VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(11)

三島由紀夫を読み返す(10)」からのつづき・・・

by 痴陶人 × J.I.
 
痴陶人さん:
(「スパゲッティの惨劇(1)(*1)を読んで、)お母様の言葉は、ポルノグラフィ、とりわけSM小説のサディストが、無垢な生け贄に、四文字言葉や快感を無理矢理口にさせる、所謂言葉責めと言われる行為に似ていますね。

それがぼそっとさんのいわれる主体と客体の関係なのでしょう。意思や感情を否定される客体、つまり子でも人間でもない、主体のない物として扱われることを虐待だと。 


2016/3/5(土) 午前 7:33
 
さすが鋭い洞察力です。

前も書かせていただいたこのエピソード(*1)が、
最近とみに重要に思えてきて、
焼き直しで書かせていただいているのですが、
痴陶人さんのおっしゃるように、
私のいう虐待の本質である
「主体の剥奪」のわかりやすい例であり、
私の治療共同体において現在エスカレートしている
戦争の争点となっている「近親姦優遇の可否」についても
関連していると思われます。


SMの言葉責めに酷似した母子の会話というものが、
はたして何を意味するのかを考えてみたいです。 

2016/3/5(土) 午前 10:47
 
 
痴陶人さん:
SM小説が安心して読めるのは、被虐者がその嗜虐を最終的に快と認める予定調和のドラマツルギーにあります。

たとえ鞭や蝋燭といったおどろおどろしいアイテムを用いても、そこに本当の虐待や殺人が起こらないことを我々は、わかっているのです。つまりSMは、猟奇を薄めた無害のBGMとして、暴力のエッセンスだけを抽出し、性の媚薬として利用するようにできているということです。

あくまでもプレイ、ごっこで、嗜虐者にも被虐者にも快が予め保証されている世界が、SMだと私は思います。

例の文豪の中で谷崎だけが死ななかった理由もここにあると思います。マゾヒズムを性的に利用することは、本当の死や苦痛から身を守る防衛機構となるのではないか。そんな風に思っています。

本当の虐待の嗜虐者と被虐者、親と子には、この双方快の調和がない。

ぼそっとさんの場合はいかがですか。ぼそっとさんに快はないことはわかりますが、お母様はどうだったのでしょう。 


2016/3/5(土) 午後 4:29
おっしゃるとおりですね。
SM関係において、
Mな人は被虐しているのであって、
被虐待されているのではない。

主体的な被虐はであり、
客体的な被虐待は不快です。

被虐待には予定調和のカタルシスがないけれど、
それを常態として学習してしまうと外傷再演として、
その不調和を調和としてめざす習性が
ついてしまうのだと思います。

私を虐待しているとき、
母は自覚的には性慾を感じていなかったでしょう。

しかし、無自覚的に
性慾と同じ何かに駆られていたことは明らかです。
社会的な語では支配欲、
フロイト的にいえばエロス、
もしくは知性化された性慾ともいうべき何かに。

だから近親姦被害者と私には、
体験構造にも症状論的にも共通点があり、
やみくもに私を患者として降格したり放逐するのは当たらない、
と私は主張しているのですが、
これがなかなか理解されません。

2016/3/5(土) 午後 5:48 
 
 
痴陶人さん:
お母様に快がない。ここにぼそっとさんも何度か薄々言及されている、お母様自身が虐待の犠牲者だった可能性が私は高いと思っています。

家族団らんに緊張を持ち込むあのやり方は、強迫的で、私はそう確信していました。

何か、私からすると、お母様も哀れなんですよね。

例えば南部迂回事件(*2)、あの時のお母様の意地悪な燥ぎようは、その悲しみ、自分も行けなかったような優秀な大学に行き、そこで自立しようとしている(サークルか何かの大切な打ち合わせか何かで急遽帰京する)息子に対する嫉妬(自分の奴隷でなくなるぼそっとさんを奴隷として引き留めたい、子離れできない母親の焦り)を私は見ました。

そして、お母様の虐待は、近親姦であったのではと邪推してしまいます。あまりにもあの言葉責めは、性的なものですから。

すいません、酷いことを言ったかもしれません。

2016/3/5(土) 午後 6:21
 
いえいえ、ご心配なく。

母にも虐待された体験があるのだと、私も思っています。

前にも書いたように、
私は1999年に家族会議を開かせました(*3)

