VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(10)

三島由紀夫を読み返す(9)」からのつづき・・・

by 痴陶人 × J.I.


痴陶人さん:
人は絶望に際し、何故英雄感、万能感を欲するのか。またそれが何故幼児的万能感として現れるのかという問題です。

人は人世に躓いた時、躓く前に遡り、人生をやり直したいなどと思います。

私はそのリセットの防衛機構として、生まれたときからやり直したいと思うのは至って自然であるように思うのです。つまり最初から生き直したいと思うのが、幼児的万能感の希求です。

ところが、そのデフォルトを生まれた時点ではなく、その少し前、生まれる前に設定したいという人がいる。つまり、生まれなかったことにしたいという人です。

そして、自分を生まれなかったことにするためには、親に生まさないことが、必要になる。

ここに私は、死刑になりたいが為に人を殺す殺人者の心理を見ます。

前者は、生を生き直す願望で、救済願望はこちら側に存在します。そして、後者は、死を死に直す願望で、「魔」の願望、世界の滅亡願望は、こちら側です。


2016/3/1(火) 午前 6:07
精神医療において、いわゆる「治療」と呼ばれる行為が
ほとんど退行に基本を置いているのは、
いま痴陶人さんがおっしゃったような理由からでしょうね。

たとえば患者に深い催眠をかけて
バビンスキー反射(*1)が出るほど退行させて、
幼児期のその人と対話してあげることにより
その人の世界観を治してあげるといった精神療法がありますが、
これなどはまさに患者が
「最初から生を生き直す」
ためのステップをわかりやすく見せてくれる例だと思います。

*1.バビンスキー反射
正しくはフランス語読みをして「ババンスキ」。
赤ちゃんが足を、手のひらのように
閉じようとする反射運動。
ふつう2歳以降は出なくなるが、
催眠によって退行すると2歳以前の自分に戻り、
ふたたび出るようになるという。

自己治療としてやっているすべてのこと、
……たとえば、痴陶人さんや私が「酒を飲む」というのも、
部分的な、偽性の「幼児的万能感」を
期間限定で獲得しようという
物悲しい試みであるわけですよ。

救済されたいのですね。

救済の中身をもっと詳しくみていくと、
「不快を除去したい」
ということになるでしょうか。

そして、その退行のかなたには「子宮回帰」がある。

「生まれる前」に戻ってしまうわけですね。

これが、状態として死と同じだというわけで、
無差別殺人犯や自殺志願者たちが目指している地点である
と痴陶人さんはおっしゃっているのでしょう。

もっとも三島の最後の作品『豊饒の海』は
輪廻転生の物語でしたから、
死は退行でなく、前に進んだことにより、
ちょうど循環をひとめぐり回って
同じ地点に到ったのだ、
というふうに三島は言いたかったのかもしれません。

いま痴陶人さんや私が話題にしていないような、
いわゆるポジティブ志向の、まったく鬱でない人でさえも、
結局は皆「死に向かって生き」ているわけで、
フロイトがエロス(生の欲動)とタナトス死の欲動)を
セットで考えたのも、このへんに源があると思います。

2016/3/1(火) 午後 1:53


いつもよりかなり酔ってますから、論理に破綻があるかもしれません。お許しを。

死刑になりたいから、無差別に見知らぬ人を殺す。何故?人は皆そう思う。

そんなに死にたいのなら勝手に自殺してくれればよい。そんな身勝手な奴の巻き添えを食ったら堪ったもんじゃない。

私もそう思う。

しかし、三島の

『「俺が滅びるのだ。だから世界がまず滅びるべきだ」という論理は、生きるための逃げ口上に使われれば、容易に、「世界が滅びないなら、俺は滅びることができない」という嗟嘆に移行する。』

という予言めいたこの言葉に接して、私は何かこの言葉から、啓発を受けるのだが、それが何なのかが、喉元につかえてしまう。

三島らしい敢えてダイナミックに言い切ったこの言葉の前提は、まず、俺が滅びたいと思っているところにある。

滅びたいと思っていない人間には、例え三島が言った言葉であろうと、死刑になりたいから人を殺すという言葉同様、単なる世迷い言にすぎない。

殺人犯は、「死刑」になりたいと言ってるのであって、単に死にたいとか、自殺したいと言っているのではない。

つまり、死刑を欲しているということは精神疾患の発症の原因の一つである自己懲罰を求めているということである。この点において我々は、彼らを普通の精神疾患者とまず同列に扱う必要がある。

