VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(8)

三島由紀夫を読み返す(7)」からのつづき・・・

by J.I. × 痴陶人


痴陶人さん:
私は、三島やドストエフスキーを読むのと同じ位層で、ぼそっとさんのブログを読んでいます。

そして、三島やドストエフスキーに突然現れる突飛な言葉をきっかけにして、彼らの精神世界を解きほぐしていこうとするのと同じように、決して突飛ではありませんが、ぼそっとさん独特の言葉を幾つか見つけています。

その中でも私が一番重要だと思うのは、「存在承認欲求」という言葉です。

一見この言葉は、レゾンデートルと同じように感じるのですが、実は、真逆の言葉です。試しに電子辞書で、レゾンデートルを引いてみましょう。

レゾンデートル:自身が信じる生きる理由、存在価値を意味するフランス語の「raison d'etre」をカタカナ表記した語。他者の価値と比較して認められる存在価値ではなく、あくまで自己完結した価値を意味する。

いわば、この言葉は、自己の存在表明、つまり自分発信の自己主張です。そして「自身が信じる」という部分が重要です。

自身が信じるということは、何故可能になるのか。自身が信じることができない人間にとって、レゾンデートル、つまり自己の存在証明は本来不可能なのす。

ぼそっとさんの「存在承認欲求」は、受け身であり、誰かからのということです。承認が得られないから、その存在を証明しようとしているのが、ぼそっとさんの言葉であるような気がします。

そしてそれは自己主張しようがしまいが、誰かから、無条件に与えられる「お前は生きていていいんだ」という無条件の承認に思われます。

これを与えてくれるのは、恐らく神と親だけのように思われます。

先日テレビの動物バラエティで、補助犬のパピー犬制度(里親制度)の紹介番組を見ました。

犬が盲導犬や救助犬になるためには、飼い主の両親と子供が健全に暮らす暖かい家庭での愛のある暮らしが、必然なようです。

そういう家庭で育たない限り、盲人の誘導や、被災地で勇猛果敢に被災者を救助する冷静な判断や行動ができる補助犬には、なれないのだといいます。

そうでない、つまり愛のない環境で育った犬は、緊急時にパニックに陥り、使い物にならないのだと。

動物レベルでこれほど明確に、幼少期の愛ある環境の重要性を解明しているにも関わらず、人間は、いまだに日々虐待を繰り返しています。

そして、使い物にならない人間がACとは、いえないでしょうか。

不全家族の親は、子供に「生きていてもいい」という存在承認を与えない。

与えられないから、子供は、存在承認欲求に飢える。


人は存在承認さえ得れていれば、存在証明などする必要がない。生きていていいと、自然に思うわけですから。

三島やドストエフスキーに限らず、作家がレゾンデートルするのは、存在承認に欠如や飢えがあるからだと思います。

存在承認は、三島を解く鍵のようにも思われます。


2016/2/25(木) 午後 6:45
存在承認欲求について、痴陶人さんがおっしゃっていることは
まったくそのとおりで、
ちょうど植物が、日光と水と酸素がなければ育たないように、
人が人として育っていく過程で「存在承認」というのは
与えられなくてはならない要素の一つだと思います。

赤ちゃんがハイハイしたら、
「お、ハイハイした。えらいねえ」
立ちあがったら、
「お、立った、立った、えらいねえ」
……といった具合に、
まあ、子どものいない大人から見れば、いったい何がえらいんだか、
というようなことを逐一ほめあげて

