VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(7)

三島由紀夫を読み返す(6)」からのつづき・・・

by J.I. × 痴陶人


痴陶人さん:
私がぼそっとさんの営みを新しい文学だというのは、TVがDボタンで視聴者参加番組として機能誌始めているのと同じような部分です。

テレビの可逆性同様、文学にも可逆性があってもいいのではないか。

文学の効用は、医師にかからなくても、自己快復できることです。

一方で文学は本になった時点で、神として完結してしまう。Dボタンを押せないのです。

私のコラボの申し出は、Dボタンです。

文学は、もともと精神医療なのだと思います。貧乏だった日本は、主治医なんて持てないわけですから、文学が主治医だったのです。そして、先にのべましたが、その担い手の文豪は、皆ACなわけです。

ぼそっとさんは、インターネット時代の文学者になるべきです。 


2016/2/19(金) 午後 8:34


いやはや、いかにせん
それは持ち上げ過ぎだと思いますが、
ありがたく伺っておきます。
 
「文学は、もともと精神医療なのだと思います。」
とはまさにおっしゃるとおりで
古代から存在する政治的な権力者である王や、
宗教的なそれであるシャーマンなどとは、
また別の角度から人間社会に出現した、治療者という
新たな支配者が、
精神医療という制度によって地位を保証されるまでは、
人はみな、
文学・絵画・舞踊その他、陳腐なことばでいう「芸術」によって、
自然に治癒や回復の道をたどってきましたね。

痴陶人さんと私は、
言葉というものに関して、
その力も、可能性も、限界も、恐ろしさも知っているからこそ、
こういう考えに到るのかもしれません。
 
痴陶人さんも一度、
私たちの映像収録会にいらっしゃいませんか。
そして、お仕事にさしつかえないように
何らかの手段で顔を隠して、
ご自分のことを語ってみるおつもりなどありませんか。
 
…それがほんとの『仮面の告白』です。  
 
2016/2/19(金) 午後 9:28
 
 
痴陶人さん:
読んでいらっしゃるドストエフスキーの「罪と罰」で、悖徳の徒スヴィドリガイロフがラスコーリニコフに語りかける言葉があります。「私とあなたは同じ畑の苺なんですから」がそれです。

この「同じ畑の苺」を、私はぼそっとさんに感じています。同い年で、興味の対象が似ていますからね。

三島やぼそっとさんに似ているということだけで、私がACであることの証明になると私は思うのですが、違いますか?

もともと私は、映像が専門分野で、それを生業にしていた時期もありますから、ぼそっとさんの映像現場には大変興味もあります。

ただ、同じ苺として、私は語り言葉より、書き言葉での方が真実を語れます。今やっていることが、私は映像出演と同じだと思っているのです。

三島を一緒に読み返すことで、例えば紅孔雀さんに恥ずかしくない、陥穽に陥らない、何らかを残せたら私は、治療者でも、ミイラからミイラ捕りになった人でもない同じ畑の苺のぼそっとさんに仮面の告白をしてみてもいいかとは思っていました。

その時は、塞翁先生経由ではない、治療者ではなく、患者が患者を治療するぼそっとさんの試みの第一号に、私がなっ……
(字数制限により尻切れ)

2016/2/19(金) 午後 10:44 
 
映像がご専門とは存じませんでした。
 
いつか「明日は現場に…」などと
おっしゃっていたこともあったので、
建設関係の方かと思っておりました(笑)。
 
ならば、手に取るようにおわかりだと思います。
私はWindowsの無料ソフト
「Movie Maker」しか持っていないわけですが、
それでもこういう児戯に等しい映像配信を始めたわけは、
できるだけ私たちの声の実在性
一般社会の方々に感じていただきたかったからです。
 
もちろん、映像であっても
いくらでもヤラセや作り物は可能なわけですが、
テキストより映像の方がまだ一般の皆さまに
 
「こういう人、ほんとにいるんだ」
 
と信じていただけると期待しました。
 
私がはじめにザスト(仮称)のプロジェクトで、
こんなような証言映像の配信を始めた7、8年前に比べると、
いまや子どもでもスマホで手軽に映像を撮りアップロードしたり、
グーグルメガネとかで見ている光景をそのままアップする世の中になってきましたから、
わざわざ手間暇かけて映像にする価値も
大きく問い直されているとは思います。
 
