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やっぱり今日もひきこもる私(372)親の名声が子をひきこもらせる?

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Photo by PhotoAC

by ぼそっと池井多

 

今日のひきポス HIKIPOS に、弊ブログのコメンターでもある昼行灯さんの体験談が日英2か国語で発表されている。

じつは、私が昼行灯さんに原稿を依頼し、書いていただいたものである。

 

www.hikipos.info

 

弊ブログは、管理人である私の一存で運営させていただいているが、ひきポスは他のひきこもり当事者・経験者といっしょに運営しているため、掲載には石崎編集長などの同意が必要である。

ひきポスは配信と同時にSNSなどに拡散されるように作ってあるので、アクセス数も多く、宣伝には熱心でない弊ブログのだいたいいつも4倍である。

読者の数がそれだけ多ければ、読者層も広い。

それだけ、ひきポスは弊ブログより公共性のあるメディアである。

 

だから、ひきポスは私にとっても大舞台である。

弊ブログで気の向くままに発信しているようにはいかない。

大舞台に上げてもよいコンテンツを意識する。

あまり良い例えではないかもしれないが、地方の小さなテレビ局と、都会のキー局の違いみたいなところがある。

だから、私がこちらのブログで出した記事でご好評をいただいた記事を、少し改稿して、ひきポスで出すこともある。

ちょうど地方局が作ったドラマを、しばらく経って中央局が放送するようなものである。

 

 

 

 

さて、そういう大舞台に昼行灯さんの記事を送りこんだ理由は、彼の体験談にはひきこもりに関する重要な論点が含まれていると思ったからである。

 

昼行灯さんのお父様は教師で、人権教育に力を入れてきた方であった。

住んでいる地域では人望も高く、尊敬されているらしい。

それでいて家の中では、ひきこもりの子どもに怒鳴り散らす。

その態度だけを見たら、とても人権教育者とは思えないだろう。

つまり、社会に対しては人権を教えても、自分の足元の人権は平気で踏みにじっているのである。

 

私は、こういう昼行灯さんのお父様が特別に悪い人だとは思わない。

そういうタイプは、じつは多いのだと思う。

というか、人が公に見せている顔と、内輪で見せている顔は、たいていちがうものだ。

かくいう私も、講演などで公の舞台に立っている時と、気のおけない仲間うちで酒など飲んでいる時では、言葉も顔もちがう。

ただ、心許せる内輪で何が出てくるかによって、その人の精神構造が推し量られる。

 

昼行灯さんのお父様のような方は、ひきこもりの家庭のうち権力を持っているほうの親の一つの類型ではないか、とさえ思う。

なぜならば、昨年11月22日にNHK総合で放送されたドラマ「こもりびと」にも、そのような父親が出てきたからである。

あそこでは、父親は元教師で、ひきこもっている子は40歳という設定であった。

昼行灯さんも同じである。

昼行灯さんの家庭は、それだけひきこもりを問題として抱える家庭のなかで一般性を持つということだ。

 

 

 

 

私の母もそうであった。

母は人権教育家ではなかったが、塾を経営していて、教育者の端くれであり、地域ではよく知られた女性であった。

私は、その母親の存在ゆえに

「池井多先生のうちの息子さん」

という肩書きで地域の人々に知られていた。

また、その肩書きがあるものだから、私は下手なことができなかったのである。

 

私の母が地域社会に対して演じていた「正しさ」が、子である私が母を批判できない一因になっていたように思う。

その「正しさ」とは、社会的存在権と言い換えてもよいように思う。

地域の人々が母に対して持っているイメージである。

 

とてもその「正しさ」とは相容れないような、家のなかで起こっているえげつない真実の数々を家の外へ訴えられず、私は追い詰められた。

しかし、ここで鬱屈して暴力に出してしまっては、これまた私だけが悪いことになってしまう。

 

当時、「家庭内暴力」という言葉がさかんに用いられた。

それは、こんにちのドメスティック・バイオレンス (Domestic Violence)の日本語訳かと思いきや、そうではなく、家庭の中でどうしようもない子どもが親にふるう暴力のことを謂った。

「子どもが暴力をふるうようになるには、それなりの理由がそれまでの家族の歴史のなかにあったはずだ」

といった発想は、当時はあまり持たれることがなく、

家庭内暴力をふるうような子どもはどうしようもない人間」

と片づけられていた。

「親はまったく正しいのに、子どもは一人で突然変異を起こし、悪い人間になったのである」

というような解釈であった。

だから、たとえ追い詰められても、私は家のなかで暴力というかたちで爆発してはならなかった。

力は肉体ではなく、言葉でなければならなかったのだ。

 

しかし、周囲の人々が信じている母の「地域の名士」という幻想を打ちやぶり、母の実態を人々に知らしめるだけの言葉となると、相当の力を要求される。

当時の私はとうていそれを持つことができなかった。

社会的に「正しさ」を演じきる親を持ってひきこもった子は、もし親について何でも思うことを家の内外で表現できていたら、ひきこもりという行動で主張を代理表現する必要はないかもしれない。

すると、初めからひきこもらないか、あるいはたとえひきこもったとしても、ひきこもりは長引かないとも想像される。

 

私の場合、母に対して、

「私を虐待するなら、お前は私の人生にとって邪魔だから、死ね!」

などという大胆な真情を、もしやすやすと口に出せていたならば、私は強迫神経症という病気で代理表現する必要はなかった。

強迫神経症がなければ、私の前半生はもっと実りの多いものだったろう。

 

 

 

 

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