VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(12)

三島由紀夫を読み返す(11)」からのつづき・・・

by 痴陶人×J.I.
 
痴陶人さん:
>『地下室の手記』と『罪と罰』は
貸借対照表として読めるわけですね。
どこだったか、三島が『仮面の告白』を書いたことについて「あれによって自分の貸借対照表を明らかにした」というような表現をしていたように思います。


はい、あの三島の文言はドストエフスキーから借りてきています。そして、カトコフだったかマイコフだったかに宣伝したドストエフスキーの売り込みを真似て、三島は坂本亀一(坂本龍一の父)にこれから書く「仮面の告白」の宣伝を書簡で述べます。私はこの三島の態度が、ドストエフスキー気取りで可愛らしくて仕方がない(笑)。そしてこのことは私が三島が「地下室の手記」を本歌取りにしたと主張する一つの査証にもなっています。

ただその書簡に「起稿を昭和22年の11月25日とし」と書いているのが、不思議です。「これから書き始めます」でいいのを、起稿の日を限定するのは不自然です。デビュー前から、三島にとって憂国忌は、何か意味ある日だったに違いないのです。

私は「11月25日」の謎として、15年前からその謎を追ってました。だから、父にこの日に死なれて、何かの符号と感じた訳です。

2016/3/11(金) 午後 6:34
私は若いころ、
まさに痴陶人さんのように知識豊富な友人から

「三島が11月25日を選んだのは、
 吉田松陰が処刑された日だったからだよ」

といわれ、ながらくそれを信じてきました。

しかし、今日調べると、
吉田松陰の忌日は、
太陽暦でも太陰暦でも11月25日にあたりません。

しかも、三島が、
まだ尊皇思想と縁のなさそうな若い時から
その日付にこだわってきたとなると、
やはりほかに淵源があると考えざるをえませんね。

さまざまな意味で11月25日と御縁のある痴陶人さんにとっては、
どうしてもその謎を追いかけなくてはならないでしょうね。
 
2016/3/11(金) 午後 19:58


ラスコーリニコフがソーニャに、
「お互い、踏み越えた仲じゃないか」
というのは、ソーニャの中のどういう行動が「踏み越えた」として、共通点を見出しているのでしょうか。
ラスコーリニコフを相手に売春をした、
俗な表現でいえば「体の関係」があるという示唆?
それともソーニャが売春婦であるという社会的事実?
それともラスコーリニコフの殺人の告白を聞いてしまったこと?


この質問は、ぼそっとさんのインタビュアーとしての才能の最たるものですね。

インタビューする相手から、その人の思考を誘導することなく、幅を持たせる。そして、その人の食いつきそうな餌も撒いておく(笑)。

ぼそっとさんはリカモではない経路で、カウンセラーになるべきです。

まずラスコーリニコフーとソーニャとの間に肉体関係があったと、ぼそっとさんは思われているのですね。

ぼそっとさんはよくそのことを理解されましたね。私は、江川卓の「謎とき『罪と罰』」を読む前まては、関係があるとは思ってもみませんでした。

でもそれを知ってから、随分この作品の理解が深まりました。 

2016/3/11(金) 午後 8:23
過分なお言葉、まことにいたみいります。

しかし、私は昔から
自分の関心を抑えるということができない性質(たち)で、
訊きたいことができるとズケズケと訊いてしまうらしいのです。

そのため顰蹙を買うこともしばしば。
現在進行形でも買っていることでしょう。

ソーニャは「汚れた聖女」であるけれども、
ラスコーリニコフへ自首を真摯にアドバイスできたのは、
たんに「聖女であったから」というだけでなく、
やはり少なからず好意と行為があったからではないか、
と思うのです。