「あなたはそこにいていいんだよ。生きていっていいんだよ」

と「存在承認」を注いでいかないと、
ほんらい人はまともに育たない。

ここで「存在承認」は、
陳腐な言葉になるけれど、
ほんとうの意味での「愛」と言い換えてもいいかもしれないですね。

それらを与えないで、
まともに育たない結果がACになるのでしょう。

存在承認を与えないにしても、いろいろな形があり、
親がまったく省みずにほうっていくパターンが
ネグレクトなどと呼ばれるわけで。

反対に、けっしてほうっておくわけではないのだけど、
赤ちゃんがハイハイしたら、

「ハイハイしたか、そら、つぎは立っちしろ。
 ほら、いつまでボケボケしてやがるんだ、早く立て!」

立ち上がったら、

「いまごろ立ち上がったか。
 お前、頭の発育が遅いんじゃないのか。このボケ!
 こんどは早く歩け! 歩いたら走れ!」

というように、
次から次へ課題を吊り上げていったり、
時には、

「歩きながら走れ! 逆立ちして歩け!」

などとハチャメチャに矛盾した命令を発するのが過干渉。

私の親は、この後者の過干渉型でした。

三島の成育環境も、この後者だったのではないでしょうか。

その結果、私は幼いころから「魂の息切れ」を起こしていて、
いよいよ社会で活躍する齢になるとつぶれてしまいました。

三島は、表面的にはバリバリと社会で活躍したわけですが、
まだまだ脂の乗った時期に
「魂の息切れ」がどうにもならなくなってきたのではないでしょうか。

しかし、文化防衛論ならぬ全身防衛論の彼であるので、
それが息切れであるなどとは微塵も見せず、
持ち前の知性で、逆に行動の極みであるかのように仕立てあげて、
社会の生存レースから降りていきましたね。

本ブログでも前に掲げたことがあります(*1)が、
吉本隆明は、三島と太宰は、
生まれながらにして「生きるな」「生きるな」と言われていた、
という見方をしています。
つまり、あるがままの存在を承認されていなかった
ということですね。


太宰は、同類であるがゆえに、三島は嫌いました。
三島は、太宰のように弱みを見せることを忌み、
とことんそうしないように防衛の甲冑で人生も言葉も固めました。

原一男井上光晴を「全身小説家」というならば、
三島由紀夫は「全身自衛隊」であったかもしれません。

2016/2/26(金) 午前 11:31
 

痴陶人さん:
ぼそっとさんの「存在承認欲求」は、マズロー辺りからきた言葉だと思いますが、ぼそっとさん独特の文脈が加味され、ぼそっとさんの造語といってもいいように思います。

マズローの心理学は、大衆にも非常に分かりやすく、承認欲求は、最早心理学の専門用語ではなく、我々市井の人間も日常で用いるようなものになっています。

例えば承認欲求は、他者承認と自己承認に別れるとか、承認欲求は、上位承認、対等承認、下位承認に分別されて用いられることがあります。(マズローの分類なんでしょうか?)

前回、存在承認欲求は、レゾンデートルと真逆の意味であるといいましたが、これは他者承認欲求と自己承認欲求という意味での真逆です。

ぼそっとさんが、強迫や不安神経症は治ったが、鬱病は治らないというのは、自力で自己存在を意識化し、自己承認欲求は満たせたが、他者承認欲求が満たせていないことにあるのかと思われます。

つまり、自己承認と自己実現は違うということでしょうか。

例えば、音楽でも文学でも美術でもいいのですが、私は芸術家(アーティスト)だというのが、自己承認。しかしこの自己承認だけでは、自己実現は果たせない。他者承認を得て、つまりお前は芸術家だと承認されて初めて私は芸術家であることになる。

そして他者承認を得るために、人は存在証明をする。それが作家やぼそっとさんのように書くことである人もいれば、秋葉原男のように犯罪である場合もある。

先の芸術家の喩えでいうと、これは売れる売れないとはまた別の次元です。CDデビューをしなくともストリートで弾き語り、それを毎回聞きに来てくれるファン(他者承認)がいて、自分はアーティストなんだと自己実現できている人もいるはずです。

細やかな他者承認でもそれが自己承認の身の丈と合っていれば、人間は不安を覚えないし、鬱にもかからないのではないでしょうか。

ぼそっとさんが主張する「私は母親に虐待された」という自己承認は、細やかな自己承認であり、ぼそっとさんは、そんなに大きな他者承認を望んでいるわけではありません。「私はあなたを虐待しました」という母親からの他者承認と、できれば謝罪を求めているだけです。

