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外国のうつ・ひきこもり事情(157)ひきこもったことを後悔している?

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Photo by Lucian Andrei

by ぼそっと池井多

 

外国人を差別する意図はまったくないけれど、どうも海外のメディアには、良くも悪くも日本のメディアにはない傾向があるということは言わなくてはならない。

一つの傾向として、投げかけてくる質問が、海外のメディアは大きく抽象的であり、日本のメディアは小さく具体的である、ということがある。

 

以前、ロシアからテレビクルーが来たときには、女性レポーターがその碧い瞳でじっと私を見つめ、

「あなたはいま不幸ですか」

などと訊いてきたものだ(*1)。

 

*1. 「外国のうつ・ひきこもり事情(143)」

vosot.hatenablog.com

 

「いえいえ、あなたのようなロシア美人にじっと見つめられて、いま私は幸福です」

などと答えようものなら、「まじめにやれ」と殴られる(*2)かもしれないし、セクハラとして訴えられたかもしれない。

だからといって「はい、私は不幸です」などとヌケヌケ答えるほど、私はお涙ちょうだい型ナルシスティックな人間でもない。

だいぶ答えに窮した。

 

たしかあのときは、

「不幸であるともいえるし、不幸でないともいえる。

不幸とは、どの視点から眺めるかによって変わってくるものでしょう」

というような答え方をした。

けれど、理解された手ごたえはなかった。

 

*2. 「まじめにやれ」と殴られる

規制がやかましくなって昨今はテレビでも見なくなったが、昭和の昔、ドリフターズコント55号が全盛の時代には、ボケ役が何かボケると、ツッコミ役が「まじめにやれ!」と頭を殴るのがお笑いの定型の一つであった。

 

 

 

 

つい先日も、また似た体験をした。

あるフランスのメディアからオンラインで取材を受けたのだが、

「あなたは人生を後悔していますか」

と訊いてきた。

 

その女性記者が言わんとするのは、インタビューの流れからするとこんなことである。

「ひきこもりなんかになってしまって、さぞかしあなたは残念でしょう。

本来だったら、もっとあなたの能力を開花させた、もっと社会的に成功した人生を送れた、と考えているのではないですか」

 

こうした質問の根底には、

「ひきこもりは人生の失敗」

「ひきこもりは社会の敗者」

という前提がまざまざと透けて見える。

 

そういう前提がムカつくから、

「いいえ、後悔なんかしていません」

と答えてやりたいところだが、それもまた反発の勢いで自分の真情から離れてしまうような気がした。

 

そこで、ふと「後悔とは何だろう」と考えたのであった。

 

私の場合、もし齊藤學などというインチキ精神科医に出会わなければ、人が働き盛りと呼び、知力も体力も旺盛である40代を、もっと有効に活用できたかもしれない。

そのように考えれば、そこに後悔がある。

というか、そのように考えることによって、そこに後悔が発生するのである。

 

もっと遡れば、もし私があのような母親を持たなければ、中年期に入って精神医療にかかる必要はなかったのではないか。

 

そもそも、もしあのような母親を持たなければ、

「どんな分野であろうも、社会的にいっぱしの何者かになってしまえば、それは虐待した母親を追認することになる」

というパラドックスが私の人生に埋め込まれることがなかったから、私はひきこもりになることなどなく、そのまま順調にまともに働く人になっていたのではないか。

なぜならば、何も葛藤や苦悩がないのなら、周囲と同じくまともに働く人になってしまった方が社会的にも居心地がよく、生きやすいからだ。

 

そのように考えていくと、

「私にとって、後悔とはあのような母親を持ってしまったことである」

と言いたくなる。

ところが、私はあの母親から生まれてきたのであって、あの母親から生まれなかった私という存在は想定できないのである。

もし父親がほかの女性と結婚して、同じく長男が生まれても、体細胞を構成するDNAが異なる以上、その長男は私ではない。

それは私の「もう一つありえた人生」とは呼べないのである。

 

もしそうであるならば、私が私としてこの世に誕生するということは、すなわち私が母親に人生のパラドックスを体内に埋め込まれ、そのためにひきこもりになるということであって、現在のような50代になることは、生まれたときから決まっていたと言えるのではないか。

哲学でいう、因果的決定論というやつだ。

 

いっぽう、後悔とはもう一つ選べたかもしれない別の選択肢が考えられるときにのみ、存在するものである。

「あのとき、ああしていれば」

というのが後悔のかたちだ。

「ああして」という部分がなければ、後悔も成り立たない。

しかし、生まれたときから現在のようなひきこもり人生になることが決まっていたとすると、「ああして」おけばよかったという別の選択肢が成り立たないから、後悔も存在しないはずである。

 

だから、私は後悔していないはずだ。

 

 

 

 

野球選手だったイチローは引退会見のときに、

「現役時代をふりかえって、何かもっとこうしておけばよかったという後悔がありますか」

と記者に訊かれて、

「後悔など、あろうはずがありません」

と語気強く即答した。

 

「あろうはずがない」

という言葉は、客観の響きがあり、主観によって「ない」と答えるのとはちがう。

 

つまりイチローは、

「自分はあとで後悔するのがいやだったから、現役時代のどの日どの瞬間においても、つねに『これ以上はできない』という全力を尽くしてきた。

未来の自分に後悔することを禁じながら、一試合一試合をプレイしてきた。

後悔は主観の産物だから、いまの自分は後悔を感じないようにしている」

と言っているのに等しいのではないか。

 

つまり、引退時のイチローは、「いまの自分」よりも、未来の自分に後悔するのを禁止した「過去の自分」に忠実であろうとしているのだ。

 

これはイチローのように、特殊な才能に恵まれた人だけにあてはまることなのだろうか。

私は必ずしもそうは思わない。

 

ひきこもりというのは、たくさんの葛藤をかかえ、いろいろと逡巡し、一見すると将来に後悔しか残らないような、日々を浪費した人生を送っている、と一般人たちには考えられているきらいがある。

そう思えば、ひきこもり当事者にとっても、自分の人生はそう見える。

しかし、どんなひきこもり当事者であっても、その日その時で、その人なりに必死な選択をおこなって、毎日を過ごしているのではないだろうか。

かりに、その選択が毎日、

「今日はひきこもりから脱しない」

という同じ結論であったとしても、それはその日その時、「これ以上はできない」という必死の選択をしている結果なのである。

それが、外から見れば一向に変化しない「ひきこもり」と呼ばれる状態であるのにすぎない。

私も、そのように生きてきて、現在に至っている。

 

 

 

 

質問してきたフランスの女性記者には、イチローの言葉を借りて、

「後悔など、あろうはずがありません」

と言ってやろうかと思ったが、すると私がまるで初めからひきこもりになりたくて、人生を歩んできたかのように聞こえてしまう。

表層心理としては、ひきこもりはなりたくてなるものではない。

ここで「自分の意志でひきこもりになった」と考えられてしまうと、不本意である。

だから、

「いいえ、私は後悔していません」

と答えるのはまずい。

 

けっきょく、過去にロシア美人のテレビ・レポーターに答えたときと同じような答え方となってしまった。

「後悔しているともいえるし、後悔していないともいえる。

後悔とは、人生のどの層まで下りて過去を振り返るかによって、有無が変わってくるものだと思います」

女性記者は怪訝な顔をして、Zoom画面の向こう側で黙ってしまった。

またしても理解された手ごたえがない。

 

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