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やっぱり今日もひきこもる私(384)東京のひきこもり、名古屋へ帰る<1>貧困と絆

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私たち家族が住んでいた名古屋のアパート 撮影・1999年

 

by ぼそっと池井多

 

今日からしばらく名古屋へ行く。

じつは名古屋へは、頻繁に出かけている。

一昨年の10月に岐阜へ講演にお招きいただいたときも、帰りに私は名古屋に降り立った。

しかし、駅ビルの立ち呑みで地酒をひっかけただけで、名古屋の街からしっぽを巻いて退散するように、東京へ帰ってきたのである。

そのときの心境は、こんな記事に書かせていただいた。

vosot.hatenablog.com

また、同じ年の3月にも名古屋で講演させていただいている。

このときも、名古屋駅周辺から一歩も出ることなく東京に帰ってきたため、私のふだんの行動パターンを知っている地元の方は、

「あれ? 今日はそのまま帰っちゃうんですか」

と拍子抜けした顔をされていた。

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私は怖気づいていたのかもしれない。

実家のあった土地にしっかりと向かい合うことを。

 

いま私は、

「ご実家はどこですか」

と訊かれると、

「横浜です」

と答える。

 

しかしそれは、両親や弟など「実家」を構成する家族メンバーがそこに住み、私の本籍地も勝手にそこへ移されているから、

「実家は横浜にあります」

という表現になるだけの話であって、私の頭の中ではいまだに実家は名古屋にある。

私が実家を出た40年前は、実家は名古屋にあったからだ。

だから、名古屋へ行くときには、いつも私の体感としては「名古屋へ帰る」なのである。

そして、「名古屋の実家」には今、誰も住んでいない。

 

 

 

 

もともと私たち一族は関東の出で、名古屋には縁もゆかりもなかった。

ところが、私が小学校5年生に上がるときに、小さな異変が起こった。

母は、父の会社の社宅でも塾を営み、おおぜいの生徒をかき集めて繁盛していたのだが、どうやら同じ社宅の妻たちの嫉妬を買い、それぞれの夫を通じて会社の人事部に垂れこまれたらしいのである。

そのため、父は名古屋営業所へ左遷となった。

これで痛手を被ったのは父よりも母である。

父の月収の3倍はあった母の収入が、とたんにゼロになった。

 

こうして私たち池井多家は、平社員の父の月収だけで、まったく知己のいない名古屋に放り出されることとなった。

父の月収だけで一家四人が生活していく、というのは、ほんらい社宅の他の家庭が暮らしている生活水準になった、というだけのことである。

だから、客観的に考えればそんなに嘆くことではないのだが、母は屈辱であったのか、しきりに生活の落差に打ちのめされていた。

こうして、もともと私に対して虐待的であった母は、名古屋へ引っ越すとますます傾向を強め、それを受けて私の強迫神経症もさらにひどくなっていったのである。

 

 

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名古屋へ引っ越した時に住んだアパート(2階隅) 撮影・1999年

 

名古屋の新居は、私たちが引っ越す前から父の会社によって決められていた。

それまで住んでいた千葉県松戸市の社宅の一戸建てよりも、格段にプアな貧乏アパートの一室である。

1973年4月、引っ越してきた当日、私たちは鍵を開けたが、その狭さに両親は無言になった。

別送した家財はまだ着いていなかった。

 

父はすぐに職場へあいさつに行かなければならなかった。

「じゃあ、ちょっと会社へ行ってくるから。

あとで8時にイケシタという駅の改札で待ち合わせよう。

家財がないから、今夜は旅館に泊まろう」

と父は言い残して出ていった。

 

母と私は、狭いアパートのなかを少し掃除して、翌日の家財の運び入れに備えた。

母は無言だった。

私もなぜかみじめな気分になった。

3歳の弟だけが元気であった。

 

すぐに日は落ちて、あたりは知らない町の夜になった。

松戸では女王のように居丈高だった母は、この未知なる大都市では、すっかり借りてきた猫のように臆病になっていた。

こうなると、小学校5年生の私が、母と弟を無事に父との待ち合わせ場所に連れていかなくてはならない。

そのように意識したわけではないが、いつもはけっして私にイニシアティブを取らせない強気な母が不能になっているので、しぜんと私が一行を引率していく格好になった。

 

