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やっぱり今日もひきこもる私(388)東京のひきこもり、名古屋へ帰る<4>母が私に課した予定

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Photo by Eric Rothermel

東京のひきこもり、名古屋へ帰る<3>」からのつづき・・・

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by ぼそっと池井多

 

私はスケジュールというものが使えない。

何時から何時は何をする、という予定表のことだ。

 

人間には、同じ一つのことでも、それをやりたい時とやりたくない時がある。

そういう生理的なリズムを否定するのが、スケジュールという他律である。

 

できるだけスケジュールではなく、自分の気分的なリズムに合わせてタスクをこなすために、小学生のころも私は手元のメモに「やることリスト」を箇条書きにしておき、そのなかで時間を決めずに、やれるときにやれることから片づけるようにしていた。

そうすることが、回りまわって最も効率的であると、子どもながらに経験則で私は知っていたのだ。

 

気分的なリズムというのは、けっきょく脳内物質の分泌量の変化である。

それは、ほんとうに思い通りにならない厄介な代物だ。

むかし後白河法皇は、賭け事につかうサイコロの目と鴨川の流れだけは思い通りにならないと言って嘆いたものだが、私だったらそこに脳内物質の分泌量を入れる。

私の持病であるうつ病も、セロトニンドーパミンの分泌量が思いがけないときに低下することから来ていることを思えば、私がそれに翻弄されていることはおわかりいただけると思う。

 

 

ところが母は、私の「やれるときに、やれることから片づける」というやり方が気に喰わないのだった。

私が箇条書きにした「やることリスト」を見つけると、母はたちまち文句をつけてきた。

 

「なに? そんな紙っぴら一枚で、それがスケジュールだって言うつもり?

スケジュールっていうのはね、何時何分から何時何分までは何、何時何分から何時何分までは何、って決めてあるものよ。

時間も書いてないのがスケジュールなわけ、ないじゃない!」

 

じじつ、母のスケジュール帳は、時間ごとに細かくマス目に分けられ、分刻みで仕事の内容が書かれていた。

そこで、しかたなく私も時間で区切ったスケジュール表を作ってみたこともあるが、すぐに挫折した。

すぐにやる気をなくす私は、何事も時間通りに行くわけがないのである。

 

50代の今も、私は小学生のころに書いていたような、時間を記入しない「やることリスト」の紙きれ一枚で生活している。

人生のなかであれこれ仕事のやり方を試したが、けっきょく小学生の自分が実践していた方法が、もっとも自分に合っていたのだ。

これも、母が私という人間を知らなかったことを物語る一つの挿話である。

親は、子どもを人間としてもっと信頼しなければならない。

 

 

 

 

母は、分刻みの予定ばかりでなく、おそらく私が生まれたときから、私の人生ぜんたいの予定を決めていた。

まずは東京で名高い開成中学へ入れ、開成高校から一橋大学へ進ませ、エリート企業に勤めさせるという人生コースである。 

 

なぜ一橋大学だったかについては、他のところで述べているのでここでは繰り返さない。

なぜ開成中学だったかについては、当時の「御三家」といわれた学校のなかで、開成がいちばん厳しく締めつけてくれそうだったからではないだろうか。

麻布や武蔵は自由なイメージがあり、私には適さないと母は考えたらしい。

そして、そのコースを歩んでいくために、私は中学受験のための進学塾として今も名高い四谷大塚進学教室へ小学校3年生から通い始めたのであった。

 

臨床心理学者の河合隼雄がどこかの対談で、

四谷大塚進学教室とか、ああいうエリート塾に通わされている小学生の人生を、誰か追跡調査してくれないかな。ぜったい面白いはず」

などと発言していたのを、私は後年読んだことがある。

たしかに面白いだろう。

小学校3年生から四谷大塚に通わされ、進学校に入り、そこで不登校にならず、大学にも入り、中退もせず、ごていねいに一流企業の就職の内定まで取りつけた人間がここにいる。

その結果は、社会へ出る寸前でひきこもり、無職のデクノボウで、生活保護で国民の税金で養ってもらっているのだ。

 

 

 

 

小学校4年生まで千葉県松戸市に住んでいたころは、毎週日曜日のたびに常磐線・千代田線・中央線と乗り継いで四谷まで、四谷大塚進学教室に通っていた。

四谷大塚進学教室が、上智大学に会場を借りていたのだった。

 

ところが、「東京のひきこもり、名古屋に帰る<1>」に詳しく書いたように、5年生へ上がると同時に名古屋へ引っ越すことになった。

母は、引っ越しによって自分の収入がなくなることを嘆いていたが、それと同じくらいに嘆いていたのが、私の受験計画が転居によって台無しになることであった。

 

いっぽう私はといえば、名古屋へ引っ越すことによって、開成中学を受験することも、四谷大塚進学教室へ通うことも、もうやらなくてよくなるのではないかと密かに期待をし、けっして口には出さなかったけれども、心の中ではほくそ笑んでいた。

 

ところが、母の意志は強靭であった。

名古屋へ引っ越してからも、私は毎週日曜日、ひとり新幹線に乗って、相変わらず東京・四谷まで通わされたのである。

いつも私が乗るのは、名古屋駅09:18発のひかり382号東京行であった。

なぜ、こんな細かい数字を憶えているかというと、毎週、同じアナウンスを聞いていたから耳に残っているのである。

 

 

私を四谷大塚へ通わせるだけでなく、開成中学を受けさせる計画も、母は持ち続けていた。

受かった暁には私を東京にひとり下宿させて、中学に通わせるつもりでいたようである。

どうやら、そのようにして開成中学に通っている地方の中学生は何人もいるらしかった。

 

ところがある時、そんなふうに東京に下宿して開成に通っていた、地方出身の中学生が自殺する、という事件が起こった。

その学生の母親は毎週末に飛行機で上京し、一週間ぶんの食事などを作りおきしていたそうだが、それでも「淋しさに耐えられず」自殺してしまったというのである。

 

それを聞いた母は、たちまち計画を変更した。

依然として私は東京まで日曜日ごとに通わなくてはならなかったが、受験する中学校は東京の開成ではなく、地元名古屋の私立にしようということになった。

そして、開成ほどのレベルは望めなくても、いちばん校風が似ている学校として東海中学が選ばれたのである。

 

のちに私は思う。

もしあのとき母が計画を変更しないでいてくれたら、どんなに良かったことか、と。

もちろん、私の頭で開成中学に受かったかどうか不明だが、私はその自殺した開成生のように、母のそばを離れて暮らしたからといって、淋しさのあまり自殺したとは思えない。 

強迫性障害など、のちの私の人格をかたちづくる輪郭は、すでに小学校までに作られてしまっていたけれど、せめて中学のときから親元を離れれば、もっと自由に、もっと自立的に生きる人間になっていたのではないか。

私という子が、自分のそばを離れて独り暮らしをすれば淋しさのあまり自殺してしまうと母が考えたこともまた、母が私という人間を知らなかったことを物語るもう一つの挿話である。

 

 

いや、母は私のことを心配して開成を受けさせるのをやめた、と言っていたけれど、それは実際、母自身のためだったのではないか。

私のみならず、父も弟も、家族全員を自分の支配下に置いておきたいという母の欲望は、かなり強いものであった。

もし私を東京で中学から独り暮らしなどさせたら、母の傘下から精神的に抜け出ていってしまうかもしれない。それを恐れて、母は私が進む中学校を名古屋にしたのだとも考えられる。

 

ともかく、こうした経緯があって、私は名古屋で中学・高校時代を迎えることになったのである。

 

・・・「東京のひきこもり、名古屋へ帰る<5>」へつづく

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