VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(6)

三島由紀夫を読み返す(5)」からのつづき・・・

by J.I. ×痴陶人
 

痴陶人さん:
同じ日の報道だったということで、ここ(*1)に書かせて頂きます。
私が興味を持ったのは、札幌母娘殺傷事件です。

かねてより、ストーカー事件が報道される度、気になっていたことがあります。
それは何故ストーカーは、恋した獲物のみならず、その母親も、あるいは獲物を殺さず、獲物の母親だけを殺すのかということです。

私の家人は、元妻や元カノに会わせてくれない元凶として恨みを晴らしているといいますが、私はたとえ歪んだ愛だとしても、ストーカーは、その対象を殺してこそ彼の物語は完結するように思えるのです。

それが今回のように、(歪んだ)愛の対象ではなく、その母親の殺害で完結したことに、私は疑問を覚えるわけです。

今回の犯人はDVだったわけですが、DVは虐待の連鎖の確率が高いと言われていますね。

だとすると、彼の今回の犯行は、義母ではなく彼の支配的だった実母への復讐だったという可能性はないでしょうか。

つまり、ある意味の完結であったと。

このことは、ACや諫死(逆説としての)とも抵触してくるように思えるのですが。

 2016/2/14(日) 午前 0:26 
 
なるほど、そういうことはあるかもしれませんね。

実母に虐待されて怒りがたまっていて、
それを晴らすことのできない場合は、
誰かに投射する。

その投射の対象が「女性一般」になる人もいます。

私の弟などは、
私のように母への怒りを意識化できていないので、
「女は敵だ」といっていました。

しかも「女は敵」宣言のしばらくあと、
彼は結婚しました。
彼の妻になった女性が、
私は気の毒で仕方ありません。
会わせてもらったことは一度もないのですが…。

奥さまの説「元妻や元カノに会わせてくれない元凶として恨みを晴らしている」と痴陶人さんの説「実母への復讐」は、まったく無理なく併存すると思います。


痴陶人さん:
加えて私が気になるのは、ストーカー事件の被害者の女性の父親の存在の希薄さです。

愛娘の被害を知ったら、普通の父親はもっと必死になり、最悪の事態を阻止しにかかると思うのですが、ストーカー事件の父親は、いつも事件後に「あの時、警察が動いてくれていれば」などと娘の死を嘆くばかりで、ストーカーへの対処はいつも、母親が担っています。

ここに、母権に隠れた、ぼそっとさん風にいうなら、「無父性」があると思われるわけです。

加害者側家庭と被害者側家庭の不幸な出会いといった側面を私はかねてから想像していました。

DVや虐待の連鎖は、その被害児童がそれを親からの愛だと思いたい傾向にあるのではないか。もしそれを愛だと信じたら、その児童は長じてその愛を実践します。それが世にいう暴力だとは知らずに。

とりとめのない極論をすいません。酔ってます(笑)。 

 2016/2/14(日) 午後 0:23
いやいや「極論」どころか、
それが真実でしょう。

虐待だと誤認するところから、
次の世代への虐待は始まるのです。
暴力は、虐待(abuse)の一つの現われ方にしかすぎません。
 
おっしゃるとおり、
私の父も、状況が状況ならば、
「愛娘の被害を知っても動かなかった父親」
になったタイプです。
 
弊ブログでは「妻とまずまずやれている私(1)(*2)
カンロさんが語っているような、
過干渉の無関心なというのが、
戦後日本の典型的な核家族の一類型だと思います。
 
 
夫が受け止めてくれないので、
妻のエロスが子どもに向かった果てに
子に対しては過干渉というかたちの虐待になる。
 
とくに子が異性の場合は、性器の挿入なき近親姦になる。
 
父が娘におこなう性器の挿入ありの近親姦と、
物象的には異なりますが、
被害者の心にあたえる後遺症のかたちは、
まさに同じです。
 
ところが、まったくセンセーショナルに聞こえないので、
業績を求める治療者たちは関心の対象にしないのでしょう。
 
痴陶人さんが語っておられる視点というのは、
そのような回路で私の問題意識と通底するのです。
 
痴陶人さんと私の共通の師匠筋の方、紅・・さんより、
三島はなによりも明晰さを求めた人です。民俗学、心理学などは、よくわからないドロドロした気持ちの悪い学問であると退けました。
そんなことを考えると、貴方と三島には少し懸隔があり、なぜ三島ファンなのか訝かってしまいます。

