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音楽に掘り起こされる私(6)チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調「悲愴」op.74

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チャイコフスキーはここで「悲愴」を作曲したと思われる。
モスクワ郊外の晩年の住居。Photo by Wikimedia

 

by ぼそっと池井多

 

私の父は、演歌とチンドン屋が似合う東京の下町の出身で、およそクラシック音楽とは縁のない育ち方をしたが、二曲だけ好きなクラシックがあった。

 

チャイコフスキー「悲愴」とドヴォルザーク「新世界」である。

これはある意味で、父が昭和時代の下層中流階級として典型的な人間だったことを物語る。

というのは、クラシックをあまり聞かない日本人は、クラシックの中ではチャイコフスキードヴォルザークを好むという調査結果があるらしいのである。

 

なるほど、両者とも「わかりやすい」といえば、わかりやすいかもしれない。

音楽を聴くにあたって、何が「わかりやすい」かは難しいところだが、少なくともバッハやショスタコーヴィチより、両者は庶民にとって「取っつきやすい」ということは言えるだろう。

 

チャイコフスキー「悲愴」は、なんでも父が若い頃、東京のど真ん中にある日比谷公園の野外音楽堂でぐうぜん演奏されているのを聞いて、

「世の中にこんな美しい音楽があるのか」

と思ったのが出会いだったという。

 

なるほど、わかるような気がする。

私の父とは、そういう人だったのである。

 

 

なぜ、チャイコフスキーが庶民にとって取っつきやすいクラシックであるかといえば、やはりそのメロディーに理由があると思う。

和声も比較的に単純だし、泣かせるメロディーのラインであり、早すぎず遅すぎず、憶えてしまうと口ずさむのに適している。

 

私にとっては、この「悲愴」のみならずチャイコフスキーの曲というのは、夜の食後に出てくるデザートのような音楽である。

バロックだの、古典主義だの、現代音楽だの、一日のうちにいろいろクラシックを聴いてきて、最後にチャイコフスキーを一口だけ食べるからおいしい。

もし朝っぱらからチャイコフスキーばかり次から次へと聴いたとしたら、もう甘ったるくて甘ったるくて、昼過ぎにはゲンナリしてしまう気がする。

 

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チャイコフスキー
Photo by Wikimedia

 

メロディー・メーカーの手前に踏みとどまる

毎年のようにノーベル賞候補になって落選することで有名になっている作家、村上春樹クラシック音楽に造詣が深いが、彼はどこだったかでマーラーチャイコフスキーを比較して、自分はマーラーを好む、というようなことを書いていた。

さもありなん、と思う。

 

同じ後期ロマン派といっても、チャイコフスキーのほうが20歳年上で、ひと世代もちがうから単純に比較はできないが、その二人を比べたくなるのはよくわかる。

両方とも美しいが、マーラーの方は「骨」がある感じがする。

いうなれば、マーラーは音楽的主張から出た美であり、チャイコフスキーは感性から出た美なのである。

マーラーは少年の感覚で、チャイコフスキーはすでに酸いも甘いも噛み分けた大人の感覚である。

 

そのため、チャイコフスキーは一歩間違えば、ただのメロディー・メーカーに堕する危険があり、その直前で踏みとどまっている。

そういうところが、チャイコフスキー村上春樹の気に入らなかったのだろうと私は推測する。

村上春樹自身は、どちらかというとマーラー的な作家なのである。

 

メロディー・メーカーとは、音楽家のあいだで、人々に受け入れられそうな口当たりのいいメロディーを大量生産するものの、音楽性には思想がないといった類の作曲家を、やや軽蔑ぎみにいう語である。主に流行歌の作曲家などにいう。

ちょうど文学の世界のストーリー・テラーに相当する。話の筋は面白いが、読後の印象が何も残らないような物語作家。こんにちでいえば「ライト・ノベル」とやらであろうか。

 

しかし、私がチャイコフスキーに向けた「一歩間違えば、ただのメロディー・メーカー」というのは賛辞である。

この「悲愴」もそうだが、聴いた後にはしっかりと情感が残る。

だが、その情感には、マーラーベートーヴェンに感じるような「骨」がない。

 

 

