VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(9)

三島由紀夫を読み返す(8)」からのつづき・・・

by J.I. × 痴陶人


痴陶人さん:
何もかもなくした絶望の中で、人はその自尊心をどのように快復させようとするのか、ここに私の興味があります。

例えば、バーチャルな世界の交流を自分の全てと考えていた男が、荒しという存在一つで、その世界を崩壊されたと絶望を覚える。その時男は、秋葉原で大殺戮の暴挙に出ます。

三島は、「魔」において、次のように述べます。

『「俺が滅びるのだ。だから世界がまず滅びるべきだ」という論理は、生きるための逃げ口上に使われれば、容易に、「世界が滅びないなら、俺は滅びることができない」という嗟嘆に移行する。』

このことは、死刑になりたいからと殺人を起こす現代の通り魔の心理を描いて秀逸です。

三島は、何故こんなにも犯罪者のことがわかるのだろうと思うぼど、通り魔を「理解」というものではいい足りない、理解を越えた、通り魔自身の言葉で「魔」に綴っています。

余談ですが、私が物心ついて初めて自分の死を思い描いた時の世界観は、決して「俺が滅びるのだ。だから世界がまず滅びるべきだ」というような過激なものではありませんでしたが、デカルトのコギトの逆説のような観念でした。

それは、

「ボクが死ねば、世界が存続していてもそれを感知できないわけだから、世界が存続していようがいまいが意味はない」

というものでした。

私はぼそっとさんのこのブログを「自力で自己を存在証明するしかない。このブログの意義は、こんなところでしょうか。」といいました。

ぼそっとさん自身は、このブログの意義や動機を

「なぜならば、私たちの配信は、聞き手を満足させたり面白がらせたりすることよりも、語り手・送り手の私たち自身が、機能しない精神医療に替わるものとして活用し、「自分たちで治っていくための手段」として必死にやっていることなのですから。」

と述べられています。つまり、医療の専門家が治療者として機能しないのなら、自分たちの力で自己快復していく、コミュニティーを創出しようでしょうか。

私は、専門家治療の道をなくすという患者としてのある種の絶望の中で、ぼそっとさんが、自己快復、自己治癒の道を選ばれたことに、私のいうそれしか道がなかったという以外に、ある願望を見出だしました。

それは救済願望です。

恐らく唐突に感じられるでしょうね。順を追って説明しますね。

ドストエフスキーの「罪と罰」に、マルメラードフという人物が登場します。娘を娼館に売り飛ばし、その金で飲んだくれている、そう、ヒロインソーニャの父親です。

このマルメラードフが、馬車に轢き殺される前夜、ラスコーリニコフに酔ってしゃべってしゃべってしゃべりまくります。

その魅力的な会話の中で、マルメラードフは、自分は誰からも憐れまれる存在ではないと、その自尊心を語り、そして貧乏のどん底で社会から虐げられ、その存在承認を抹殺さらた豚か虫けらか亡者のような存在でも、せめて誰かの為に役に立つ存在でありたいという思いを発露します。

お前のような飲んだくれの人でなしが、俺を憐れむな、俺が憐れむのだという論理は、普通の人にはわかりにくい感覚でしょうが、私にはすんなりと受け入れられるアプリオリでした。

恐らく被災地で、ボランティア活動をされたぼそっとさんには、このことをよくご理解されていると思いますが、人は絶望の中で憐れまれるだけの存在では、決してその絶望から立ち直れない、せめて誰か一人でも、その人の為になっている、そういう自己承認と他者承認の必要十部条件の中でしか、自尊心は満たされない。そういう内容のことをぼそっとさんもどこかに書かれていたような気がするのですが、違いますか。