2016/2/13(土) 午前 9:43
と私はリコメントをいただきましたが、
これは宝の山のような言葉です。

私に言わせると、
三島の明晰さはどこか嘘くさいというか、
三島本人もそれが真実であることを必要としていない
ロゴスの上だけの明晰さであるのです。

また、私は三島ファンというよりも、
「三島の呪い」が切実に人生を覆った世代だということです。

それは、三島に「ダブルに」呪われている痴陶人には
たちどころにおわかりいただけると思います。

紅さんは、また彼と同じ世代と思われるzen*oさんに、
典型的な全共闘世代の挫折感がその背後にしみじみと流れているように思われるのです。三島に対するアンビバレンツな思いも、ある意味で全共闘世代の共通するところであるかもしれません。
上のチームぼそっとさんとの違いは、そういう同時代の敗北感と感傷と回顧がないまぜになっているのが、貴方の意見だと受けとめました。

2016/2/13(土) 午前 10:11
とリコメントされていますが、
さすが、これもまた正鵠を射た指摘だと思いました。

私や痴陶人さんが「三島の呪い」について語るとき、それは
「同時代の敗北感と感傷と回顧がないまぜになっている」
というのとは、ちょっと違いますよね。

たしかに三島由紀夫が腹を切った時代のことは、
幼少期の記憶に残っていますが、
けっして「同時代」ではない。

したがって紅さんやzen*oさんたちのような
敗北感や感傷や回顧は私たちにはありません。
そのかわりに何か深い翳をわれわれの人生に落としました。
それを、私たちは「呪い」と表現しているのではないでしょうか。

 
痴陶人さん:
三島語りは、何を言っても正しくなります。このことを私は旧IDで書き、挫折した「痴陶人のブログ」の『堕落論(*3)で再三述べています。

三島は、木を森に隠す達人です。そして森を作る達人です。

三島を理解するに当たり、一番やってはならないと私が思うのは、知のみで読み解こうとすることです。

例えば三島の文化防衛論を思想として読み解こうとすると、カスを掴みます。あれは、三島のその後の「行動」の都合のよい天皇解釈だと私は思っています。

それを思想や文学でやってしまうと、それを論じた方がトンチンカンをやらかしてしまう結果を招く。

三島は、知識人であればあるほど看過できない存在ですが、知識人が捕まえようとすると、幽霊の下駄ばかりを捕まえ、木を逃します。

辛うじて、澁澤龍彦橋本治岸田秀が、三島の尻尾を捕らえているように思えますが、完全ではない。

私は三島を一つの事件だったと捉えています。三島事件を文学や思想で解釈することなく、しがない刑事のように一人の犯罪者として見るようにしています。

清原の覚醒剤使用事件も何故清原が覚醒剤をというベクトルではなく(その方向だと、孤独だったという陳腐な回答しか出て来ないのです)、覚醒剤を使用した一人の犯罪者の動機を探すことをしなければ、清原の栄光も挫折も見えてこないと思えるのです。

つまり清原の闇ではなく、闇の中の清原を私がジャーナリストなら指向します。

三島もしかり、三島の割腹自殺ではなく、割腹自殺した三島がまず、大事なのです。三島も清原も人間なのですから。

評論家の三島語りに欠けているのは、自分の腹を切って死んだ犯罪者の動機を誰も明らかにしていないということです。

初めに三島ありき、初めに清原ありきではなく、逆ベクトルの科学的司法的事務的検証をまずはすべきだと。

2016/2/14(日) 午後 7:21
*3.痴陶人さんの「堕落論」は全178篇に及ぶ
莫大な評論集である。
ひとまず本コラボ対談の発端となった
仮面の告白』における母子関係についての著作
母権支配の二重構造」をご紹介しておく。


「三島語りは何を言っても正しくなる」
「三島は木を森に隠す達人」
とは、まさにそのとおりで、
三島の高踏的な文体は、黒を堂々と白と言ってのけ、
しかもその文章の威容で人を説得してしまうのです。
 
しかしその高踏さ自体が、いっしゅの張り子の虎であって、
平岡公威さんという元お坊ちゃまの自己防衛の産物ではないかと
近年の私には見えるようになってまいりました。

『文化防衛論』ならぬ『三島防衛論』ですね。

私は以前、本ブログで
という駄文を書かせていただきましたが、
あそこで述べたのは、まさしく
痴陶人さんが今おっしゃっている
「自分の腹を切って死んだ犯罪者」
という視点であったと思います。

生前、三島は
「ぼくはね、人を殺してみたくて仕方がないんだ」
ということを澁澤龍彦だったかに言っていたようですが、
同じ人を殺すにしても、
他人を殺すと刑法で罰せられる対象になってしまい、
それでは三島の矜持が許さないので、
自分を殺して見せたのでしょう。

