by ぼそっと池井多
北海道へ行っている間に、私のことがAERA dot.にデカデカと出たらしく、その間だけ弊ブログのアクセス数が伸びていた。
いったいどういうことが出たのか、と検索してみると、どうやらこの記事である。
このウェブ記事は、私が北海道で札幌ラーメンを喰っているあいだに、Yahoo!記事アクセスのランキングで1位になっていたようである。
そして、冊子版のAERAでも、同じくこの記事が出ていたのだが、冊子版のほうでは、そこへ専門家のコメントがついていた。
専門家というものが、偉そうなことをいうだけで、まったく何の役にも立たないことを、今さらながら画に描いたようなコラムである。
毒親の被害者に対して、精神医療は見当違いな説教を垂れる以外に、いったい何をやってきたのだろう。
しかも、今回の記事は、従来の「娘にとっての毒母」から進歩して、「息子にも毒母はいる」という新しい領域へ踏み込んでいるにもかかわらず、このコラムニストは専門家のくせにそのような視点はみじんたりとも持ち合わせていない。
当事者のほうがよっぽど専門家よりその領域のことを知っているという一例である。
さて、引用しながらていねいに読んでいこう。
『母を捨てるということ』著者おおたわ史絵さん
親と絡み合った人生の
外に出ることから始まる
私は母のことを毒母だと思っていませんし、虐待とも感じていません。大人になってみればわが家はいびつだったと思いますが、子どもは実母以外の親を知らないのですから、私も親を信じて生きていくしかありませんでした。
おいおい。
実際に毒母に悩まされた体験も、虐待された経験もない者が、医師だというだけで専門家という高みに立ち、わかったような口を聞いている出だしである。
「自分の母のことを毒母と思っていないのであれば、それはあなたの母親は毒母ではなかったのだ。
医者だからといって、毒母に苦しめられている者に説教などする資格はない!」
と言いたい。
その先を読んでみよう。
大人になって視野が広がり、自分が母親からされたことが見えてくると、怒りや憎しみが噴出するのは当然です。それは、何より親だからです。関係のない第三者だから距離を取ればいいだけですが、親だからこそ、殺したいほどの衝動さえ生まれるわけです。
太線部 編集者
もしもし。
何か勘違いをなさっているとしか思えません。
こちらは、そんな一般的な範囲におさまる親の行状を語っているのではない。
もっともっとひどいことが家族という密室で行われているのだ。
もし私が母親からされたことを、この女性医師が彼女の母親からされたならば、このような一般論に溶かしこんで悠長なことは言っていられないだろう。
ここでも、専門家という属性だけで物事を語り、当事者性がないのである。
私は親を許す必要はないと思いますが、親への怒りにがんじがらめになってしまうのは、人生の使い方として非常にもったいないと思います。
いったいどこまでこの女医さんは偉いのだろう。
好きで、親への怒りにがんじがらめになっている者がいるとでもいうのだろうか。
そういう者を救済するのが、ほんらいこういう「専門家」たちの精神医療ではないのか。
それに、この女に「人生の使い方」など語る資格があるのだろうか。
「そういう人生の使い方がもったいない」ということは、そういうふうに過ごす人生には「価値がない」と言っているのと同然である。
つまり、このような人生には価値があり、あのような人生には価値がない、と語っているのに等しい。優生思想である。
私は、母への怒りをいまだに持っているからこそ現在の人生があるわけだが、これが「もったいない人生の使い方」であると、いったい何を以って断じるつもりであろうか。
(……中略……)
私自身の救いは、父親が十分な愛情をくれたことでした。「おまえはパパの子だから大丈夫だよ」という言葉は、大きな支えでした。そして結婚も、私には大事な救いとなりました。
ほらみろ。
こいつの場合は父親がまともな人で、それによって救われたのだ。
つまり、こいつは私ほどの絶望的な成育歴ではなかったのだ。
そんな者が、まともな環境に育てなかった者をえらそうに高みから論じる資格はない。
他の親がどんな親かはわからないのですから、ありもしない親の虚像を追いかけるのではなく、そろそろ親と絡み合った人生の外に出てみませんか? そこから、自分の人生が始まります。決めるのは、あなた自身です。
はっ!
もしもし、あなたさまはおバカさんですか?
えらい方ですねえ。
そんなことはわかってるよ。
というか、子どものころから、そんなことはわかっている。
そんなことを言われて、「ハイ、そうですか」と参考になるくらいなら、とっくの昔にやっている。
それができないから苦しんでいるんじゃないか。
そして、そのように現に苦しんでいる者を救済するのが、医師などの専門家じゃないか。
偉そうに見当違いなコメントを垂れるのが専門家の仕事ではない!
ようするに、このおおたわけとか何とかいう専門家は、
「転んで、足を車輪にはさまれ、もげそうになっていて痛いです。」
といっている患者に対して、傷の治療もせずに、
「転ばないようにしなさい。
私なんか、転びませんよ」
と自慢しているようなものである。
この手の専門家の卑怯なところは、
「親を捨てなさい」
などということを、親に虐待されている最中の子どもに言わないことである。
そして、加害者を責めることなく、被害者を責める。
なぜならば、加害者より被害者のほうが弱いので責めやすいからだろう。
もし私が子どものころ、虐待されている最中に、
「親が悪い。そんな親は捨てなさい」
と言ってくれる専門家が一人でもいたら、私の人生もずいぶん違ったと思う。
しかし、そのころそんなことを言ってくれる専門家は一人もいなかった。
こちらが大人になり、物理的に親とは離れ、被害の内容が後遺症になってから、
「親を捨てなさい」
などという。
そのときは、傷は後遺症となって私の内部になっているのだ。
親を捨てたところで、傷は捨てられない。
そういう状況で、
「親を捨てなさい」
などとのたまうのでは、まるで被害の後遺症に苦しんでいる方が悪いみたいである。
このコラムは、私の毒母の事例へのコメントとして載せられているわけだが、毒母問題に関して、専門家は何の役にも立たないばかりか、かえって害毒にしかならない、ということを私たちに重ねて証明するものとなっている。
ページ編集の仕方が、このコラムにそういうことを証明する性格を与えている。
なぜこのような編集にしたのだろうか。
被害者をバカにしたり、被害者をネタにして自慢話をするのではなく、もっと真の意味で毒親の被害者の救済を考える専門家が増えてほしいものである。