ドストエフスキーの翻訳家江川卓は、「謎とき『罪と罰』」という著作の中で、このマルメラードフの願望を救済願望という言葉で指し示します。

実は私は、このマルメラードフが、「罪と罰」の前作「地下室の手記」の主人公が二つに分裂したその片割れだと睨んでいます。

そしてもう一方の片割れが、ラスコーリニコフとして結実するというのが、私の論なのですが、このことはいずれまたお話しするとして、世の中から存在承認を拒まれた者の救済願望というのが、実は、「地下室の手記」のテーマの一つの柱となっています。

ドストエフスキーの膨大な作品の中で唯一無名の処置を施された「地下室の手記」の主人公ネズミくんは、ある絶望のどん底でリーザという娼婦と出会います。

絶望のどん底ですから、ネズミくんが「俺が滅びるのだ。だから世界がまず滅びるべきだ」そう思ってもおかしくありません。

事実ネズミくんは、最初の内、リーザを言葉でとっちめにかかります。しかしいつしか、自分の言葉に酔う内に、自分を英雄視していることに気づきます。

虐げられた人の自尊心が英雄に向かうというのは、袴田巌さんの話をされておられますし、イスラム国に向かう若者たちの一発逆転の志向、牽いては三島の英雄観とも抵触しますから、ぼそっとさんには、すんなりと理解頂けることと思います。

因みに、岸田秀は、こういう英雄観を小児期の全能感に見ますが、私は当たっていると思っています。

また、酔いが限界にきました。これ以上は書けません。この辺で。

2016/2/27(土) 午後 6:34
「ボクが死ねば、世界が存続していてもそれを感知できないわけだから、世界が存続していようがいまいが意味はない」

という逆コギトは、
おそらく多くの人が無意識に思っていることで
それを痴陶人さんのように平明な言葉にできる人が
なかなかいないだけかもしれませんね。

三島『天人五衰』の最後の方で、
余命いくばくもないと思われる本多繁邦が
タクシーか何かの車窓から街景を眺め、
やがて自分が死ぬことで、この「世界」を消滅させることができる、
そうやって自分はこの世界に報復することができる、
と想うシーンがあったと思いますが、
そのときの本多の世界観をマイルドにしたものを
早熟であった少年の痴陶人さんはすでに持っておられたのでしょう。

じっさい、そういった本多の想像を執筆していたときの三島は、
すでに具体的に
市ヶ谷乱入の計画を懐に抱いていたのにちがいないわけで、
本多の「自分の死による世界への復讐」という逆コギトは、
三島自身のものでもあったかもしれません。

そして、痴陶人が上記に挙げてくださった「魔」の抜粋が
その傍証になりますね。

私が三島を、
秋葉原男と同類の無差別殺人者にカテゴライズしたのも、
お考えになっているとおりの理由からです。
 
三島の場合は、きわめて対照的に
殺人する対象を差別して差別してとことんまでつきつめて
無差別殺人を遂行したわけですね。

三島『奔馬』に出てくる飯沼勲も、
ほんとうは無差別殺人したいところを、
殺人の対象を同じように差別して差別して、
何の私怨もない、蔵原という財界の大物を殺すわけですが、
三島自身に比べると、まだ「他者」を殺してしまっている。

「飯沼勲を純化すると自分になる」
というふうに、三島はしたかったのではないでしょうか。

被災地支援の本質は、おっしゃっているとおりです。
およそ人助けのボランティアというものは、
けっきょく被災者の方など「対象」に自己の鏡像を見ているのです。

「人の為(ため)と書いていつわりと読むんだねえ」
などと書いているのは、
そういうことにもつながると私は考えております。

もちろん相田みつを
鏡像」などという語彙は持たないでしょうけれど。

私は、被災地支援のような行為は
けっして「善」だと思っていないので、
その最中も私は偽善者ではなかったのですが、
「これは鏡像を介した自己承認だ」
ということは、支援活動のさなかにも
私はできるだけ忘れないようにしていました。