ところがそれが果たされなかった。ならば、自己の存在証明をするために、今度は塞翁先生に「これって虐待ですよね」と、専門家に他者承認を求めた。これも細やかな他者承認を求めているにすぎません。「そうだ、男が女に虐待されるというレアなケースだが、これも立派な虐待だ」その程度の承認で事足りたかもしれません。

ところが、17年も治療にかかりながら、「ぼそっとの抱えているような悩みは、誰にでもあるようなことがらで、お前の病は既に治っている」と、世間並のアドバイスのようなもので放逐されてしまう。

ぼそっとさんは、母親に承認されなかった虐待の科学的根拠が欲しかったのに、結局それも果たせない。

ならば自力で自己を存在証明するしかない。このブログの意義は、こんなところでしょうか。

上位承認欲求というのが、自分は誰よりも優れている。他人や世間は、もっと俺を認めるべきだという、誇大妄想やちゃんと評価されないという被害妄想に陥り勝ちで、ぼそっとさんは、患者仲間から、上位承認欲求の持ち主と見られているようですが、これは違う。


2016/2/26(金) 午後 0:36
上記におっしゃっている中で、
中段から後段にかけての存在承認と治療との関係は、
痴陶人さんのおっしゃるとおりだと思います。

治療者・患者という関係の中で、
患者の存在は愁訴に集約されてしまうところがあります。

私の立場からは、ほんとうは
患者の存在は症状に集約されて…」
と言いたいところですが、
患者の愁訴を、治療者が症状として認定しないと、
症状にならないので、
ここでは愁訴と言っておきましょう。

病院に患者がやってきて、

「先生、ここ、痛いんです」

と患部を指したところが、

「ああ、そんなのは痛くない。そんなの病気じゃない」

といわれたら、
患者は「存在」を否定されたのに等しい。

もちろん、病院を一歩外に出れば、
患者はいくらでも存在するわけですが、
病院の中、治療関係においては
「存在」を否定されたのに等しいわけです。

すなわち、存在承認は却下されたことになります。

私がいう存在承認は、
おそらくウィニコット
さらにその師匠であるメラニー=クラインあたりから
始まっている概念ではないでしょうか。

メラニー=クラインの師匠がフロイトですが、
はたしてフロイトがそこまで考えていたかどうか、
私は知りません。

たとえば、赤ちゃんがお母さんのおっぱいを吸っている。
吸っているあいだは、口がふさがっていることもあるので、
泣かない。

それから、おっぱいを吸っていなくても、
お母さんが「いないいないばあ」をしたり、
何かをまなざしを振り向けてくれていると赤ちゃんは
泣かない。

赤ちゃんが泣くのは、
口のなかにおっぱいがなく、
なおかつ、彼が求めるまなざしが注がれていない時です。

この泣き声が、
「存在承認欲求」の原初なるかたちでしょう。

そもそも胎道をとおってこの世に生まれてきたときに、
健康な赤ちゃんであればまず第一声、

「オギャア」

と泣くわけで、
これがいちばん初めの存在承認欲求の具体的な形なのだと思います。

「さあ、ここにぼく(わたし)は存在するぞ。
おっぱいをくれ。産湯につからせてくれ。ケアしてくれ」

という声です。

これは、

「そういうサービスをトータルでおこなうことにより
ぼく(わたし)がここに存在することを認めてくれ」

という訴えでしょう。


成長して大人になると、人はとかく
赤ちゃんだったころの特性をぜんぶ捨てて
大人になると勘違いしますが、
じっさいそれらを表に出さなくなるだけで、
内には秘めて持ったままですよね。

「さあ、おれさまのお帰りだ。
メシだ。フロだ。背広をかけてくれ」

と矢継ぎ早に妻に命じたような、昭和風の亭主関白は、
ある意味では胎道から出てきたばかりの赤ちゃんと同じ
存在承認欲求を帰宅時にしていることを
おそらくご本人たちはまったく意図せず、
しかし非常にわかりやすく示してくれていました。

