずに無為に車窓を眺めているだけでも、ある街から次の街へ移動するという仕事をやっている。
これが、うつの頭にはよいのである。
うつで、何もできなくて、何もできない自分に焦りをおぼえる人も、長距離列車やバスで移動していれば、その中で「何もやらないで、何かをやっている」という感覚を得られる。
自分が作業として何かをやらなくても、目的地に向かっているという状態だけで「何かをやっている」という達成感がもたらされるのである。