そういうことを微塵も考えない自己陶酔型の支援者に出会うと
内心、いらだっていました。

しかし、それを支援活動の表層で言葉にすると、
あらぬ誤解を受けるので、
いまだにその領域には触れることは稀です。

なるほどドストエフスキーはそのように読むと面白いのですね。
勉強になります。

幼児的万能感は、すべての自己の発達の原点でしょうね。

  • 2016/2/28(日) 午前 10:23

痴陶人さん:
ぼそっとさんのこのブログ「チームぼそっと」の映像インタビューや文章による試みは、まだまだ世に承認されない症状や生きづらさを語ることや書くことで自己承認し、自己快復してゆくと同時に、その自己証明が同じように生きづらさを抱えている人に、自分と同じようなことで苦しんでいる人間がいるんだということを通じて他者承認を与える救済願望に支えられているというのが、私の考えです。

ぼそっとさんやドストエフスキーにあって、三島由紀夫に決定的に欠如しているのが、この救済願望です。

三島の小説(戯曲は別)には、カタルシスがなく、徹底して虚無の側に結末を迎えます。

そのことが、三島の作品世界を孤高へと押し上げたともいえますが、私は、三島の作品が、絶望の中で、秋葉原男の側へ向かうあの「魔」の心理に支えられているような気がします。

さて、ここまでに出てきた承認願望、存在証明、救済願望、英雄(全能)というキーワードは、そのまま三島の「仮面の告白」とドストエフスキーの「仮面の告白」を読み解く鍵にもなっています。

ところが、三島もドストエフスキーもどちらも逆説の人で、これが一筋縄ではいきませ…


2016/2/28(日) 午前 10:53
自分と同じようなことで苦しんでいる人間がいるんだということを通じて他者承認を与える救済願望に支えられている」
というのは確かにおっしゃるとおりです。
そこに「共感」という行為の可能性をさぐっているわけです。

人と人は決してわかりあえない。
けれど、それと同時に
人と人はわかりあえる。

その「わかりあえる」方の間口を
インターネットや映像という現代的な手段をつかって
どのように広げていけるだろうか、と考えています。

三島に救済願望がなく、
最後に描かれるのがカタストロフ(破局)ばかり
とはおっしゃるとおりですが、
三島にとってはカタストロフが救済であり、
死こそが安息であったのかもしれません。

カタストロフが救済である作家・表現者としてはほかに
まだ生きている人としてはラース・フォン・トリアーなどを
私は思い浮かべます。

三島があのように積極的に「死を死ぬ」道を選んだのは、
「死への恐怖」からゆえに他ならなかったのでは、
というのが、かねてからの私の持論の一つです。

この話をしたとき、
私の主治医はさっぱり理解してくださいませんでしたが(笑)

2016/2/28(日) 午前 11:58


痴陶人さん:
ぼそっとさんが、虐待という言葉をabuseという原語に一旦戻し、それをabとuseとに別けて、「異常な使用」という新しい言葉を導きだしたことは意義あることだと思われます。

つまり日本でいう虐待は、どうしても殴る蹴るを連想しがちですが、虐待はそれだけに止まらない。

このことを最近ぼそっとさんは、ある言葉で旨く整理されました。

それは、干渉という言葉です。ネグレクトという言葉が普及して、ネグレクトが虐待の一種であることが常識となりましたが、このように、現象に名前をつけていくことは非常に大事で、ネグレクトは、ネグレクトという言葉のお陰でその現象を皆が理解したように、初めに言葉ありきということがいえる。

干渉ということばで整理すると、ネグレクトは非干渉もしくは無干渉ということになる。(不干渉とすると、放任主義といった良い意味になるような気がします)つまり親としてのアテンドの放棄が、非干渉です。

そして、この非干渉の逆対の概念が過干渉です。子供に干渉し過ぎることが、虐待になるというのは、新しい考え方だと思います。

ただ、過干渉の質が大事で、過保護をどこまで拾うかの問題点があると思います。私などは過保護も立派な虐待と思うのですが、愛を基準として成り立つ過保護を世間が虐待として承認するかどうかの問題を孕んでいるように思います。

