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やっぱり今日もひきこもる私(355)「地域の人」はこわい存在である

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私の近所

 

by ぼそっと池井多

 

先日、「ひきこもりは地域に支えられないのか」というテーマで庵-IORI- のテーブルを持たせていただいたときも申し上げたのだが、私は、

「地域の人がこわい」

というのは、何もひきこもりだけに特有の心理現象ではないのではないか、と考えている。

 

どういうことかというと、まず

「ひきこもりは他者がこわい」

という傾向が厳然として在る。

それは、ほとんどひきこもりの属性だといってもよい。

 

サルトル流にいうと、他者そのものよりも「他者のまなざし」がこわいのだが、ようするに他者にジャッジされる、もしくは否定的に評価される可能性が、ひきこもりはこわいのである。

 

どういう人を「他者」として認識するか、という構造について、私は三つの段階を考えてみた。

 

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まずは、自分と同じ家に住んでいる家族のように、「とてもよく知っている人」が自分のまわりに他者として存在する。

シェアハウスに住んでいる人にとってのルームメイト、ハウスメイトもここに入るのではないかと思われる。ようするに、自分の生活ぶりを24時間知ることのできる間柄である。

 

 

次に、「近所の人」「地域の人」のように、「ちょっと知っている人」「日常生活でよく会う人」がその外側に存在する。

私は、ここに当たる人々がひきこもりにとって最もこわい他者なのではないか、と思うのである。

 

私などは、知らず知らずのうちに近所の人にできるだけ会わないように生活している。その結果、近所を散歩するのにも、近所の人が歩いていない夜中などにこっそりと出かけていくことになる。

 

「地域で支えるひきこもり」というコンセプトは、わざわざこの「最もこわい他者」に支えられよ、ということを意味するのである。

 

 

 

 

そして、その外側にいる人たちとは、「地域外の人」であり、「まったく知らない人」もしくは「ひごろ生活を見られることのない人」である。

たとえば、私自身の実感でいえば、近所のおばさんはこわくて仕方がないのに、講演などで遠くの土地へおじゃまして、そこで同じ年齢層、同じ背格好のおばさんにお会いしても、ぜんぜんこわくない。

それは私のなかに、

「近所のおばさんは私を知っているが、遠方のおばさんは私を知らない」

という認識があるからだろう。

 

ところが、この認識は正しくない。認識でなく錯覚なのである。

 

近所のおばさんであっても、ときどき私を見かけるというだけで、私という人間をまったく知らないことが考えられる。

いっぽう、遠方のおばさんは、私がテレビその他のメディアにしゃしゃり出たのをよく見ていて、じつによく私という人間を知っているかもしれない。

それでも、近所 / 遠方、地域 / 地域外という単純な対立軸によって、私は近所のおばさんの方をこわいと感じてしまう。

それは感覚だから、正しいの間違っているのと指摘したところであまり生み出すものはない。それよりも、それを前提としてものごとを考えなければならないのである。

もし、ひきこもりが「地域の人」が一番こわいと感じているならば、それを前提としてひきこもり支援の制度設計をしていかなくてはならないはずである。

 

 

 

 

さて、このような心理傾向はひきこもりだけのものであろうか。

「地域の人がこわい」

というのは、ひきこもりでない「ふつうの人」にはさっぱり理解できない感覚なのだろうか。

 

私はそう思わないのである。

 

たとえば、人は旅行へ行く。

なぜならば、それは旅先という、近所や地域の人に会わない環境に身を置いて解放感を味わうため、というのが目的の一つに入っているからではないのか。

そこには、自分の生活や素性を知らない人々がいて、自分も彼らの生活や素性を知らない。そういう空間に身を投じることで、日常から抱えこんでいる緊張を発散させたいからではないのか。

 

そういう発散が極まって、一種の暴走状態になると、

「旅の恥はかき捨て」

などと呼ばれる状態を演じてしまう。

そういう言葉が存在すること自体、旅先で解放されること、自分の地域の人がいちばんこわいことは、人間的にあるていど普遍の心理現象なのではないか、と思うのである。

 

「人間的に」ということは、すなわち日本人の国民性といった狭い枠組みに押しこめられる問題ではない、という意味だ。

20代、私はそとこもりをしている最中に、日常生活ではしごく勤勉で禁欲的なドイツ人の観光客が、南洋のリゾート地などに来ると、ここぞとばかり反転したかのような、はしたない発散の仕方をしていたのをよく目撃したものである。

そういう状態をドイツ語で何とかというのだ、と教えてもらったが、原語は忘れてしまったものの、日本語にすればまさしく

「旅の恥はかき捨て」

に相当する表現であったことを、私は印象深く憶えている。

べつにドイツ人だからそういうはしたない行動をとる、とかそういう主旨ではなく、開放的な国民性とはおよそ反対にイメージされるドイツ人でさえ、そういうことがあるということを申し上げたいのである。

 

すなわち、旅先で解放感を得ることも、「地域の人」がいちばんこわいことも、人間として普遍的な心理現象であると考えられるということだ。

なのに、なぜわざわざ「人がこわい」と言っているひきこもりを支える舞台を「地域」に持ってくるのだろうか。

それは支援者の都合にすぎず、ひきこもり当事者のことを考えていないと言わなくてはならないのである。

 

 

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