ACは自覚用語ですから、
本人がACだという人はみなACであるわけですが、
それに加えて痴陶人さんにAC特有の生きづらさがあろうことは、
「五年前のお父さまとの大喧嘩」が雄弁に語っていると私は思っています。
 
治療者が患者を治す」から、
「患者が患者を治す」というよりも、
患者が自分たちで治る」という方向へむかうときに、
インターネットや映像がどのように使えるかが、
まだまだ今後の課題だと思っております。  
 
 2016/2/19(金) 午後 11:53 
 
 
最近、私たちの治療共同体では
ゆきゆきて、神軍』などで知られる映画監督の原一男さんが
話題になっています。
 
原一男さんが塞翁先生(仮名)を
対談に招いたことがきっかけとか。
 
それ以降、塞翁先生の話のなかに、
原監督への言及が増えてきました。
 
私に言わせていただくと、原一男さんとは
事実の実在性を示すために映像という手段を極め、
そのあげく「向こう側」に突き抜けてしまったために、
ほかならぬ「事実を語る映像」によって非事実が語れることを
証明する結果にいたった方だと言えるのではないでしょうか。
 
いくらインタビューの出演者が自分の体験を映像で証言しても、
暗示をかけたり目くばせをしたりして、
撮影者が自らの望む方向に証言を持っていくということは、
けっして不可能ではないし、
実際そういうことをやっている他団体もあります。
 
そういうことを以って、
 
いくら映像で証言しているといったところで、
 ぜんぶ本当のことだと限らない。
 いくらでも嘘は言える。
 だから、ぼそっとプロジェクトなんて無意味
 
という批判が、私たちの治療共同体の陰で
ささやかれているようなのです。
 
そのような批判は、
 
「リンクバナーを切っても、
 なおもしぶとく残っているぼそっとプロジェクトを
 なんとかつぶしたい

と考えている人たちが作り出した
デマゴーグだと言わなくてはなりません。
 
もしも、私が嘘の証言をインターネットで配信するなら、
どうせなら、もっと曖昧さをふくまない、
わかりやすく多義的でない、
しかももっとどぎつい体験を語ってくれる人を、
私は探し求めることでしょう。
 
しかし、私はわざわざそんなことはしません。
 
あくまでも真実を追い求めたいからです。
 
私たちの、ほんのつまらない日常にひそむ狂気や虐待の中に
ほんとうに考えなくてはならないことが詰まっている
と考えますし、
三島の文体の考察で話が出たように、
真実はおうおうにして明晰ではないものでしょう。
 
けれど、そうした「つまらないこと」を
語り手本人が、聞き手や視聴者におもねらず、
「真実はこうだ」
と信じるところのこととして語り、
発信するのが大切だと考えております。
 
それにも関わらず、受け手が
「あんなことをやっても意味がない。どうせ虚構だ」
などというのなら、
それで結構なのです。
 
なぜならば、私たちの配信は、
聞き手を満足させたり面白がらせたりすることよりも、
語り手・送り手の私たち自身が、
機能しない精神医療に替わるものとして活用し、
「自分たちで治っていくための手段」として
必死にやっていることなのですから。
 
2016/2/22(月) 午後 1:25


痴陶人さん:
 
まず、私がどこかで明日は現場でといったのは、ご推察通り、建設現場です。ギリギリのところで社会生活しているというのは、まあ、土方みたいなことをして、糊口をしのいでいるということで、最下層という意味では私とぼそっとさんの間にさほどの懸隔はありません。

映像の現場からは、遥か昔に逃げ出しています。

次に、同い年だと思っていましたが、私が一つ下だということがわかりました。私は現在、53才の寅です。

ゆきゆきて神軍」、私も以前紅孔雀さんのブログで、この作品を引き合いに出しましたが、ぼそっとさんのインタビューを原一男に準え、否定するというのは、かなり面白い現象だと思われます。

それは、敵が馬鹿ではないことと、ぼそっとさんの映像表現と、このブログ(書き言葉)に恐れ慄いている証拠です。

三島や原やドストエフスキーは、告白の不可能性をいやというほどわかっている人です。

虚と実の際どい狭間に表現をした人です。その原と同一視してくれているというのなら、寧ろ光栄に思うべきで、恐るるに足りません。

塞翁先生は、調べれば直ぐにわかるほどの精神医学界の権威なのでしょうが、私は調べる気もしません。

何故なら、塞翁先生が、俗物たることが、ぼそっとさんの人物描写で手に取るようにわかるからです。

お年も召され、蓄財も積まれているようですから、後欲しいのは死後も残る名誉でしょう。

それをRE鴨リングシステム、ミイラをミイラ捕りにする、フランケンシュタイン博士になることで成就させようとしているなら、それは大きな間違いであり、ぼそっとさんは、今まで通り、このブログを粛々と立ち上げられていればよろしいかと思います。