秋葉原事件のような無差別殺傷の正反対、
いわば点対称にあたる位置の犯罪が、
あのように「理由を思想に設定し、人工的に拵えて」、
自分を殺した市ヶ谷事件だとも言えるのではないでしょうか。
 
となれば、痴陶人のおっしゃるとおり、
なぜ彼はそんなことをしなければならなかったか、
あるいは、
そんなことをする位置へ自らを追い込んでいったのか、
ということを
成育歴も何もかもふくめて生身の人間として
考えてみることが価値を持ちます。

私は痴陶人さんほど万巻の書を読んできた人間ではないのですが、
痴陶人さんのご主旨もこういうことでしょうか。
 
 
痴陶人さん:
まず万巻の書を私は読んでませんし(局部的な読書です)、ここ5年は、アルコール依存が強くなり、殆ど読書もできていない状況です。

はい、ぼそっとさんの「吉田松陰三島由紀夫」は、私に近いものを感じました。そしてACという視点は面白いと思いました。今ACという視点で三島を再度組み立て直している最中です。

昭和の純文学作家は、人間の苦悩といったものを描かねばならないようなところがあって、その生い立ちの特殊性みたいなものが、武器になっているようなところがありますね。

漱石と鴎外は別にして、谷崎、芥川、太宰、川端ら文豪と呼ばれる人の幼児期は、皆欠損家庭(乳母に育てられることも含めば)ですね。そして今挙げた内谷崎以外は皆自殺している。

三島も文字通り「自分を殺す」ような自殺をしていますが、家庭は欠損していない。欠損していないけれど、欠損している以上にややこしい家庭ですが。

私は彼らの幼少期の環境を欠損家庭として捉えましたが、それだと例外が出てしまい、収まりが悪い。

欠損家庭ではなく、機能不全家庭と定義し直し、狂気の苗床の幅を広げる必要を感じていた時に、ぼそっとさんが虐待をabuseとして幅を広げようとされていたのを目撃し、共感したわけです。

そしてこの狂気の苗床は、大作家を生むと同時に、精神障害者や犯罪者を生む苗床であるというところが、私の興味の最たるところで、ぼそっとさんの助けを借りて、一緒に機能不全家庭が何故人を狂気に駆り立てるのかを探っていきたいと思うに至ったわけです。

三島を探ることが、精神障害や犯罪を探ることになり、精神障害や犯罪を探ることが三島を塑像する。ACを考えることでそういうことになればと思っているのです。

ここには多分に性の問題が絡んでくるように思われます。まるで変態性欲の博物館のような三島の世界から、フロイト的な検証を加え、何故ACの性が歪むのか、性倒錯は何ゆえ起こるのか、何かの防衛機構ではないのか、もしそうであれば、何故谷崎だけが死ななかったのか、そういうところまで行ければと思います。


2016/2/15(月) 午前 8:25
そもそも「書く」もしくは「言葉を発する」という
苦しい行為を好んでやるようになる人は、
私自身も、痴陶人さん自身もふくめて、
何かに飢えているのだと思います。

そんな書為は、
やはり何ものかが欠損している場所への
補填なのではないでしょうか。

もちろん、そこでいう欠損とは、
上記で痴陶人さんが
「欠損家庭」とおっしゃるときのそれではありません。

三島の、あるいは私の、もしかしたら痴陶人さんの
原家族に何か「欠損」があったとしたら、
それは「欠損家庭」の概念で思い描かれる、
従来の欠損ではないわけです。

「じゃあ、何だ?」

と言われると、これが容易に言葉にできない。

せいぜい「愛」などという、
いかにも三島が哄笑しそうな陳腐な語しか思い当たらないです。

しかし、これを言葉にしていく作業が、
もしかしたら今後の文学者たちの
主流な仕事の一つになっていくかもしれません。
村上春樹などは、その入り口に手をかけていると思いますが。

痴陶人さんは「平成の小林秀雄」かと思うほど、
なんでもかんでも対象の本質を鋭く見抜き、
稲妻が降るような正鵠を射た言葉で照らし出します。

しかし、やはり描写の対象がご自身の人生ということになると、
どうしても筆は、
泥濘を膝行するが如しにならざるをえない。
 
それほど「容易に言葉にできない」ことを
言葉にする話を、
いま私たちはしているのでしょう。

三島が『仮面の告白』にも書き得なかったようなことを。…

三島が変態性欲博物館だというのも、
おっしゃるとおりですね。
谷崎は変態性をぜんぶ肯定の大皿に載せて喰らい、
あれだけ長生きした、というのもすごいと思います。


痴陶人さん:
「二つの抑圧」

これは、私が勝手に立てた近親姦女性の精神機構です。

一つは、あらゆる虐待と同じですが、それを不快に思い、止めて欲しいと思っているが、止めてくれない。止めてくれと言えない支配被支配の関係にあり、他者に打ち明けることも憚られる(それをすると、もっと虐待されるとか、愛と思いたいがゆえとか、被害を受けていること事態を自分の穢れと感じているからとか、あるいは打ち明けたとしても信じて貰えない諦念とか)ことからくる抑圧です。

