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やっぱり今日もひきこもる私(334)家庭から社会への発言権

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by ぼそっと池井多

 

前回「やっぱり今日もひきこもる私(333)」で、親やきょうだいがひきこもり界隈で旺盛に活動するために、かえってひきこもってしまう子/ きょうだいである当事者の存在を取り上げたが、こういうことがなぜ起こってしまうかを考えてみるに、「当事者活動を考える(41)」で触れたような社会への発言権の問題がからむのではないか、と思われてきた。

 

親やきょうだいがひきこもり界隈で有名な活動家となると、それだけでその親やきょうだいは、

「ひきこもりに対して理解のある人」

というお墨付きを、ひきこもり界隈からだけでなく、広く社会一般からもらえることになる。

 

そうなると、子/きょうだいである当事者は今さら、

「いや、この人は私という身近なひきこもりに対して理解はないんだ」

とは言いにくくなる。

 

周囲から、

「あなたは、あんなにひきこもりに理解のある親/きょうだいを持って幸せね」

などと言われると、とくにひきこもりになるような人は周囲の同調圧力に逆らって反対のことを言うのが不得手であるから、よけい

「それはちがう」

と言いにくくなるのである。

 

 

 

 

この問題は、

「教師の子どもがひきこもりになる傾向が大きい」

という現象と通底しているものがあるように思われる。

 

本ブログ「やっぱり今日もひきこもる私(325)」でもご案内した、11月22日にNHKから放送されたドラマ「こもりびと」では、武田鉄矢の演じるひきこもりの父親が元教師という設定であった。

 

あれは、どうやらうちのひきポスの編集長が提言したものらしいが、リアルな設定として好評を得ていた。

 

私の母も、塾経営をしていたから、やはり教師である。

私は「先生の子」という目で世間から見られ続けなければならなかった。

 

何でもできて当たり前であり、何かできないと、

「あの先生のうちに通っている○○さんという生徒はできるのに、先生の息子さんはできないんだって」

と悪評を立てられる。

 

「できて当たり前、できなくて懲罰」

というのは、まさに私が「スパゲッティの惨劇(57)」で述べたような報酬なき世界であり、これが私が大人になってからひきこもりになる下地となったことは明らかである。

 

また、親が教師であると、周囲から、

「よい親を持って幸せね」

などと勝手に決めつけられる。

その空気に逆らって、

「いや、うちの親はあなたの前では教師かもしれませんけど、家庭という密室の中では、こんな虐待ばかりしてます」

とは言いにくい。

 

当時の私には「虐待されている」という意識もなく、苦しさが言葉にならなかったが、たとえ「虐待されている」という表現を獲得したあとでも、母が教える生徒やその親たちに、

「私の母は、あなた方にとっては良い教師かもしれませんけど、私を虐待してます」

とは言いにくいかっただろう、と思う。

 

私が周囲の空気をはね返し、そういうことも言える力をつけたころには、狡猾な母はいち早くそれを察知し、私を家族から追放することによって、私が彼女の生徒たちと接触する可能性も閉ざしたのだった。

 

 

 

 

 「ひきこもり親子 公開対論」や「ひきこもり対話交流会つなかん」などをやっていると、まれに親と子、双方の立場から一緒に参加しているご家庭をお見受けする。

そういうご家庭では、親子のあいだに適切な距離感が確立していて、たとえ子の側にひきこもりという状態は残っていたにしても、それがすでに問題になっていないように感じる。

つまり、そうした場に親子いっしょに来られるご家庭は、ひきこもりであっても「ひきこもり問題」は解決しているのである。

 

しかし、そのようなご家庭は割合からするとごく一部である。

たいていは、親だけが参加していたり、子である当事者だけが参加している。

 

まず、私自身がそうである。

私が開催する会に、親はけっして現われない。

 

こうした場に出てくる親や子は、自分の家庭を代表して、その場に自分たちの家庭の状況を報告できる権利がある。

 

たとえば、そういう場に参加した親御さんが、

「うちは、コレコレこうである」

と発言したとすると、たとえそこに参加していない子どもの立場の者が、

「いや、そんなことはない」

と思っても発言できないから、親御さんのステートメントがその場で共有されていく。

 

 

すると、そういう場に出てきて発言した者の言ったことが既成事実化していきやすい。

 

人は誰でも、できるだけ自分に批判や非難の矢が向かないようなかたちで既成事実化した方がよい。

私の母のように社会的承認に飢え、なおかつ狡猾な人だったら、きっとそこまで先読みして、ひきこもり界隈のイベントや集会にはこぞって参加し、自分がいかにもひきこもりに理解ある活動かであるかをアピールすることだろう。

すると、私は今よりももっと始末の悪い、八方塞がりな当事者になっていた可能性がある。

 

つまり、私のところへ

「親の会で活躍する親を持つ子どもの会をつくってください」

と懇願する子どもの立場の方や、

「きょうだいは私をダシにしてひきこもり界隈で活動してます」

と告発するきょうだいの立場の方と同じように、どこにも出口がないような当事者人生を送る羽目になっていたことが想像されるのである。

 

そう考えてくると、あのような狡猾な母を持った私の場合は、親がひきこもりの家族会につながっていなくて本当によかったと思う。

 

 

 

 

「私はひきこもりに対して理解がある」

というスタンスを取れば、2020年の日本においては社会から承認が得られる。

この承認がほしいあまり、肝心な自分の子/きょうだいのことを考えずに、社会的に過活動になっている親やきょうだいの子が、ひきこもり界隈の死角ともいえる、この問題を生み出していると考えられる。

 

いっぽう、

「ひきこもりの子を持つ親やきょうだいは、とにかく家族会につながってください

ということが、官民一体となって呼びかけられている。

そこでは、自己顕示欲に満ちた親やきょうだいが家族会につながった場合、肝心な当事者はもっと八方塞がりになるだろう、という事態はまったく想定されていない。

 

 

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