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三島由紀夫を読み返す(33)100分de名著『金閣寺』を観る その2 

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NHK Eテレ「100分de名著」より

 

by ぼそっと池井多

 

前回その1につづいて、NHK Eテレ100分de 名著」の三島由紀夫金閣寺』第2回を録画で見た。

前回はこちら。

vosot.hatenablog.com

 

番組名が示すとおり、この番組は25分×4回=100分で一つの名著を読解する、というまるでゲームのような設定が課せられている。

これには担当ディレクターなど、毎回そうとう頭を悩ませるのにちがいない。

マルクス資本論』のような大作の場合は、ほとんどそれは無理な相談であり、番組の内容は、

「こういう読み方もありますよ」

という紹介にとどまらざるをえない。

 

そこへいくと三島由紀夫金閣寺』はそんなに長くないので、100分もあれば十分かと思いきや、描かれるエピソード一つ一つに深い解釈が求められるので、やはり100分にまとめるのはむずかしい。

どうしても、どこかを省略し、捨てなければならない。

昔から何度もこの小説を読み返している者としては、番組制作者が作品のどこを採りどこを捨てるかを見て、逆に彼らの見識が透けてみえてくるのである。

 

そんなわけで今回は、番組に捨てられた箇所に注目してみたいと思う。

放送された番組内容をなぞっても面白くないから、番組のなかで取り上げられることなく通過されてしまった部分を詳しく見ていくのである。

そして、そこはほんとうに捨ててしまって良かったかを考える。

 

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NHK Eテレ「100分de名著」より

まずは原作の第三章に描かれる、主人公が13歳のときの回想である。

 

主人公の母の遠縁にあたる倉井という男が、大阪で事業に失敗して、村へ帰ってきた。他に泊まるところがなく、主人公の家に身を寄せることになった。

主人公の家とは、父が住職を務める貧乏寺である。

 

寺には蚊帳の数が少なかったため、四人は父、主人公、母、倉井の順に一つの蚊帳のなかに入って、密集して寝ることになった。

 

夜中に、蚊帳に止まっていた蝉が短い啼き声を立てて飛び移った音で、主人公はふと目をさます。

すると、蚊帳が揺れている。

しかし、それは風が起こすのではない、奇妙な揺れ方をしていた。

 

私はおそるおそる目をその源のほうへ向けた。すると闇のなかにみひらいた自分の目の芯をきりで突き刺されるような気がした。

 

母と倉井が黙々と動きを起こしていたのである。

主人公のすぐ後ろでは、父が寝ているはずであった。

父の寝息は、主人公の首のあたりに当たっていた。

ところが、その呼吸の調子も不自然である。

主人公は、父も目をさましていることに気づく。

父はすべてを知って、呼吸が荒くなっていたのである。

 

すると、背後から父の大きな手が伸びてきて、主人公の両目は覆われた。

後ろから父に無言のまま、目隠しをされたのである。

主人公は、父の手のひらの中でうなずいた。

「目の前で起こっていることは見ない」

という合意が、瞬時に主人公と父のあいだで交わされたのだ。

そのまま主人公は、朝まで眠ることができなかったが、目はかたくなに閉じ続けた。

 

……。

……。

 

原作では、このシーンの始めから終わりまで、登場人物は四人とも一言も発しない。

しかし、1976年に高林洋一監督、篠田三郎主演でこの小説が映画化されたときには、父がこういうセリフを言っていた。

「地獄は、見んほうがええ」

 

まさにこのくだりは、のちに金閣寺を焼くことになる、主人公の世界観の淵源を物語っているのである。

ここで語られているのは、

「認識した領域だけが世界であり、認識していないものは世界に存在しない」

という哲学だ。

だからこそ、のちに主人公は美の象徴、金閣寺を焼くのである。

 

それと同時にこのシーンは、主人公と母親、さらには三島自身と三島の母の関係を考えるためにも重要なヒントを与えてくれている。

番組の案内役である作家の平野啓一郎は、主人公に三島自身の意識の暗室を見ているようだが、おそらくその見方は正しいだろう。

となれば、このシーンで、夫や子の眼前でひそかに姦通を犯す母は、三島自身にとっての母のどのような部分が象徴化されたものであろうか。

 

たとえば『仮面の告白』など、作者である三島の姿にもっと近い主人公が登場する作品では、登場する母は、明るく快活で、関係性に葛藤など生じようもない性格として描かれる。

そこがかえって怪しい。

金閣寺』のように、人物造型を練りに練って、作者が高い加工の度合いをもって投影されたと思われる主人公には、いかにもコンプレックスを生じさせそうな、狡猾な母が描かれるのである。

 

これは、本作品のみならず、三島文学ぜんたいを眺め渡すためにも重要な箇所であった。

なぜ、ディレクターはここを省いてしまったのか。

性がからんだ、刺激的な場面だからか。

だとしたら、なにやら心が寒い。

 

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NHK Eテレ「100分de名著」より

 

  「南泉斬猫なんぜんざんみょう」という、難解な禅の公案にかんする部分は、番組のなかでも取り上げられた。

この部分の読解に、後半3分の1ぐらいは放送第2回目の時間を使っていたのではあるまいか。

 