*3.家族会議を開くにいたるいきさつは
父への手紙」参照。

いうなれば、それは母に、

「わたしにも過去に虐待された体験があったんだ。
 だから、それが連鎖しただけなんだ。
 わたしはあんたが思っているほど一方的な悪者ではない」

と弁明する機会を与えるためでした。

しかし母は、

「お前の言っているようなことはいっさい起こらなかった」

と否認に徹してしまい、
当初の私の目的は果たせませんでした。
 
 
また、母の私への数々の虐待は、
性器の挿入をともなわない近親姦であったと私は認識しており、
それにまつわる論争が、
私たちの治療共同体における現在の
「斬った貼った」
につながっております。
そうしたこともやがて言葉にしていきたいと考えています。

いくらか補足させていただきますと、
「快」とは、
必ずしも性的快感のかたちで訪れるわけではありませんよね。

たとえば、痴陶人さんならば、私よりも精通しておられるであろう、「読書する快感」のようなものは、非性的(non-sexual)な「快」の代表的なものです。

しかし、それもやはり突き詰めれば「エロス」から発している。

「エロス eros」と「エロティックなもの eroticness」を同一視すると、スポーツ新聞のようにカラフルで薄っぺらな世界になってしまいます。
 
逆に、セックス依存症の人には、
セックスに性的快楽を感じられず、
セックスでない行為(俗にいう倒錯)にこそ性的快感を覚える人が多いです。

そのへんのことは三島を考えるとわかりやすいですね。

少し遠くへ行きすぎましたが、
過干渉型の虐待をする母というものは、
虐待という行為、加害そのものに、
全身のエロスを傾けているものでしょう。

しかし、それが必ずしもエロティックな形状を帯びない。
むしろ、帯びる場合の方が少ないのではないでしょうか。

それはやはり、
女性と男性の性器の形状のちがいなどから来るのでは、
と思います。

しかし、動機や、被害者に出る後遺症などは、
父から娘の近親姦がなされたときの被害と同じだと思います。

臨床的であるはずの精神医療は、
じっさいに出て苦しんでいる症状に、
もっと着目すべきだと私は考えております。

2016/3/5(土) 午後 11:15 
 
 
やはりぼそっとさんと私は、同じ畑の苺ですね。

私が次に導き出したい言葉がきっちり出てきて驚かされました。

まず、救世主願望という言葉ですが、これは先に紹介した江川卓が、「謎とき『罪と罰』」でラスコーリニコフに用いた言葉そのものです。

ドストエフスキーは、まず「地下室の手記」において、地下室人に救世主願望を抱かせます。そしてぼそっとさんが仰言るとおり、自己陶酔して自滅します。

ドストエフスキーの「地下室の手記」は、ドストエフスキーの著作の中でコペルニクス的転換と言われ、また次回作の傑作「罪と罰」は、「地下室の手記」を通らないことには完成することはなかっただろうなどといわれますが、私は、「地下室の手記」と「罪と罰」が姉妹作だといっても過言ではないと思っています。

というよりも、「罪と罰」は、「地下室の手記」の逆説としてあります。「地下室の手記」は、願望の世界、そして地下室人がプレストゥプレーニエ(踏み越え)て、殺人という行動に出るのが、「罪と罰」です。

そして「罪と罰」では、マルメラードフが、ラスコーリニコフに救世主を託すという役割を担います。自己陶酔の排除ですね。まあ救世主といっても666の悪魔の刻印を持ったアンチキリストとして存在するのですが。

ドストエフスキーは、最初一人称で書いていた「罪と罰」を急遽三人称に書き改めますが、私は、その措置を「地下室の手記」の登場人物、地下室人、リーザ、ズヴェルコフ、アポロンなどを「罪と罰」に解体したり統合したりして移譲する作業だったと睨んでいます。


話が横道に逸れすぎましたね。

「ほんとうは自分の親へ向くべき殺意が、
まったく無関係の他者に向き、
無差別殺傷という事件を引き起こす」

ことに話を移しましょう。ぼそっとさんは、次に私がしようと思っていた言葉を出してくれました。

それは、尊属殺人です。

そして近親姦との併記は、恐らく私の志向を先取りしたものと思われます。

フロイトは何故偉大なのか。私は、人間心理をすべて性に結びつける大胆なシステムを考え出したことにあると思います。そんな離れ業は、必ず例外が出ることは必至です。それを敢えて言い切ってしまうダイナミズムにフロイトの偉大さはあると思います。