父は、「イケシタ」という駅へ来いと言っていた。

たぶん「池下」と書くのだろう。

でも、どっちへ行けばいいのかわからない。……

 

当時はスマホのような便利な代物はなかった。

私は電柱の灯の下で、東京で買ってきた名古屋市区分地図を広げた。

池下駅は南方にあった。

歩いていくには遠そうである。

 

「あ、あそこの通りにバスが通ってる!」

私は遠方に、市営らしきバスが走っていくのを発見した。

そして母と弟をバス通りへ引っ張っていった。

 

しばらく行くとバス停を見つけた。

そこに立っていると、いろいろなバスがやってきた。

「栄」「名古屋駅前」など、さまざまな行き先表示を正面に出している。

もしかしたら、それらのバスでも「池下」を通るのかもしれないが、バスの側面に書かれている運行図を見ても、土地勘のない他所者にはルートがわからない。

 

すると「今池」と書いたバスがやってきた。

「きっと、これだ!」

と私たちは思った。

なぜなら「池」がついている。

きっと「今池上」「今池下」といったバス停があるのにちがいない。

 

ドアが開いて、まず母が乗りこもうとした。

ステップに片足をかけながら、母は必死な形相で運転手に訊いた。

「池下へ行きますか」

「行きゃあせんて! 前に『今池』って書いてあるでしょう?」

運転手は、なぜそんなわかりきったことを聞くのか、と苛立った様子で答えた。

私たちは名古屋弁がまだわからなかったが、「行かない」と言っていることだけは理解した。

そして、バスはドアを閉めて行ってしまった。

 

もはや停留所に取り残されているのは、私たち三人だけとなった。

聞き慣れない方言が、冷たく耳に残った。

母はへこんで、ほとんど泣きそうになった。

 

そのときである。

横に立っていた私は、無言ではあったが、「大丈夫だよ」というように、母の手を握ったのである。

意図してやったことではない。

自然にそうなった。

 

 

私が自分から母の手を握ったのは、記憶のかぎりでは、後にも先にもそれ一度きりである。

ほどなく「池下」と正面に掲げたバスがやってきて、私たちは駅で父に再会するのだが、あのバス停で数十分待っている間の心細さが、私たちの名古屋生活の出だしを如実に物語っていた。

 

のちに1999年に家族会議を開いたとき、私がこのときのことを語ると、すでに名古屋でも塾稼業で成功していた母は、

「そんなこと、あったかしら」

と傲然と言い放つのみであった。

いちばん心細かったときに長男に助けられたことなど、憶えてはいなかった。

 

しかし、名古屋へ転居した直後の生活が、貧乏で、不安で、みじめであったことは、母も父も後年、事あるごとに繰り返し嘆いていた。

けれども私は、池井多家がもっとも貧乏だったあの時代こそ、私たち家族の絆がもっとも強まったときだと思うのである。

私は、子どもの立場だからかもしれないが、貧乏はまったく苦しくなかった。

そこには、まるで異国の珍しいスパイスのような、いっしゅ強烈な臭いの幸福感すら漂っていた。

 

なくてよいモノがなくても、何も困らない。

私はどうやら、持っているものだけで幸福を感じようとする生来の志向性があるようだ。

言い換えれば、自分が手に入らないモノをそれほど欲しいと思わないらしい。

そのような性癖が、のちに私がアフリカ大陸を放浪することにもつながるのだろうし、今に至るまでの「健康で文化的な最低限度の生活」にも影響しているのだろう。

 

よく貧乏や貧困というのは、人生や生活を悲劇にした理由として語られる。

けれど、私はあまりそう感じないのである。

小学校5,6年生の日々は、私にとって人生の中でもっとも暗黒な2年間であったが、その理由は貧乏とはちがう所にあった。

 

・・・「東京のひきこもり、名古屋へ帰る<2>」へつづく

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