俗物は必ず、もう一山当てに掛かります。その時、政治家が過去に袖にした愛人を悩ましく思うように、今先生は、ぼそっとさんを燠火にならぬよう躍起になって消そうとしているように思います。

ぼそっとのジャーナリズムは屁みたいなもん。いえいえ、私が塞翁先生なら、この屁くらい怖いものはないです。

確かに屁かもしれませんが、発火の要因にはなるし、ちゃんと日時等の裏がとれているのですから。

「精神医療の虚と闇」ジャーナリズムがそんなものを欲したら、自称の偉業も水の
……(字数制限により尻切れ)

 2016/2/22(月) 午後 7:25
いや、同い年です。
私も寅。
平岡公威さんのご長男と同じです。
記事中の54歳という表記は「数え」で書きました。
ジタバタしても、どうせ数か月でそうなってしまう
という諦観もふくめて…。
 
おっしゃるとおり、三島も原一男ドストエフスキーも、
告白の不可能性については通暁しているでしょうね。
それだけ告白に価値を置いている、ともいえるでしょう。
 
虚と実のはざまをどうすり抜けていくか。
それは多くの表現者にとって
切実な課題であることでしょう。
 
晩年の三島や、それから寺山修司のように、
積極的に「虚」のなかへダイビングしていく人も
少なくないです。
むしろ、そのほうが多いでしょうか。
 
私は、それがたとえ果たせぬ夢であっても、
できるだけ「実」に近づきたい。
リアルなものに触れたい。……
 
それは、この年まで自分のほんとうの叫びが
他者に聞かれていない、
そして自分から発せられていないからかもしれません。
 
2016/2/22(月) 午後 11:43

痴陶人さん:
私は塞翁先生を何者かはまだ知りません。ただ、原一男が興味を持つに足りる人物であることは、今回の記事でよくわかりました。

だとするなら、そのようなカリスマと曲がりなりにも17年間お付き合いのあった、ぼそっとさんと、原さんの結び付きを、塞翁先生は、恐れるべきなのに、逆、つまり結びつけとばかりの発言をされているなら、これは、精神分析的に面白いですね。

先生も強迫なのではないでしょうか。

先生が12・7事件の時点で、強迫まがいに告訴を言われた記事を読んだとき、本当に告訴すれば、ぼそっとさんが公に語る機会ができて寧ろよかったのにと思ったのですが、それよりも、原一男がぼそっとさんとコラボしたときのドキュを思うと、ドキドキします。

原一男は、何か嗅ぎ付けたのではないでしょうか。 

2016/2/23(火) 午前 1:50 
そうであれば嬉しいのですが、
じっさい、まずそれはないのではないか、と思います。

なにやら原一男の作品『全身小説家』に関連して、
塞翁先生が呼ばれていったのが始まりで、
交流が始まっているようです。

ご存じのとおり、あれは作家・井上光晴が、
小説だけでなく、自分の人生までも「書いてしまった」
ということを映像によって
原一男があばいていく作品ですよね。

あの手法をもって、
原一男が塞翁先生や江青さんを描き始めるのなら、
私はこのブログはじめ、たくさん素材を提供するでしょう。

痴陶人さんもおっしゃるように、
もし12.7会談の「告訴する」で、
私に録音をとらせないための脅迫や恫喝としてではなく、
ほんとうに先方が告訴していたら、
私は公の場でこれらの事実を述べるでしょう。