特にその中でもオイディプスコンプレックスの指摘ほど大胆で偉大なものはありません。

人類の二大タブー尊属殺人と近親相姦を盛り込んだ神話を、一般の人間に適応させてしまおうという試みは手品というより、イリュージョンです。

ところが、例外は勿論あるものの、これが嵌まった時の心理分析は、超美技です。例えばロシア文学者でドストエフスキーの翻訳家でもある亀山郁夫は、「父殺しの文学」という視点でドストエフスキーを読解しますが、正にフロイト理論が嵌まる訳です。

元々フロイトは、ドストエフスキーシェークスピアの作品をオイディプス構造の説明に使ったようですね。私が文藝批評が、精神分析になりうると考えるのは、この部分であるかもしれません。

私は、オイディプス理論の弱点を女性に当て嵌まらないことだと思っていましたが、最近ぼそっとさんとやり取りしていて、女性にも当て嵌まるのではないかと思い始めました。

それは、オイディプス神話を、子が母と寝て、父を殺す物語ではなく、子と寝て父を殺すよう唆す話として読んでみるということです。

つまり母の使嗾の物語だということです。

例えばぼそっとさんの場合、お母様がお父様を唆し虐待する(殺す)話となり、オイディプスとは一見真逆のように見えますが、近親姦がないから、ベクトルが逆を向くとはいえないでしょうか。お母様に血の抹殺願望があるとか、ぼそっとさんが禁忌としてその欲求をそそるから、予め破壊にかかる可愛い子虐めだとかです。

フロイト気取りで大胆なことを言い過ぎました。自己陶酔ですね(笑)


2016/3/7(月) 午前 9:13
へぇ~、ドストエフスキーは最初
罪と罰』を一人称で書き始めたのですか。
さもありなん、という感じですね。

しかし、一人称では
予審判事ポルフィーリィが出てくるあたりで
筆を進めるのがむずかしくなったのでしょう。

私はロシア語はまったく(文法の基礎も、文字すら)わかりません。
「プレストゥプレーニェ」
っていう動詞(?)は、
なにか含蓄が深そうですが、
英語でいうとovercome みたいな感じですか。

絶望のさなかで『罪と罰』を書き始めたらしいですが、
だからこそ、いろいろと
人間世界の真実を書いてしまえたのでしょう。

私の母は、本人の自覚なしに、
りっぱなサディストであったと思います。

性交なき性でした。

性慾が、たとえばスポーツなど性慾でないかたちになることを
よく昇華などといいますが、
母の場合は昇華ですらありませんでした。

どうせなら、性器の挿入ありの虐待にしてくれていたならば
のちのち私が精神医療につながったときに
治療者の功名心をかきたて
治療してもらえたとも考えられます。

母がどうしてああいうことをしたのか。
それにはやはり、母の配偶者選択から、
成育歴を遡らなければなりません。
いずれ言葉にしたいと思っております。

晩年のフロイトは、
1929年に『ドストエフスキーと父親殺し』をあらわしましたが、
私はそれを近親姦タブーを論じた
1913年の『トーテムとタブー』の応用編であるとみています。

無差別殺人をしたがるタイプは、
カラマーゾフの父のような
「父殺しの対象となる父」を持っているだろうか、
というのが私の疑問の一つです。


2016/3/7(月) 午前 10:12
 
母が子と寝て使嗾し、父を殺す物語として読んでみる。」

私の母は、父の自尊心や自己尊厳を殺したかったのだ、
と思います。

私たちの世代にすでによくあった
過干渉型の母親が子どものお受験に熱中して
夫をうざったく思うという家庭では、
たしかに「母の使嗾」は起こっていたでしょうけれども、
夫がほんとうに死んでしまったら妻は困ったでしょう。

夫はATMとして、給料だけはほしいでしょうから。

私の原家族においては、
夫の収入を母は頼りにしていませんでしたから、
収入という意味では夫が死んでも
母はそんなに困らなかったと思われます。

しかし、私を踏みつけてでも
夫は大事にしているところがあります。
長男はいなくなっても、
いなくなったことに気づきもしないくらいだが、
夫がいなくなるとさびしいものだから
かなり邪慳にあつかいながらもずっと一緒に住んでいるようです。

