VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

やっぱり今日もひきこもる私(401)コロナ・ワクチンと社会参加

f:id:Vosot:20210719145647j:plain

私のコロナ・ワクチン接種 第1回目

 

by ぼそっと池井多

 

このところ、私が名古屋へ行った(帰った)ときに、むかし住んでいた界隈を訪ね歩いたことをきっかけに当時の記憶がよみがえり、その回想を本ブログで分析させていただいている。
そのように、頭と心はいまだに名古屋をさまよっていても、身体はすでに東京へ帰ってきているわけである。

そして先日、住んでいる自治体から接種券なるチケットが届き、ついに私もコロナのワクチン第1回目を接種した。ファイザーであった。

 
「どうせ私のような貧乏人は後回しにされて、秋ごろかな」

などと思っていたのだが、予想外に早く順番がまわってきた。

 

「注射そのものは、これまで受けたどんな注射よりも痛くない」

といろいろな方面より聞いていたが、まさにそのとおりで、よほど針の先端が鋭角になっているのか、刺されたかどうかすらわからなかった。

 

注射を打つ所を写真に撮りたいと思ったので、医師と看護師におそるおそる、

「あのう、写真を撮らせていただいてよろしいでしょうか。

けっしてお邪魔にならないようにしますし、お顔などは写さず、接種部位だけ、自分の腕だけ写すようにしますので」

と尋ねた。

 

なぜ「おそるおそる」であったかというと、やはり医療スタッフの皆さんは忙殺されているし、エッセンシャルな仕事をされているわけであり、そんなところで「写真を撮りたい」などと言いだす患者は、迷惑ユーチューバーやモンスター・ペイシャントなのではないかと思ったからだ。

 

しかし、自分たちが特定される部分は写さないとわかると、医師も看護師も二つ返事で快諾してくれた。

それどころか、私が左の肩を差し出すと、

「準備はいいですか。行きますよ。せーのっ!」

と、私がシャッターチャンスを逃さないように掛け声まで発してくれるというサービスぶりであった。

 

しかし私のほうも、できるだけ空間的に彼らの邪魔にならないように、右手でスマホを持ちながら右の親指でシャッターを押すという、スマホを使い慣れない私としては最大限の努力をした。

だから、そういう努力をしない身勝手な撮影希望者が接種会場に増えてしまわないことをひそかに願うばかりである。

 

 

 

 

注射のあとの副反応は、きわめて平均的なものが出た。

接種の当日は、ちょっとダルい感じはするけれど、何も変わったことはなく、翌日に接種部位が痛くなってきて、気分は「怠け者」、好きな日本酒を2合ぐらい飲んだ気分であった。

その状態は翌々日までつづいた。

心なしか「頭が働かない」気がしたが、それはいつものことと言えば、言える。

 

ひきこもり界隈はHSPの人が多いせいか、ちょっと副反応が出ただけで、

「これは大変だ。きっと私が打ったのがモデルナ(あるいはファイザー)だったからにちがいない。失敗した」

とか、

「どうしよう。注射したところが痛くなってきた。おまけに倦怠感もある。このまま死んじゃうのかな」

などと心配する人が多いようである。

 

そして、接種をすると、自分の副反応についてSNSなどで報告するのが、最近の通例となっている。

思うに、そこには一種の小さな社会参加の感覚があるからではないか。

 

ひきこもりは心のどこかで、自分が何もしないで社会のお荷物になっていると、後ろめたさを感じていることが多い。

かくいう私自身もそうだ。

ところが、「コロナ・ワクチン」という今までにない注射の副反応が自分の場合どうであったかを社会に発表することによって、どこか人類史上はじめての巨大な人体実験に参加し、貴重なデータを一つ提供しているような気持ちにならないでもない。

おおげさに言えば、未知の注射を打つというささやかな社会参加をすることにより、その瞬間だけ自分の存在が社会的なものになるかのような錯覚があるのだ。

 

私は「錯覚」と書いた。

そうだ、それは錯覚なのだ。

なぜならば、べつに未知の注射を打たなくても、ひきこもりは、……いや、人は存在するだけで、すでに社会に参加しているはずだからである。

無人島で暮らして誰とも会わないような人も、「無人島で暮らして誰とも会わない」というかたちでこの社会と切り結んでいる。

ハイデガー的にいえば、そのように「世界内存在している」。

「あなた」という一人のひきこもり当事者が歩んでいるかけがえのない人生を、歩んでいるのは人類史上「あなた」が初めてであり、その意味ではひきこもりも生きているだけで一つの貴重な実験データを社会に供給しているはずである。

つまり、「ひきこもっている」という形態の社会参加をしている。

だから、ひきこもりからの「立ち直り」だとか、ひきこもりからの「社会復帰」という表現が私に違和感をもたらすのである。

 

 

 

 

一方では、思想信条としてワクチンを打たない人々もいる。

この人たちは、「打たない」ということで社会と切り結んでいる。

身体のなかに物質を入れることは強要されてはならないから、ワクチンの接種はそれぞれの選択に任されてよいと思う。

 

ところが、それは逆もまた然りである。

他の人々にワクチンを打たせないために、ワクチンが冷蔵されている貯蔵庫の電源プラグを抜いてしまうなどの、反ワクチン・テロを行なっている輩は、ワクチンを打つ者の自由を侵害しているといわなければならない。

 

ヨーロッパでは、ワクチン打つ派と打たない派はもっと激しい抗争を起こしているようだ。

ドイツなどでは、ワクチンを打っていない人はマスクなしで飲食店や公共施設に入れない。

それは、私が考えるにじゅうぶんに合理的な措置だと思うが、それに対してワクチン打たない派の人たちが、

「これでは、服装に黄色い星のマークをつけられて、飲食店や公共施設に入れなかった、ナチス・ドイツ支配下ユダヤ人と同じだ」

などと抗議し、その支持政党が地方議会で第一党になったとのこと。

 

「それは違うだろう」

と思う。

ユダヤ人がそういう存在だったのは自分で選択した結果ではない。

ワクチン打たない人がそういう存在なのは、自分で選択した結果なのである。

それは大きな違いである。

 

もしマスクなしに飲食店に入るなど、ワクチン打つ派と同じ権利を獲得したかったら、ワクチンを打てばよいだけの話ではないか、と首をひねる。

しかし、私自身30代には伝える立場だったからわかるが、国際政治に関する話題というものは、海を渡り陸を横断して日本に伝わってくるあいだに、あちこち捨象されて話が単純になってしまっているものである。

だから、実際はもっと複雑な事情があるのにちがいない。

 

 

 

 

とりわけ私の目を引いたのは、私がいた医療機関、麻布村のデイナイトケアでプレイバック・シアターという演劇療法のようなことをやっていた羽地朝和というセラピストが、SNSで公開投稿として、

「僕は自分の身が大切なので打ちません」

と宣言していることであった。

 

医療従事者がワクチンを打たないことを選び、しかもSNSを使ってそれを大々的に宣言していることの重みを考えざるを得ない。

あるいは、これも麻布村という医療カルト集団ならではの特徴なのだろうか。

 

この羽地というセラピストは、私が精神科医の齊藤學によって麻布村から追放されたということを、羽地の弟子の一人である山岸千紀から聞いたときに、たちまち私を彼が開催しているワークショップへ出入り禁止にした人物である。

もちろん、私がそのワークショップに何か迷惑をかけたというわけではない。

羽地朝和は、おそらく齊藤學を忖度したのだろう。

齊藤學の権威を恐れたのである。

 

 

All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020