それは先方にとってもまずいはずで、
それゆえに告訴しないことにしたのかもしれません。

いっぽう、もし裁判になったら、
先方は凄腕の弁護士さんがついていますが、
私にはそれがいないばかりか、
裁判につぎこむお金がないというのが問題点です。
 
本ブログでも、ときどき触れてきた(*2)ように、
虚と実のはざまの話は、精神医学の歴史においても
フロイトの昔からじつに大きな問題です。

被害者、もしくは被害者を名乗る者が、
うったえる「被害」の話ははたして虚か実か。

それを学問的に、科学的に、司法的に
取りざたする価値はあるのか。

もし「虚」だとすれば、
なぜそれをうったえる者はそのような話を作るのか。

もし「実」であれば、
そのさきどうすればよいのか。……

さまざまな課題とむすびついて
今日に至るまで解決を見ていません。

および

私自身、虐待の被害者ですから、
被害者の訴えを「虚」として退けられることには
それこそ全身で抵抗したいと思っています。

しかし、いま論点がそこだけではない、というところが
問題をややこしくしています。

私はリカモリ受講生ではありませんが、
上記の歴史的背景はずっと以前に塞翁先生から習ったといっても
過言ではないです。

だから、塞翁先生自身、
治療の場における愁訴がすべて「虚」の話として片づけられてしまう恐ろしさを、よくよくご存じのはずです。

しかし、最近はあえてそういう方向に持っていこうとしている(*3)ようにも見えて、私は首をひねっているという次第です。

*3.たとえば「追放された男たち
の後ろのほうで
元ワイエフエフ(仮称)社長だった大鳥信義(仮名)さんの
著書の抜粋がありますが、その中に出てくる
事実は作れるものだから、いくらあんたが
それを証明したところで関係ない!」
という塞翁先生の言葉など。

江青さんの映像配信のやり方など見ていると
「実」であることにそれほど価値を置いておられないように見える。
「虚」でもなんでもいいから、
いままでタブーとされてきた「近親姦」の被害者が
立ち上がる一大ムーブメントを巻き起こし、
自分がそのリーダーとして社会に打って出て、
のちの世まで名を残すほどの文化人になりおおせようと、
周囲の基本的なことを蹴散らすようになっている、
と私の眼には見えます。
 
こうなると、もはや精神医療ではありません。
政治です。

それを容認している塞翁先生がやっていることも、
いくら法的には医療の枠組みでやっていることであっても、
本質は精神医療でなく、政治ということになります。

政治と直結していました。

プロトタイプな王政ですね。

ここに到って、「薬をつかわない精神医療」という
もっとも現代の最先端を行くはずの医療が、
古代王政に逆戻りしている気がするのです。

それで得をする上級患者は、それでいいかもしれない。
得をしない、私のような下級患者はたまったものではありません。

私は奴隷になるためではなく、
治療するために精神医療につながったのでした。

ところが、こうして精神医療は
私を「おでんのダシ」(*4)にするだけで
いっこうに治療してくれないので、
その構造の実態をあばきつつ、
「患者が自分たちで治る」
という方法を、
インターネットや映像をつかって模索しているというわけです。



2016/2/23(火) 午後 3:56


なるほど、色々なことがしっくり来ました。だとすると、原さんは、チームぼそっとの映像に興味を持たれた可能性はありませんか。

ぼそっとさんは、塞翁先生と原さんの対談の内容をお聞きになりましたか?

さて、話をそろそろ、三島に戻しませんか。

私が重要に思うのは、ここです。

>私たちの、ほんのつまらない日常にひそむ狂気や虐待の中にほんとうに考えなくてはならないことが詰まっていると考えますし…

>そうした「つまらないこと」を語り手本人が、聞き手や視聴者におもねらず、「真実はこうだ」と信じるところのこととして語り、発信するのが大切だと考えております。

つまらないこと、なんでもないことに真実を見いだそうとする、ぼそっとさんのアプローチを私は正しいと思っています。

例えば、ぼそっとさんが、お母様とのことを考えるきっかけとなったと思しき、「南部迂回事件」、私は、その何も起こらなかった事象に敢えて名前をつけようという試みに、文学を感じました。

何も起こらないことに、例えば、林檎が落ちることに万有引力を見ることが、科学であるのと同じことが、文学にもいえるのではないかと思います。

三島由紀夫の「仮面の告白」やドストエフスキーの「地下室の手記」は、どこか凶々しく悪魔的で不気味な印象を与えますが、よく読むと実は何も起こっていないのです。

「仮面ー」は、恋した女性とキスをし、婚約するもそれが破談する話。「地下室ー」は、女と出会い結ばれて再会するが、女を追い返す話で、どちらも愛の退行の物語で、行動レベルでは、実は何も起こっていない。