いっぽうで、私の前で夫を踏みつけて見せるところが
母にはありました。

けっきょく、分断統治をしたかったのだと思います。

2016/3/9(月) 午前 11:12

承認欲求の中で、下位承認欲求は、
谷崎のような被虐的な性癖のある人や、社会的責任を背負いたくないと考える所謂無責任な人間、そして他者に依存したい、庇護されたいと思う人間でしょうか。

しかし考えてみれば、子であるということは、親に対してすべからく下位承認を欲求するのではないか。

幼児期に親に依存したい(甘えたい)、庇護されたい(保護されたい)と思うのは至って自然で、これが満たされて初めて、他者承認を獲得し、下位承認を克服してゆく。

満たされない子供は、どうなるか?先の例でいうと、彼らはマゾヒストに甘んじる(谷崎)か、無責任(反社会的人間)になる。

ほとんどの人(AC)が、親からのその満たされない存在承認欲求と格闘する(精神疾患)なかで、その最中に死んでゆくのだろうと思います。私なんかもその一人です。

だから、ぼそっとさんが他人にとってはどうでもいいことかもしれないが
一生掛けてでも真実を追求するというのは、とても意味のあることで、これが先の二者に加えられるべき、もう一つのタイプの人間、作家というのが大仰なら表現者といってもいいのですが、これだと思うのです。

精神疾患者と犯罪者と表現者が土壌(AC)を同じくするのはここですね。

虐待の最中、ぼそっとさんが、中空から俯瞰で自分を眺めていたというお話は大変興味深く拝聴しました。所謂、幽体離脱が起こる瀕死の状態な訳なのでしょうね。虐待で、昔風にいうなら精神分裂症の人が、よくこの事に触れていますね。

自分が俯瞰で見えるというのは、自分でやる他者承認ですが、瀕死の際でも人間は、他者承認を自分でしようとするのですから、これはもう本能といってもよい。

ぼそっとさんのいう、存在承認欲求が本能であるという証拠であるのかもしれません。

また、虐待の最中、ぼそっとさんが覚えていた感情が、痛みや怒りや悲しみでもなく、屈辱だったというのも興味深い。

フロイトは、オイディプスコンプレックスを説明するに際し、去勢の恐怖と、不能の屈辱を述べますが、ぼそっとさんの屈辱は、正にこの屈辱じゃなかったでしょうか。

フロイトが人間の本能的な機構に、直感的な洞察で瞬時に到達できるのは、やはり彼がユダヤ人種だったからではないか。

虐待の本質を民族的な虐待の中で理解するようになったのではないのてしょうか。それとも彼も虐待児でしたか?

ユダヤ人だからこそ、虐待の中に神とこ子、親と子の宗教的、歴史的、民俗学的、社会的な人間の本能の構図を察知できたように私には思えます。


2016/3/9(水) 午後 1:50 
「一生掛けてでも真実を追求するというのは、とても意味のあることで、これが先の二者に加えられるべき、もう一つのタイプの人間、作家というのが大仰なら表現者といってもいいのですが、これだと思うのです。

精神疾患者と犯罪者と表現者が土壌(AC)を同じくするのはここですね。」

というのは、まさしくおっしゃるとおりだと思います。

私の頭の中にあるものを
痴陶人さんの炯眼でX線撮影していただいた感じです。

自覚する、しないにかかわらず、
多くの人は、一生をかけて
なにがしかの真実を追い求めるのではないでしょうか。

逆にいえば、
多くの人はなにがしかの真実を追い求めることに
一生をつかうものではないでしょうか。

その真実が存する領域が、人によっては
相対性理論であったり、
社会的な革命であったり、
万巻の書の翻訳であったり、
巨万の富の蓄積であったり、
前代未聞の完全犯罪であったり、
追い求める対象はさまざまなのだと思います。