この「南泉斬猫」をいっしょに聞きにいく友人として、柏木かしわぎという悪魔的な男が登場する。

柏木は、こんにちでいう身体障害をもっている。内翻足ないほんそくといって、両脚はカエルのように内側へ曲がってしまっているのだ。

 

私が大学のときに取った日本文学の授業は、ドイツ人の教授が日本人の学生である私たちに三島などの日本文学を講ずるものであったが、その教授によると、『金閣寺』の登場人物たちは特徴が名前にこめられているということであった。

すなわち、

 

溝口 = みぞぐち = 口に溝がある = どもり

柏木 = かしわぎ

    (三島がつかっていた旧かなづかいでは「かしはぎ」)

   = 下肢剝ぎ = 下半身(足)に不自由がある

 

ということだというのである。

 

「外国人だからこそ、私たちはそういうことに気づくのです」

と教授はいささか自慢げにおっしゃっていた。

はたして、三島はそのつもりで登場人物たちを命名したのか、あるいは三島の無意識のなせる業か、私たちにはわからない。

 

さて、その柏木が主人公にこのように言う部分から先が、番組ではまったく抜け落ちているのである。

「俺にはこのごろ、内翻足の男を好きになる女が、カンでちゃんとわかるようになった。女にはそういう種類があるんだよ。

(……中略……)

内翻足を好く女を一目で見分ける法。それは大体において飛び切りの美人で、鼻の冷たく尖った、しかし口元のいくらかだらしのない……」

 

この言葉は傲岸であるだけではない。

今日でいえば、障害者差別、性差別の観点から、片っ端から批判を浴びるであろうセリフである。

 

そして柏木はその後、そのような美人が通りかかったときに、その前に身を投げるように飛び降りるのであった。

足の不自由な柏木は、しっかり着地できずに、女の目の前に倒れこんだ。

女はおどろくが、自分のせいではないので、当然そのまま通り過ぎようとした。

すると柏木は、

「薄情者! 俺を置いてゆくのか。君のためにこんなざまになったんだぞ!」

と女に怒鳴りつけたのである。

 

女は青ざめ、

「どないしたらええのんえ」

と訊く。

すると柏木は自信に満ちた口調でこう言い放った。

「君の家に薬ぐらいないというのか」

こうして柏木と主人公はまんまと通りすがりの美人の家へ押しかけていき、柏木はその美女をたちまち「ものにする」のだった。

 

いわば自分の障害を武器として、本来ならば手の届かない高嶺の花のような異性を、高圧的な態度によって口説き落としてしまう柏木の行動は、はじめてこの小説を読みとおした高校2年生の私に衝撃を与えた。

しかし、不可解だとは思わなかった。

それよりも、そこにはなにか暗黒の真実が語られている手ごたえがした。

この作品が書かれたのは1956年で、私が高校2年生だったのは1979年だが、作品には手足が不自由なことを「不具」と書いてあり、私たちもまだそういう語を日常的に使っていた。

だから、柏木のこの行動を裏づけている奇妙な優越性を、私は親友トリタとの間で「不具者の優越」と命名し、さかんに議論したものである。

 

今では「不具」も「不具者」も差別用語として使われないだろう。

それでは柏木のこのような行動は、もう目にすることはないだろうか。

 

そんなこともないだろう、と思う。

こんにちの「被害者権力」「弱者暴力」などがそれに近いような気がする。

自分のマイノリティ性を武器として振り回し、それなりに強者であるのに、ちゃっかり被害者にすべりこみ、人々を従わせる。

そういう人はひきこもり界隈にもいる。

 

ひきこもりも、ひきこもりの人権を語っているうちはよいが、あたかもひきこもりであることがえらいかのように威張り始めたら、これは「弱者暴力」になってしまう。

なので私は、ひきこもりの人権を語るときには、いつもその上限を意識するようにしている。

 

また、見方を変えれば、柏木に引っかかった美女は、こんにちでいう共依存気質だったのだと云える。

自分をおそろかにして、相手に尽くしてしまうタイプだったのである。

柏木は障害者として、そういう潜在性を持った人間を敏感に嗅ぎ分ける能力をやしなってきたのだろう。

障害者のみならず、何らかのマイノリティでも、そういう能力を持った人は今でもいる。

 

障害者や少数者に不当な偏見を持つべきではない、という考えは広く共有されている。

しかし、だからといって、障害者や少数者をやたらに聖人のように扱うことが、正しい態度などではありえない。

障害者や少数者も人間であるから、健常者やその他大勢と同じように、いい人もわるい人もいる。

そういうふうに、フィルターをかけないで接することがほんとうのノーマライゼーションだろうと思う。

ところが、ここで

「何が『いい人』なのか」

「何が『わるい人』なのか」

などと突っこまれると、特徴を列挙するはめになって、それがまた第二のマイノリティ性をひねり出し、これらの議論は原点に舞い戻ってしまう。

だから、なかなかその先が論じられる機会がない。

 

ともかく、このくだりはいろいろな問題を孕む箇所である。

番組で省かれてしまったのが残念だ。

100分で名著は語れない。

 

 

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