太々しいばかりの自虐的言葉を用いながら、二作(私は三島が地下室を仮面に本歌取りしたと睨んでいます)は、何故愛の退行が起こるかを自省するのですが、これはいわばACの苦悩と告白といえるかもしれません。

ぼそっとさんが仰言るように、この内面の告白は、さらっと言葉で言い表せることではない。何故なら、それはあまりにも個人的なことで、それ故まだ名前のついていない事柄で、それを他人に理解してもらうのは至難の技です。告白の不可能は、ここにあります。

「南部迂回事件」もそうですが、最近なら「スリッパの名前」も、ぼそっとさんは、何も起こらないことに名前をつけるのが上手いですね。

三島やドストエフスキーもそれと同じような作業を二作で企てています。

二作には、何故出てきたかわからない突飛な言葉や観念が登場します。三島なら「悲劇的なもの」「制服の金釦」
ドストエフスキーなら「英雄」「鼠」という言葉や概念がそれです。

ドストエフスキーが対位法(ポリフォニー)を用いたことは有名ですが、突飛な言葉(例えば、先に話題になった罪に先立つ悔恨です)を探ってゆくことで、彼らの精神の内部構造が初めて見えてきます。(「仮面ー」は、三島の試みたポリフォニーだったと私は思います。)

例えば、「スリッパの名前」(「薔薇の蕾」あるいは「薔薇の名前」を私は連想しました)は、ぼそっとさんのポリフォニーなのです。

ぼそっとさんは、江青と書かれたものをマジックで消したトイレのスリッパに、定価を消して値引値を書く、商売人の商魂のようなものを見ます。

倹約家、さりげない気遣いといったものが、逆にあざとさとして露呈していると感じるわけです。


それは、ぼそっとさんのお母様の姿を江青さんにトレース(投影)しているわけですが、これこそがポリフォニーです。

そして恐らく、ぼそっとさんの指摘は当たっていると私には思えるのです。

ただ、ここに危なさもある。私はそんなつもりであのスリッパを置いたのではありませんと、虚と主張されればそれまでです。

ここに彼らの言うフィクションを実に変えるトリックの主張がありますね。

私はこう見ます。それは、お母様との旋律を持っているから、トイレのスリッパに欺瞞を見抜けたと。

「仮面ー」で三島が述べる演繹法帰納法の件は、そのことを言っているのだと思います。

そして「スリッパの名前」の積み重ねが、「仮面」であり「地下室」なのだと私は思います。


2016/2/24(水) 午前 7:42
私は塞翁先生と原一男さんの対談の中身を聞いておりません。
原一男さんが、私たちの映像に興味を持たれたなら嬉しいけれど、残念ながらその可能性はないと思います。

全身小説家』で描かれていることは、
「人はしょせん自分の人生をいかようにも語れるもの」
ということでもあるでしょう。

「いかなる物語も、起こった事象の解釈である」

という観点に立てば、
その通りということになるでしょう。

自分語りだけでなく、時代劇など見ていても、
たとえば忠臣蔵本能寺の変
いままでに多くの解釈によって異なる物語が作られています。

しかし、その原理法則を虐待被害者の自分語りにあてはめて、
いったい何が得られるのか。

「社会的には、こう見えていたかもしれないが、
 自分的には、こうだったんだ」

ということを語っていけないわけがない。
むしろ、そう語ることで明らかになってくる
新たな地平が拓けるはずです。

その人が、たとえ世間受けのしないような
「被害的」「ネガティブ」な解釈ではあっても、
そういう解釈に落ち着いて、
自分の人生をそういう物語として語るということには、
何か必ず心的動機があるはずなのです。

痴陶人さんが指摘されるように、
世間のなかの他の人が誰一人「事件」と呼ばないような
日常の些事を
私がことさら「事件」と命名するのは、
(だから私は誇大妄想狂などともいわれるのですが)
そういう主観を重視するから、ということになるのでしょう。

こうした主観の侵出がなければ
(たとえば私が「南部迂回事件」と命名しなければ)
日常はただ金太郎飴のように
どこを切ってもとらえどころがなく、いつまでも
被害を被害と、虐待を虐待と
訴えられないのです。

三島『仮面の告白』も、ドストエフスキー『地下室…』も、
はたまた古今東西の多くの文学者たちも、
世間の客観のなかに埋没している主観の復権
志したということでしょうか。
 
2016/2/24(水) 午後 1:46

・・・「三島由紀夫を読み返す(8)」へつづく
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