「そういうサービスをトータルでおこなうことにより
おれさまというご亭主がこの家に存在することを認めてくれ」

という訴えだったのでしょう。

自己承認は、ランボーがいうような
「自己という他人」
が出現しないとできないことでしょうから、
それに先立ってまず「他者」が誕生することでしょうね。

すでに他者を認識し、自己承認ができるようになっても、
赤ちゃんのときにはやすやすと行使できていた
存在承認欲求という内から突き上げてくる圧力は、
けっして消え去るものではないと思います。

なぜか最近ふたたび流行しているアドラーなどは
「存在承認欲求してはいけない」
などと言っていますが、
「よく言うよ」
と申しますか、
フロイトから袂を分かつのに際して彼は
人間の成り立ちの基礎を忘れて
ただの啓発セミナー講師になってしまったな、と私は思います。
実践的ではありますが。

2016/2/26(金) 午後 5:31
 

痴陶人さん:
人並みの患者として認められたい対等承認欲求か、「虐待の被害者」として承認さたいわけですから、むしろ下位承認欲求なわけです。

ぼそっとさんが、上位承認を求めていると思われるのは、文章や映像表現に長け、その知の部分で怖れられ、嫉妬されているからではないかと私は思っています。


 2016/2/26(金) 午後 5:31
なるほど。

私は当事者で、その渦中にいるので、
なんとも客観的に判断しにくいのですが、
私たち治療共同体の内部にも、
表現方法こそ異なれど、
痴陶人さんとまったく同じ解釈を唱えている方がいらっしゃるので、
おそらく当たっているのかもしれません。

このブログによくいらしてくれるM****さん(本人は内緒コメを好まれるので、伏せた方がいいかな)もそうなのですが、
痴陶人さんは会ってもいないのに、
書かれた言葉を読むだけで、
如実に何が起こっているかをご自分の頭のなかに3Dで再現して
現象の本質を理解してしまえる方ですよね。
いやあ、すばらしい。

その道の方からみたら、
私が出している映像なんぞ
ほんと、幼稚園のおママゴトでしかないし、
精神医学の知識については、
例のリカモリ講座(仮称)ではおそらく
もっと高度な知識が教えられているようです。

まあ、あまり高度なことを教えられても、
石頭の私は消化不良を起こすだろうから、
そういうところは行かないほうが
健康のためだと思いますが。

ただ、
江青さんが石頭バカ扱いするほど
私はバカじゃないんじゃないの。
江青さん、あなたが私をバカ扱いするのは
後ろに塞翁先生がいるからに他ならないでしょ。

トラの威を借るキツネならぬ
タヌキ(*2)の威を借るキツネでしょ。

*2.塞翁先生はタヌキということで定評がある

中国文化大革命においても
毛沢東がいなくなったら
江青女史は自力で対抗できませんでしたよね」
ってなことを言いたいわけです。
 
2016/2/26(金) 午後 5:57
 
 
痴陶人さん:
いや、違います。書かれた文章だけで、私が何事かを理解してしまうのではなく、私を理解に導く文章をぼそっとさんが書かれているというだけのことです。

止めてくれと言われるでしょうが、そこが三島やドストエフスキーと、私にとっては、同じ興味対象なのです。

古い言葉ですが、ぼそっとさんの言葉は意識の流れに一貫性があり、そこが真実の在り処だと思わせてくれるのです。

最近ぼそっとさんがやられた、ゲスの定義、あれは正しい。

あっちとこっちでいってることが違う、つまり一貫性のない言葉ではなく、作家や作品に一貫性がないと、私のようなものはついていけないのです。

作品や作家、治療や主治医、教えや教祖、少なくともこの一貫性がないと、真実は、見えてきません。

ダメです、いつも以上に酔っぱらってます(笑)。この辺で。

2016/2/26(金) 午後 9:04 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(9)」へつづく
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