フレディ・マーキュリーとの照応

チャイコフスキーのメロディーに「骨」のないのは、チャイコフスキーが同性愛者だったからだという人もいる。

なるほど、そういう考え方もできるだろう。

そう言われれば、そんな気もしてくる。

 

けれども、そういうことは実証できないからむずかしい。

「じゃあ、ショパンはどうなんだ。ドビュッシーは?」

などと言いたくなる。

 

他の同性愛者の音楽家と比べてみよう。

すると、ジャンルはまったく異なるが、恰好の音楽家がいるのである。

イギリスのロックバンド、Queenフレディ・マーキュリーである。

 

華麗なメロディーを次々と生み出したフレディ・マーキュリーは、ぜったいチャイコフスキーから強い影響を受けたと私は確信している。

フレディ自身、そういう告白をどこかでしているのか、してないのか、私はまったく知らない。

けれども私は、フレディとチャイコフスキーの音楽性は、ジャンルの違いを飛び越えて、ぴたりと同じ周波数で光っていると感じるのである。

とくにクィーンの初期におけるフレディの曲などは、まるでチャイコフスキー組曲のような構成をしている。

 

極めつけは、クィーン2枚目のアルバム「Queen II」に収録されている

マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン (The March of the Black Queen)」

という曲だ。

最後のほうはチャイコフスキーのバレエ組曲白鳥の湖」の旋律がそのまま出てくるではないか。


www.youtube.com

 

 

「悲愴」のあとの悲愴な死

チャイコフスキーは53歳のとき、交響曲第6番「悲愴」を1893年2月に作曲し始め、半年ほどかけて完成させた。

チャイコフスキー鬱病の持病があり、生涯で12回の鬱に落ちているが、この交響曲の最終楽章は、まるで鬱の谷に深く落ちていくような終わり方をしている。

交響曲というのは、壮大に盛り上がって終わるのがまだ主流だった当時にあって、このような作風はかなり挑戦的であった。

チャイコフスキーという人は、他の作品でもこうした挑戦をあちこちで仕掛けてきた人であるが、とりわけこのときは、

「この曲は、私のすべての作品のなかで最高の出来栄えだ」

と自分の仕掛けに自信満々であったという。

 

ところが、同年10月28日、チャイコフスキー自身の手で指揮をし、サンクトペテルブルクで初演したときには、観客の反応はさんざんであった。

観客は、チャイコフスキーの新しさについていけなかったのである。

 

その4日後、チャイコフスキーは甥っ子たちとレストランで食事をした。

レストランでは煮沸した飲用水を切らしていて、「生水しかない」とウェイターが言ったが、チャイコフスキーはかまわずに飲んでしまった。

折悪しく、ロシアにはコレラが流行していた。

翌朝、チャイコフスキーは猛烈な下痢に襲われたが、このときは常備薬の胃薬をのんでごまかし、仕事をこなした。

ところが症状は改善せず、やがてコレラと診断され、病状は刻々と悪化して、11月6日には息を引き取ってしまったのである。

「悲愴」の初演から、わずか9日後のことであった。

 

「悲愴」という交響曲が、いかにも自分の死を予言するような沈痛な作品にも聞けることから、

「じつは、あの曲は一種の遺書であり、自殺だったのではないか」

という説がささやかれた。

ソ連のある音楽史家によると、チャイコフスキーの同性愛の相手が、ある貴族の甥であったために、貴族が激怒して時のロシア皇帝アレクサンドル3世に告発し、チャイコフスキーは皇帝から自殺を命じられたため自ら死んだ、というのである。

当時のロシアでは、いちおう同性愛行為は死刑に処せられることになっていた。

チャイコフスキーは有名な作曲家であり、皇帝陛下のお気に入りでもあったので、名誉の自殺をもって死刑に代えたのだという。

 

しかし、チャイコフスキーは翌年にも予定を入れていたようで、そういった意味では自殺というのは考えにくい。

それに、それはまるで三文映画の筋立てのように、スキャンダラスな要素をほうぼうに散りばめた複雑な話で、あまりリアリティがない。

謎めいた終わり方をする交響曲「悲愴」の初演から、わずか9日後の死ということで、その早さがさらに謎めいているせいか、音楽史家の想像力をかきたててしまったのにすぎないのではないか。

この「悲愴」というデザートは、もっと落ち着いて味わいたい。 

 

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