ここのところが、ぼそっとさんの症状が社会的に認知されないこと、また、ぼそっとさんが何故愛という言葉を使いたがらないかとも一脈通じており、扱いが微妙になってくるかと思います。

ただ、愛を大義として言い訳にし(恩を着せる)、虐待の道具として用いている場合は容易に想像がつき、私などは、過干渉を大いに推し進めて欲しいと思います。できれば過度な期待もそこに含んで欲しく思います。


2016/2/29(月) 午前 6:30
「虐待」も「ネグレクト」も「過干渉」も
児童虐待の専門家たちの用語ですが、
おそらく彼ら自身も
これらが完全にシニフィエを言い得ているシニフィアンだとは
思っていないでしょう。

「虐待」ひとつ取っても、
もっと用語が改良されてしかるべきです。

私は puzzling nurture (和訳未定)という語を考案し、
塞翁先生が2000年ごろ渡米して専門家と会談するときに
託したことがありますが、
しょせんは素人の一患者のたわごととして
無視された気配があります。

「過保護」という語では、
「保護」がもともと「良いこと」という語感があるので、
どうも「過保護」になった子、
すなわち「被害者が悪い」となってしまいかねません。

だからこそ「過干渉」という語が考案されたのでしょう。
これによって、
「干渉」という、どちらかという「悪いこと」をする主体である
親に問題があるという側面をあぶりだすことはできました。

けれども、完全からはほど遠いですね。
痴陶人さんがおっしゃるような
「過剰期待」「恩着せ」
のニュアンスをふくめた、
ズバリ「そのこと」を指すような語が考案されることが
つとに期待されていると思います。

私としては、自説であるところの
「主体の剥奪」
が虐待の本質である、という味付けを加えたいものです。

私が「愛」を使いたがらないのは、
まだまだ「支配」を「愛」だと勘違いしている人が多いからです。

2016/2/29(月) 午後 12:18
 
痴陶人さん:
ぼそっとさんの語感、ニュアンスは過不足なく伝わっております。ご安心を。

過不足なくという言葉が出たついでに、申し上げると、子の養育や教育は聖書風にいうなら「愛は惜しみ無く、けれども過不足なく与ふことが必要」ということになりますね。これは、もう神の配剤に等しい。

私もぼそっとさんと同じく、自分の子は持たないことを人生のどこかで選択しました。私の遺伝子を持った子が哀れで仕方なかったからですが、最近案外私は、いい親になれたのではないかという思いも抱いております。

〉私の親はこの後者の過干渉型でした。三島の成育環境も、この後者だったのではないでしょうか。その結果、私は幼いころから「魂の息切れ」を起こしていて、いよいよ社会で活躍する齢になるとつぶれてしまいました。三島は表面的にはバリバリと社会で活躍したわけですが、まだまだ脂の乗った時期に「魂の息切れ」がどうにもならなくなってきたのではないでしょうか。

はい、祖母夏子の貴族でもないのに貴族のように、また女性しかいない環境に公威を隔離するそれは、正にabuseでしょう。ただ倭文重の扼殺、非干渉もあったと私は思います。

2016/2/29(月) 午後 6:14
> 倭文重の扼殺、非干渉もあったと私は思います。

まさにここから先が、
痴陶人さんならでは鋭いご洞察の真骨頂となるわけですね。
ぜひ御説の展開をお願いいたします。

もし『仮面の告白』の引用に飛びたい場合は、
こちらのリンク(*1)をどうぞ。


あ、そうそう。
昨日、うちのブログのナガレさん(*2)と話したのですが、
ナガレさんも「イリエ塾」の出身だそうですよ。

*2.ナガレさんについては

なので、大阪にはあまり馴染みのない私も
なんとなく「イリエ塾」なる学び舎の色彩が
わかってまいりました。

2016/2/28(日) 午後 8:33


 
・・・「三島由紀夫を読み返す(10)」へつづく
All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020