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三島由紀夫を読み返す(32)100分de名著『金閣寺』を観る その1

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by ぼそっと池井多

 

今月、NHK Eテレ100分de 名著」という番組では、かつて私が深く影響を受けた三島由紀夫金閣寺を取り上げている。

なぜ、このタイミングで『金閣寺』を? という疑問が浮かぶが、おそらく昨年11月、三島由紀夫没後50年に合わせて放送する予定であったものが、コロナ禍で延期になったのだろう。

 

案内役の作家、平野啓一郎は、中学校2年生のときに『金閣寺』を読み、

「な、なんだ、これは!」

と驚愕し、三島文学にめざめ、ひいては文学全般に目覚めたというからさすがである。

何がさすがかというと、その早熟性だ。

 

私もプロセスだけは同じように、『金閣寺』を読んで、

「な、なんだ、これは!」

と驚愕し、三島文学にめざめ、ひいては文学全般に目覚めたといってよいが、その時期は遅かった。

 

一度、中学3年生のときに読み始めたが、私の場合、知的年齢が低かったのに加え、強迫神経症を患っていたので、とちゅう主人公の父の死のくだりまで読み進んだものの、挫折して放り出してしまった。

 

難しくてよくわからなかったし、「死」に関する言葉が一つ一つ強迫神経症の症状を誘発するために読み進められなかったのである。

 

ところが、中高一貫教育の私立でずっと一緒だった親友のトリタという男が、

「お前は教養主義といってバカにするかもしれんが、おれは世間で名作と言われとるもんは、なんでも好き嫌いせず、いちおう読んでみるがや。」

といって『金閣寺』を読んでいたのを見て刺激され、高校2年生のときに再挑戦したのである。

そうしたら、今度は強迫神経症などすっ飛ばして作品の中へぐいぐいと引きこまれ、あっという間に読了した。

そして思ったのである。

「な、なんだ、これは!」

平野啓一郎に遅れること、三年であった。

 

 

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観念としての金閣寺 NHK Eテレ「100分de名著」より

 

 

大学へ入ると、ある読書会に入ったが、そこのメンバー、とくに男子学生は三島文学をクソグソにけなしていた。

というのは、当時1980年代前半、浅田彰たちのニュー・アカデミズムが勃興してきて、三島のような「パラノ系」の文学は馬鹿にされまくっていたのだ。

 

浅田彰は、

「三島が今日(1980年代)まで生きていたら、ほとんど問題にされなかったんじゃない?」

などとせせら笑うように言い、

「大人になって兵隊ゴッコやって、何が面白いか」

と言っていた。

もちろん、「楯の会」のことを指しているのである。

 

そんなニュー・アカデミズムに対して知ったかぶりをすることが、当時の男子学生の知的虚栄心を満たす手段であった。

そして、男が虚栄心を満たしたいのは、なによりもそこに女性がいるときに、女性の気を引くためである。

つまり、女の子にモテたいものだから、男どもはみんな、

浅田彰はこう言った」

中沢新一はこう言った」

と言って、三島や谷崎、川端など、旧世代の日本文学をクソグソにけなしていたのであった。

 

私は内心、「許せん」と思っていたが、彼らに抗弁するだけの頭も言葉も持ち合わせていなかったので、残念ながら沈黙するしかなかった。

しかし、それから四十年も経ってみると、

「三島が今日(1980年代)まで生きていたら、ほとんど問題にされなかったんじゃない?」

などとせせら笑うように言っていた浅田彰たちの方が、今日ではほとんど問題にされていないわけである。

 

 

 

 

新しいものにすぐ飛びつく輩が、旧い価値観を馬鹿にするのに、カタカナ言葉を多用するのは、今も昔も変わらない。

それは外来語をカタカナ書きにする日本語という言語の宿命であろう。

その男子学生が三島を馬鹿にするときに用いた語の一つが、

ネクロフィリア

というカタカナ言葉であった。

浅田彰がそう言っている、というのである。

 

のちに私が浅田彰の『逃走論』を読んだときには、そういう一説に出会わなかったから、浅田はどこか他で書いているのか、あるいは本当は書いていないのか、私にはわからない。

 

ともかく「necrophilia」のことだと思われる。

屍姦嗜癖しかんしへき、すなわち死体に性交するのを好む趣味を意味する。

 

それが今回、NHK Eテレ「100分de名著」で平野啓一郎が言っていたことなのである。

もちろん平野啓一郎は「ネクロフィリア」などという表現は使わない。

もし使っていたら、公共の電波から放送できなかったろう。

 

けれども、それに代わる、何か他の端的な単語を提示することもなかった。

もし私がいうとしたら、

「現実より観念を好む」

「観念優先主義」

ということになろうか。

 

 

 

その中身はこのようなことである。……

 

金閣寺』の主人公、溝口は、郷里の村で美少女、有為子ういこにあこがれていた。

しかし、主人公は醜く、どもりであったために、有為子にふられてしまう。

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NHK Eテレ「100分de名著」より

この一件を主人公は、

「有為子という生身の女性に拒まれた」

という形では解釈せず、

「有為子が体現している美によって拒まれた」

と受け取る。

そして、

「自分はいつも美に拒まれる」

と考え、美への復讐を企てるわけである。

 

このように考えることは、この作品の主人公、溝口でなくても、頭でっかちな人ならばよくあることではないか。男性のみならず、女性でも。中性でも、無性でも。

 

当時の金閣は、まったく金色などではなく、うす汚れて古くて、ちっとも美しくない建物であった。

 

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1950(昭和25)年、焼失した現実の金閣寺

しかし、主人公は父から受け継いだ

金閣寺は美の象徴である」

という観念のために、たとえ現実の金閣が美しくなくても、彼にとっての観念の金閣は美しくあらねばならなかった。

この「あらねばならなかった」という表現が、三島文学ではいかに多く出てくることか。

やがて彼は復讐を遂げるために、美であるはずの金閣寺を焼くに至る。

 

同じ構図が三島の生涯を貫いていることを、平野啓一郎は指摘する。

晩年の三島にとっての絶対者は「天皇」であった。

しかし、それはあくまでも観念としての天皇であり、人間宣言をしたあとの生身の人間である「裕仁」という昭和天皇、すなわち現実の天皇ではなかった。

 

このように有為子、金閣寺天皇と三つの対象に対して、三島が「現実より観念を好む」という傾向を示していることを平野啓一郎は語っている。

平野啓一郎は私よりおそらく10歳ぐらいは若いだろうが、これは私たちの世代の読み手としても、すんなり頷ける解釈だと思われる。

まさにそのことを、私が大学のときに出会った、女の子にモテたくて仕方がない知的虚栄男は、浅田彰を引き合いに出して「ネクロフィリア」などという一般人が耳慣ないカタカナ言葉を持ち出すことで私たちを煙に巻きながら語っていたのである。

 

  

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