彼の望んでいるのは、自分の死と引き換えにした世界の滅亡だ。

世界が複雑になり、世界の実体が曖昧になりすぎたが、結局世界は、男と女か、親か子かに収斂されてゆく。

男である子が女である子と出会い親になる、世界とは連綿と続くこの生物学的現象の断面である。

試しに先の三島の世界という言葉を親という言葉に置き換えてみよう。

「俺が滅びるのだ。だからまず親が滅びるべきだ。」「親が滅びないなら俺は滅びることができない。」

じゃあ誰かを巻き添えにして、そんなに死刑になりたいのなら、てめえの親を殺せよ。そんな気狂いを生み育てたんだから、そいつの親にも責任の一端はあるはずだ。そんな声が聞こえてきそうだ。

現に親殺しの殺人者も数多くいる。

では何故、彼らは、親ではなく、見ず知らずの赤の他人を殺すのであろうか。

それは、承認願望と大きく関わってくるように思える。

混乱してき…
(字数制限による尻切れ)

2016/3/2(水) 午後 8:42
もしかしたら齟齬があるかもしれませんので、一言。私のいう救済願望は、救済する願望で、救済される願望とは違います。

いや、救済される願望もありますが、救済されるべき立場でありながら、他人を救済したいという願望です。

ご理解頂いているとは思いますが、念のために、老婆心を。


2016/3/2(水) 午後 9:52
なるほど、それは微妙なちがいですね。

痴陶人さんが今までおっしゃってきたのは
「救世主願望」
だったということでしょうか。

「自分は人を救えるのだ」
という思いが過度に肥大している場合は、
それは支配欲であったり自己陶酔であったり
優越感の確認であったりするわけですが、
根柢においてはやはり
「じつは自分が救済されたい」
という意味での救済願望なのでしょうね。

私は被災地支援のため三陸海岸へうかがったとき、

「いつか首都直下型大震災が来たならば、
自分のようなボロ屋に住んでいる者は
まっさきに家屋の下敷きになるだろうから、
そのときは早く助けてほしい」

という下心があることを自覚していました。

私の場合、けっして救世主願望といった
大きな気持ちはありませんでしたが、
やはり救済されたい気持ちから支援に向かっていました。

さて、

「ほんとうは自分の親へ向くべき殺意が、
 まったく無関係の他者に向き、
 無差別殺傷という事件を引き起こす」

というパターンをたどる者が、そうなるのには、
やはり「承認願望」(私の言葉では「存在承認欲求」)と関係するという痴陶人さんのお考えは、
まさにそのとおりだと思います。

なぜならば、
自分の親をほんとうに殺す者は、
赤の他人を殺す者より、さらに社会に認められないからでしょう。
(英語でいうと less approved)
 
ひと昔前まで「尊属殺人」という用語があったほど、
「自分の親は殺してはいけない」
という社会通念は強いのではないでしょうか。
 
その社会通念はどこから来ているのでしょうか。
これはへたとすると近親相姦の禁忌と同じくらい
「あってはならないこと」
として、人間社会のなかに前提的に存在している規範であるような気がします。

法があれば、必ずその裏をかく者があらわれます。

たとえば私の母親などは、
その不文律を悪用して、

「どうせ子どもには殺されないから、
 子どもには何をやってもいいや」

とばかりに、好きなように子どもを扱っていたのだと思います。

もちろん、すべて無意識レベルのことですけどね。

また、「父親殺し」に関しては、
ドストエフスキーの専門家でいらっしゃる痴陶人さんには
いまさら私ごときから申し上げることは何もありません。

……。
……。

「自分の親を殺すべからず」
を一文字に凝縮すると、「孝」だと思います。

これは、儒教の八徳「仁義礼智忠信孝悌」にも入れられ、
人間としてもっとも守るべき徳目の一つとされていますが、
もともと孔子の時代には、

孝……子から親への愛
慈……親から子への愛

として

「孝慈」

というセットで使われていたそうです。

それが、幾世代もわたって後世へ伝えられていくときに、
前の世代はつぎつぎと
自分たちに都合の悪いことを淘汰していきますから、
「慈」が抜け落ちて、
「孝」だけが独立的に強調されるようになっていったのではないか、
と私は考えております。

しかし、その「孝」の徳目を実践するがあまり、
不穏がガスが心に溜まり、
無関係な他者を無差別殺傷する者があらわれている
ということではないでしょうか。
 
あんなことをする前にもっと自分の親に向かい合ってくれれば
良かったのだと思います、社会のためには。
 
2016/3/3(木) 午後 9:32
 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(11)」へつづく
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