その対象に自己をはめこむことによって
たまたま与えられた一生という時間を使い切るのでしょう。

ならば、その真実の対象が
自分という領域であってもいいのだ、と思います。

たとえ、その選択の結果が、
社会から「ひきこもり」と蔑称されるものであったとしても。

私のように、何かとくに秀でた領域を持たない者であっても、
少なくとも「自分」に関しては専門家であると思います。

世のどんな碩学にもわからない、
自分だけが知っている真実というものがあると思います。

だから、私はそれを追い求めています。

そして、それは誰でもできることだと思います。
なぜならば、誰でも人は「自分の専門家」だからです。

……。
……。

なるほど、幽体離脱のような解離症状は、
「他者承認」のかたちを取った「自己承認」
かもしれないわけですね。

あるいは、

「こんなひどいことをされて。
 ぼくはぜったいに忘れない。
 証拠の写真を頭に刻みつける」

という意識のあらわれであったのだろうか、
と思う時もあります。

悔しいのは、
そんな残像の構図が、
もっとも被害を被害として承認してほしい他者、
すなわち治療者によって相手にされないばかりか、
放逐の原因になったということです。


フロイトフロイトたりえたのは、
おっしゃるとおり、彼がユダヤ人であったことと
切り離しては考えられないでしょう。

ユダヤ人であったために
当時のヨーロッパの市民社会に自己同一視せず、
それを外側から観察する眼を持てたのでしょう。

私のいう「 反市民」であったわけですね。

それがひいては人類を外側から見るような視点になっていく。
それゆえに、
人間社会のタブーをものともせず打ち破るような仮説と思索を
つぎつぎと繰り出していったのだと思います。
 
2016/3/10(木) 午後 1:24

デヴィッド・クローネンバーグ監督の「危険なメソッド」という映画を3年ほど前に劇場見ました。ユングフロイトシュピールラインの三角関係というコピーに惹かれたからですが、映画は、ユングシュピールラインの陽性転移と逆転移を性愛に絡めて巧く描いていたと思います。

クローネンバーグという人は、何でも性に結びつける人で、どこかフロイト的な人ですから、この原作は魅力的だったと思います。

私は、それまでユングをあまり評価していなかったのですが、この映画で私自身の人格は、フロイトよりユングに似ているのかなと思いました。アニマなんて概念は、何か嘘くさく感じていたのですが、この映画をみてから、アニマにもリアリティーを感じるようになりました。

先日、ぼそっとさんはあるところで、「ドストエフスキーユングをかけあわせたような展開ですね。」と言われましたが、このユングの意味を教えていただけないでしょうか。

シュピールラインは、後に自らも精神科医になりましたが、患者が誰しも精神科医やカウンセラーになれるわけではありませんよね。ぼそっとさんは、なれると思いますが。


 2016/3/10(木) 午後 6:29
あのとき「ユング」と申し上げたのは、
ようするにシンクロニシティのことです。

フロイトの後継者ラカンは、
ユング理論を一かけらも使わず、
フロイト理論だけで説明するようですが。

そうそう、シュピールラインは
危険なメソッド』で取り上げられて
一躍有名になりましたね。

記事(*)で取り上げたヴィットマンという女性患者も、
近年スウェーデン人の作家が
『ブランシュとマリー』という小説を書いたようです。
フランス映画にも同名のタイトルの作品がありますが、
これはヴィットマンのことではないようです。

* 「患者という主役」参照。


フロイトは何でも性に結びつけるのですが、
性への結びつけ方というのもいろいろありますね。

フロイトが言っていたのは、
しょせん人の働きが
「生まれて、生殖して、死ぬ」
と認識されたときの
「生殖」にあたる部分の性なのでしょう。

ニワトリの交尾のようだった単純な性が、
ヒトは大脳が発達してしまったために、
いつのまにか数々の文化規範とその侵犯を含む
迂遠な手続きへと変化していったということでしょうね。

ところで、「プレストゥプレーニェ」に関して、
私はずいぶんとトンチンカンなことを
申していたようですね。

そもそも「プレストゥプレーニェ」は名詞で、
罪と罰』の「罪」に当たる語だったのですね。

それが「一線を踏み越える」という意味の
「プレストゥピーチ」という動詞の派生語である、と。

やってはいけないことを
とうとうやってしまった、みたいな感じですか。

「地下室人」は、地下室でひきこもりしている間、
いろいろネガティブなことを願望していたけれど、
願望に留まっていた。
しかし、そこから「プレストゥプレーニェ」して
外へ出た時にラスコーリニコフになった、
という解釈でよろしいでしょうか。

2016/3/11(金) 午前 0:29
 
 
痴陶人さん:
「生まれて、生殖して、死ぬ」とは、動物の本能ですね。人間も他の動物と同じように、本能に突き動かされているはずだというのが、フロイトの初期の仮説だったのかもしれませんね。「生まれて、生殖して、死ぬ」つまり、生と死の間にあるのは、生殖のみで、人間も動物なら、生殖のことしか考えていないはずだという仮説なのかもしれません。

