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外国のうつ・ひきこもり事情(158)フランス女性ひきこもりにとっての「近所」~ 対人恐怖と社交不安

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Photo by Bastien Marie

by ぼそっと池井多

 

「地域で支えるひきこもり」運動みたいなものに危機感を募らせている私は、本ブログでもときどきその話題を取り上げてきたし、ひきポスでも「地域で支えるひきこもり」を考えるシリーズを連載させていただいている。

 

そこで私がよく使うのは、おそらく本ブログの皆さまにはおなじみとなった、この図である。

 

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ようするに、ひきこもりにとって最も怖い他者とは、見知らぬ遠方に住む人よりも、地域の近所に住んでいる人なのである。

なのに、なぜこのようなゾーンの他者でひきこもりを「支える」などということを企てるのか。

そんな疑問を投げかけるために作った図であった。

 

私は、海外ではこのあたりの感覚はどうなのだろうと思い、英語版とフランス語版を配信して、それぞれの言語圏のひきこもり当事者たちに訊いてみた。

 

フランス語圏の方が関心が高かったようである。

なかでも、みずみずしい表現でコメントをくれたのが、フランスの女性ひきこもり当事者フランソワーズ(仮名)であった。

 

フランソワーズ

そう、そう! まさにその通りです。

私の場合、一番怖いのは、近所の人。

それから、市場へ買い物に行くときや郵便局に通う(*1)ときに、いつも会う人。

 

「他人は基本的にみんな怖い」

と思っている私でも、よそへ出かけたときなんかは、まるで他人が見えないかのように、ぜんぜん恐怖の対象にはなりません。

 

自分が住んでいる地域では、

「何かまずいことをしたら、みんなが覚えていて、この世の終わりまで笑われる」

というモードで暮らしているから不安が起きるのだと思う。

 

*1. 郵便局に通う フランスの地方では、私書箱を持っている家が多く、そういう家では郵便物は家まで配達されるのでなく、自分が郵便局へ取りにいくものとなっている。

 

ぼそっと池井多

「何かまずいことをしたら、みんなが覚えていて、この世の終わりまで笑われる」

というのは、うまい表現ですね。まさに、そういう感覚。

 

自分の言動や人生が、すべて他者に記憶され、蓄積していくかのような錯覚が「地域」にはある、というわけですね。

 

 フランソワーズ

そうなのです。

そして、近所の人たちと会うたびに、過去の自分の失敗がデータとして投げ返されてくる感じがします。

たとえ、その人が何も言わなくてもね。

 

私は初対面の人には、とても快活でフレンドリーに接します。

歴史も背景も何もない、まっさらな他人だからです。

 

ところが、同じ人と2回目以降に再会するときは、私はまるでアイス・キューブのように固まってしまいます。

その人のあいだに歴史ができ始めているから、もう少しもミスをしてはいけない、と緊張するんです。

 

そのため、多くの人が、私は初対面の時とその後ではまるで印象がちがう、といいます。

初対面ではみんな、私のことをとても人なつっこくて明るい性格だと思うのですが、2回目以降は私はすごく冷たく距離を置く人で、まるで別人になる、というのです。

きっと、その冷たさは、

「私に関するデータを蓄積しているからには、今にも拒絶されるのではないか」

という私の不安からくるものなのでしょう。

私としては、冷たくしているつもりはなくて、むしろ私に関するポイントを高めてほしくて、緊張している状態なのですが。

 

ひきこもり傾向を持った人の対人的な緊張を、これほど的確に表現した言葉があろうか。

深く共感するのであった。

 

じつは、フランスのひきこもりで「対人恐怖」らしき感覚を、ここまで具体的に話してくれたのは、フランソワーズが初めてである。

これまで私に話を聞かせてくれたフランスのひきこもり当事者は、なかでもアエル(*2)が最も典型的だが、「外に出るのがこわい」「他者がこわい」という感覚を「社会恐怖」という側面から説明する人が多かったのである。

 

 

それも、ごもっともだと思われた。

よく知られるように、近年のフランスでは、イスラム系移民に関連したテロ事件が頻発している。

本ブログでも2015年に取り上げたシャルリーエブド事件では、週刊紙「シャルリーエブド」に掲載されたイスラム教の風刺画に怒りをおぼえた過激派が新聞社を襲い、編集長以下12名が銃撃されて殺された。

以後、ユダヤ系の食糧品店が襲撃されたり、「表現の自由」の概念を教えていた高校教師がイスラム系の生徒に殺害されたり、パリでは同時多発テロ事件が起こって500名近くの死傷者が出たり、まさに日常生活のどこでテロが起きるかわからない状態がつづいていた。

コロナ禍で外出が規制されるようになった昨年以降は、テロも起こっていないようだが、コロナ禍が終われば、また再燃する恐れがある。

 

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2015年11月パリ同時多発テロの実行犯容疑者の住居への警察の突入準備 Photo by Chris93

このような国では、外に出たくないひきこもりの心情としては、近所の人に対する「対人恐怖」よりも、一歩外に出ればいつどこでテロに遭うかわからない「社会恐怖」の方がまさってくるだろう。

 

そして何よりも「対人恐怖」は、日本の文化に根差した、日本にしか起こらない精神症状であるということになっているのである。

そのため、英語でもローマ字書きで「taijin kyofu sho」と書く。

DSM-IV(*3)には、このように書かれている。

 

日本における文化特異的な恐怖症であり、DSM-IVの社交不安とある意味で類似している。この症候群は、自分の身体、その一部またはその機能が、外見、臭い、表情、しぐさなどによって、他の人を不快にさせ、当惑させ攻撃的になるのではないか、という強い恐怖によって起こる。この症候群は、公的な日本の精神疾患の診断システムに取り入れられている。

 

*3. DSM-IVとは、1994年に発表されたDSMの第4版を指す。最新のものは2013年発表のDSM-5だが、何でもかんでも精神疾患にしてしまうということで批判も浴びている。

DSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders / 精神障害の診断と統計マニュアル)とは、アメリカ精神医学会が発表している精神疾患の分類表のようなもの。世界中の精神医療の医師たちはこれと、WHO(世界保健機構)が発表しているICD(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)にもとづいて、患者の病名、すなわち診断名を決めている。

 

「そんなことはないだろう」

というのが私の感覚である。

私はそとこもり時代に、おもにヨーロッパでいろいろな人と会ったが、私から見れば対人恐怖症の人もいた。

ただし、DSMは「社会恐怖」とは別に「社交不安」という症状も設けており、日本国外における「対人恐怖」はこれだ、という見方を採用しているようである。

 

「私が何かまずいことをしたら、近所の人がみんな覚えていて、この世の終わりまで私を笑う」

という感覚をもっているフランソワーズは、おそらく「社交不安」という診断名をつけられるかもしれない。

 

では、「対人恐怖」と「社交不安」はどうちがうのか。

私から見ると、その二つは精神症状として異なるのではなく、ほんらい患者が示す反応としては同じものなのだが、その患者が置かれている社会的な文脈がちがうために、観察者である治療者には「対人恐怖」「社交不安」という違いを以って見えるというだけなのではないか、と思うのである。

  

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