by ぼそっと池井多
NHKひきこもり祭の中で、もっとも暗く重い作品といわれている
NHKスペシャル「ある、ひきこもりの死 扉の向こうの家族」
を見た。
まだ見ていない方は、こちらから見られる。
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2020112916706
冒頭から、いっさいの支援を拒絶して、孤立死していった横須賀市の牧岡伸一さんのことが語られる。
この方は、テレビカメラが入った十日後に栄養失調で亡くなった。56歳だった。
行政からの支援者が医療機関につなげることを提案しても、はっきりとそれを拒否していた。
メディアは行政を突き上げることが多いが、戸別訪問する行政の人たちの苦労も大変なものだとわかる。
本人が、支援を拒否するのがめずらしくないことは、当然だと思う。
支援されるのは、いやなものだ。
途中で愛知教育大学の川北稔さんによる統計の数字がはさまるが、「本人の支援拒否」によって支援がむずかしくなる割合は71.7%だという。
横須賀市の牧岡さんの事例が、突飛なものではないことがわかる。
社会福祉の側に立場を置く人は、何とかしてこういう「かわいそうな人」を支援につなげられないか、と悩む。
しかし、私はやはり当事者の立場から、
「自分でやれるところまでやりたい」
と望んで支援拒否をする人の気持ちがわかる気がする。
私の場合、当事者といっても、この番組で取り上げられた方たちのように衰弱はしていないし、すでに福祉にもつながっている。
そして、そのことを「恵まれている」と叩かれてもいる。
しかし、私も孤立死予備軍であることは相違なく、この先さらに老いていったときに、家族も身寄りもいない独り暮らしのひきこもりとして、彼らと同じような結末を迎えることは十分に考えられる。
そういう立場からこの番組を見ると、
「あれはあれで、一人の人間が意思を通して、自分の生をまっとうした姿なのではないか」
と思う。
頑なに支援されることを拒否する背景には、
「他人の世話にはならない」
ということが、もうその人の哲学や信条になってしまっている可能性がある。
もしそうであるならば、社会福祉の名のもとに、個人の哲学や信条を突き崩す正当性は、どこに根拠が見いだせるのであろうか。
また、支援を求めないのは、
「自分には支援される資格がない」
「自分には生きている価値がない」
と「誤って」考えてしまっているからだと、よく社会福祉の側から説明される。
そのときに、支援を求めない当事者が、社会福祉という立派な仕事をしている人に、
「あなたは生きているだけで価値があるんです」
などと表面的に言われても、
「そうですね」
などとすぐに納得するとは思えない。
「ああ、そうかい。あなたは、立派な仕事をしているから生きている価値があるだろうけど、おれは立派な仕事をしていないんだよ。
なのに、なぜ立派な仕事をしているあんたがおれに、何の根拠をもって『生きている価値がある』などと言えるんだい。
根拠を示せ!」
と毒づきたくなるのが関の山なのではないか。
もっとも、
「他人の世話にはならない」
「人に助けは求めない」
といった、見かけ上は頑迷な信条が、たとえば過去に、
「助けを求めたところ、逆にひどい目に遭わされ、二度と助けを求めるものかと思った」
というような外傷的な体験から来ているものだとすれば、これは精神医療の対象となりうる。
齊藤學のような詐欺師に会うことなく、まっとうな精神科医に出会えば、トラウマ治療としてそういった記憶を解明し、
「これからは助けを借りてでも、もっと長く生きていこう」
と考えるように変わるかもしれない。
けれども、支援を拒否しているということは、いくら理想的な精神医療があっても、それにつながる本人の意思がない、ということである。
そこに、支援拒否している人たちと、彼らを支援につなげ社会に包摂しようとする人たちのあいだの断絶がある。
*
番組の後半になると、佐藤誠(47・仮名)さんという中高年ひきこもり当事者が紹介される。
この方は、支援者が何度も訪問しているうちに次第に心を開いて、地元の社会福祉協議会という居場所につながった事例として描かれている。
しかし、佐藤誠さんは、支援を拒否して孤立死をえらんだ牧岡伸一さんと、一見しただけですでに画然としてちがうところがある。
部屋が整然としているのだ。
その時点で、佐藤誠さんはもう「こちら側」の人なのではないか、と私は思った。
つまり、牧岡さんは私のいう「サバルタン的当事者」であり、佐藤誠さんはそうではない、ということだ。
テレビカメラが入るということで、あわてて掃除をしたのかもしれないが、そういう判断ができて、そういう行動が起こせるという時点で、それはもう彼なりに社会とつながっているのだと思う。
佐藤誠さんの部屋のシーン
番組の中では、この町は社協が中高年ひきこもりたちの居場所のように機能しており、佐藤さんはそこへつながって仲間を得たように紹介されていた。
居場所というのは、何も空間的に新しく作る必要はなく、このように従来からある場に当事者たちが居場所を感じるのであれば、それが居場所になるのだと思う。
しかし、このように構成されたドキュメンタリーからは、支援拒否して孤立死へ向かっているサバルタン的当事者たちを救う方策が居場所であるかのように受け取れる。
居場所支援は、ひきこもり界隈において、いまトレンドだ。
就労支援がダメだということになったから、希望を見いだしたい支援者たちの関心が、いま一斉に居場所というコンセプトに殺到している。
そしてその流れとして、私がやっている「ひ老会」などという小さな会も、中高年ひきこもり当事者が集まる居場所として厚生労働省のシンポジウムで報告された。
それはそれでありがたいことだったが、いっぽうで私は思う。
「居場所とは、そんなに大したものだろうか」
と。
先に触れたように、居場所はつくるものではなく、「居場所である」と感じるところのものであるから、本人が居場所だと感じれば、カフェでも橋の下でも、どこでも居場所になるだろう。
しかし、支援を拒否して、自分の力で生きられるところまで生き、それを以って命をまっとうすることを良しとしている当事者は、そのように外に設けられた居場所には来ないのではないか。
牧岡伸一さんのような当事者は「ひ老会」に来ない。
佐藤誠さんのような当事者ならば、来るかもしれない。
では、牧岡さんから佐藤さんへの変化はどこで、どのように起こるのか。
それは、極めて個人的な、内的な変化だと思う。
その変化を、外から他者が語りかけたり、訪問しつづけたりすることによって起こせるかというと、それははなはだ疑問である。
むしろ逆効果のことが多いのではないだろうか。
そう考えると、はなはだ絶望的になり、何のために「ひ老会」なんぞということをやっているのか、などと悲観しがちであるが、そこは私はすでに答えがある。
自分のためにやっているのである。
自分もひきこもりであるくせに、他のひきこもりを救済しようなどというおこがましいことは、考えない。
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