だとしたら、フロイトの理論は、私が思っていたような本能を洞察する大胆な仮説というよりは、初めから本能を見据えた科学的仮説であったことがわかりました。

なるほどシンクロニシテイですか。納得です。

ドストエフスキー(や私)は、「同じ畑の苺」といい、因果関係(運命、宿命)を見ますから、それを物理学、生物学から偶然というユングとは、一見真逆のような気もしますが、ユングは、人間をもっと大きな集合の一分子と捉えているのであって、結局運命をいっているのかもしれませんね。

ドストエフスキーユングという喩えは、卓見です。

……。

>そんな残像の構図が、
もっとも被害を被害として承認してほしい他者すなわち治療者によって相手にされないばかりか…(*2)


治療者の前に両親ですね。子が一番承認してほしい存在に承認拒否されているから、自己承認の俯瞰映像を見るわけです。

虐待の最も残酷なところは、「もっとも被害を被害として承認してほしい他者」自身が、その加害者であることです。

このことは、ポルノグラフィのサディストが、自分で女を裸にして縛っておいて、その被害を口にさせ、恥ずかしい存在であることを自己承認させた後、恥ずかしい存在であることを他者承認として与えるアレゴリーに活用されます。

恥ずかしい存在にしておいて、恥ずかしい存在であるなと命じるダブルバインドが、被害者を逃げ場のないところへ追いやる訳です

ポルノグラフィの場合は、実はサディストは、恥ずかしい存在を愛し受け入れるから、被虐者は、恥ずかしい存在に甘んじられるわけですが、虐待の場合は、正に逃げ場のない状態に放置される

幽体離脱の解離症状は、恐らく逃げ場のなくなった個から、魂が抜け出そうとする現象なのではないでしょうか。つまり臨死体験……(字数制限による尻切れ)

……。

プレストゥプレーニエに関しては、ぼそっとさんの解釈でほぼ間違いないかと思います。

今出先の車中ですので、文献を確認できませんが、「罪と罰」は、同じタイトルで刑法の専門書があるらしく、江川卓は、これをこのタイトルのポリフォニーの一番に挙げています。

次が仰言る踏み越えるという動詞との複合です。作中、ラスコーリニコフがソーニャに「お互い踏み越えた仲じゃないか」というようなことを言い、重要な意味を持つキーワードたもなっています。

また、第三には、「踏み越え損の持ち出し勘定」という裏の意があるのだといいます。

金貸しの老婆殺害に不慮にもう一人殺してしまうその妹リザゥータの死が、持ち出し勘定(マイナス決算)になるという意味です。

ドストエフスキーは「罪と罰」発表直前、マイコフだったでしょうか、雑誌編集者に「この作品は収支決算報告書だ」というようなことを書簡で書き送っています。

私は、それを信じ、「罪と罰」をそのような観点から読んでみました。つまり、賃借対照表としてです。すると、「地下室の手記」と「罪と罰」には、恐るべき相殺関係が出てくるのです。

2016/3/11(金) 午前 8:25
なるほど、『地下室の手記』と『罪と罰』は
貸借対照表として読めるわけですね。

どこだったか、三島が『仮面の告白』を書いたことについて
「あれによって自分の貸借対照表を明らかにした」
というような表現をしていたように思います。

三島の場合は、作品と自己の貸借、といった意味でしょうけれど。

作品同士の貸借対照表ということでいえば、三島の場合、
金閣寺』と『潮騒』でしょうね。

しかし、それはけっして
地下室の手記』と『罪と罰』の関係ではないですね。

潮騒』の主人公が「踏み越えて」金閣寺を焼くわけではないですから。

ラスコーリニコフがソーニャに、
「お互い、踏み越えた仲じゃないか」
というのは、ソーニャの中のどういう行動が
「踏み越えた」
として、共通点を見出しているのでしょうか。

ラスコーリニコフを相手に売春をした、
俗な表現でいえば「体の関係」があるという示唆?

それともソーニャが売春婦であるという社会的事実?

それともラスコーリニコフの殺人の告白を聞いてしまったこと?

2016/3/11(金) 午前 10:29


・・・「三島由紀夫を読み返す(12)」へつづく
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