特に近親相姦の場合、人類の禁忌が絡んでいますので、その抑圧は強いでしょう。

ところが、近親姦にだけは、もう一つ別の抑圧が生じる可能性があります。
それは、そのことを快と感じている場合の抑圧です。

快であるから、止めてと言う必要はないし、それを愛だと信じやすい。

ところが、人類の禁忌であるので、先の抑圧同様、他者に打ち明けられない。そのことで起こる抑圧です。

先の抑圧が、他者に打ち明けてその被害を理解して欲しいと思いながらも、どこかに疚しさや恥を感じる「密告者の抑圧」だとしたら、こっちの抑圧は、本当は「パパは私の恋人(もの)よ」と言って自慢したいのにそれができない欲求不満として起こる自己顕示の抑圧、「日陰者の愛人の抑圧」です。

「娼婦の抑圧」と言ってもいいかもしれません。前回言い控えましたが、江青さんの習い症としての病名は、娼婦性でした。

江青さんは、塞翁先生という存在を得たことで、二つの抑圧から解放されたのかもしれません。

近親姦と娼婦という自分の中の疚しさを家族療法という手段で悪者(加害者=父親)を召喚してくれ、貴女は一生被害者なのだと被害者としての担保してくれ、尚且つその告白を悲劇のヒロインとして祭り上げてくれるのですから、娼婦の顕示欲も充たしてくれる。

ソムリエールという職を持ち、理解のある夫もいて、今の彼女は人世の負を全て正に転換できています。塞翁城に住みたいと思うのも無理はない。

研究対象として江青さんが欲しいなら、城の地下室にでも監禁し、鍵をかけて大切に患者として住まわせてやればよかったんです。

でもこの城主は、木乃伊木乃伊捕りにしたいという野心の持ち主だった。ここが元々木乃伊捕り的気質を持つ娼婦性の野心と利害が一致する。

江青さんは、地下室のモルモットから城主のお妃となる。後は口うるさい門番兼執事を追っ払うだけということです。

悲劇は、ぼそっとさんはじめ既存の患者さんと、今後訪れるであろう近親姦の新しい患者さんです。

基本的に、患者さんは、前者の抑圧を持った人だと思われますから、江青さんが、「ほら、私も治ったんだから貴女も近親相姦を公にし、お父様も連れてらっしゃい」なんてやったら、まるで曖昧宿です(笑)。

でも彼女、遣り手婆あとしての素質はあると思いますよ。もし城主がそれをわかってやらせたのなら、自分で言うだけあって、「人を見る目」は相当なものだと思います。


2016/2/16(火) 午前 9:14
 
近親姦のみならず性虐待において
快感の問題はたいへん厄介です。

若い男性がありうべからざる場面で勃起してしまうことがあるように、快感の反応はパブロフの犬のような身体反応であり、頭の思考と別個に起こることがあるわけです。
それゆえ「主体なき快感」という現象が起こり、それは当人にとっては屈辱なのです。
そこがまた、AVなどではおなじみのように、サディスティックな支配者にとっては支配を感じさせる垂涎の的となるから始末が悪い。

私は、虐待の本質は主体剥奪にあると考えています。身体が反応しようと、行動が隷従しようと、加害者から求められる行動を拒否できないようにさせてしまうことが虐待の本質なのではないか、と。その場合「行動」とは、バットをペンに持ち帰ることも、父の男根をくわえこむことも、みんな含みます。

性虐待の被害者の中には成人して性風俗嬢になる方も多いのですが、それは外傷再演というだけでなく、痴陶人さんのいう「娼婦性」が関係しているのでしょうか。考えてみます。

おっしゃるように、江青さんは塞翁先生の作った治療共同体を舞台装置として「人世の負を全て正に転換でき」ておられます。
同じ場で、私は「人世の正を全て負に転換」させられているわけで、このちがいを生むものを、私は「患者階級」という語で説明しようとしているわけです。

塞翁王が寵愛する江青妃の嫉妬を買ってしまったものだから、私池井多は降格、やがてすべての職位を剥奪されて、城門の外へ追放されてしまったというわけですね。あははは…って、これが医療の場で起こっているのだからけっして笑えません。




・・・「三島由紀夫を読み返す(7)」へつづく
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