私はロシア語はまったくわからないですけれども、
「一線を踏み越える」という動詞の名詞形が「罪」というのは、
深い哲学性を感じさせる言葉の成り立ちです。
 
漢字文化圏の「罪」は、
奴隷の鼻を切り落とす刑罰をあらわす
象形文字から来ているらしいですが、
ようするに他者が罰するから「罪」なのですよね。

もっといえば、
「お上に罰せられること」が「罪」である、と。

ある意味、主体性がないというか、
他人に決めてもらっている、というか。

英語でいえば、
刑法で可罰の対象とされる「crime」に近いのかもしれません。

英語の「sin」などは、
聖書に罪として書いてあることが罪である、と。

そこへいくとロシア語の
「一線を踏み越えること」が「罪」という語源は、
なんと主体的で哲学的であることでしょう。

三島『春の雪』で、
聡子を鎌倉の海岸まで往復路ともにエスコートした本多に、
聡子が、

「罪は、私と清様だけのものですわ」

といって、本多に累が及ばないように配慮したようでいて、
じつは罪という甘美な檻から本多を追い出して、
清顕と二人してとじこもったシーンを思い出します。

あのとき、まさに聡子は、
「プレストゥピーチ」したのでした。

2016/3/11(金) 午後 10:45

痴陶人さん:
お友だちの視点は悪くないですね。当たらずとも遠からずです。

何故なら、吉田松陰も「殺される王子」「反逆の皇子」(私の言葉でいうと「西向く士」)の系譜に属しますからね。

ただ、三島は西郷隆盛を英雄の系譜に入れても、松陰に言及したのを見たことがありません。ドストエフスキー同様(ドストエフスキーは曲がりなりにも貴族で、且つ銃殺刑を恩赦された変種の「殺される王子」ですから)、だからこそ怪しいともいえる。もしかしたら三島の隠蔽の系譜の側に埋められているのかもしれません。

それにしても、私やぼそっとさんや、三島のように、ある種の人間は何故「殺される王子」のような存在にかくも魅れるのでしょうね。

私自身は、獄中死する人間に魅かれ、松陰、二・二六の将校、雲井龍雄幸徳秋水大杉栄小林多喜二などを「花神」の後、渉猟しました。

……。……。

ソーニャは「汚れた聖女」であるけれども、ラスコーリニコフへ自首を真摯にアドバイスできたのは、たんに「聖女であったから」というだけでなく、やはり少なからず好意と行為があったからではないか、と思うのです。

深い御理解だと思います。「罪と罰」は、行動の物語ですから、ラスコーリニコフとソーニャは、互いの罪を背負い合い、生きていかねばなりません。そう考えるのが自然で江川卓も同じようなことを述べてます。

もう一ついうなら、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフをキリストにソーニャをマグダラのマリアに準えているように思います。

後年「ダ・ヴィンチ・コード」でダン・ブラウンはキリストとマグダラのマリアの末裔を描きますが、現代ならともかく、19世紀にキリストとマグダラのマリアを結びつける発想を持てたことは、凄いと思います。

「一線を踏み越える」という動詞の名詞形が「罪」というのは、深い哲学性を感じさせる言葉の成り立ちです。

「一線を踏み越えること」が「罪」という語源は、なんと主体的で哲学的であることでしょう。

一線を踏み越えるというのは、禁忌をイメージさせますよね。私は「プレストゥプレーニエした仲じゃないか」というのは、例の二大禁忌だと私は解釈しています。尊属殺人近親姦です。

方や金貸しの老婆を殺し、方や売春婦となっている。このことですね。殺しと身売りでもいいのですが、私は敢えて二大禁忌と捉えます。

地下室の手記」は、存在承認を拒否された虫けら同然の地下室人が、人間になろうとして、踏み外してまたネズミ穴に舞い戻る話。

罪と罰」は、人間が踏み越えて神になろうとするも、持ち出し勘定して、人間に舞い戻る話です。

ドストエフスキーは、ポリフォニーキリスト教の神だけでなく、ギリシャ神話な神々やロシア伝承のスラブの神々などを物語にトレースしています。

神々の世界、それは殺しや近親相姦が自由にやりとりされる世界でもあります。

2016/3/12(土) 午前 7:38
たしかに「一線を踏み越える」というのは
バタイユのいう「禁忌への侵犯」を連想させますね。

バタイユは、エロティシズムとは何かを説くうちに
その概念へ到達するわけですが、
「エロティシズム」と「罪」も切っても切れない間柄でしょうから、同じことを言っているのかもしれません。

大河ドラマ花神』のとき
痴陶人さんも私も中学3年生であったわけですが、
そういう時期に
篠田三郎の演じる「純粋」の塊のような吉田松陰は、
私の胸のうちにくすぶっている何かへ深く共鳴しました。

昨年の大河ドラマ『花燃ゆ』でも
伊勢谷友介演じる松陰が出ていましたが、
花神』のときのような共鳴は
もはや起こりませんでした。

それは、たんに私の感性が老いてしまったせいなのか。
それとも伊勢谷松陰は、
篠田松陰にはとうてい及ばなかったからなのか。
それともあの脚本連名執筆体制では無理があったからなのか。……

痴陶人さんが挙げた「獄中死する人々」には、
私も強烈に惹かれます。

「正しいことを言っているのに聞き入れられず、
 義のために犠牲になる人」

というイメージがあり、
身体のそこかしこが共鳴して震えてくるのです。

生まれながらにして冤罪を着せられているような
ACとしての自分と
どこかで周波数が同じなのでしょう。

なぜ周波数が同じになったかというと、
かたや日本の政治、かたや家庭内の日常と
規模は異なるものの体験の構造が同じだからです。

三島『奔馬』の飯沼勲も、
橋本左内その他、獄中死した人々に
身を焦がすようにあこがれ、
「私を拷問してください。
 なぜ私は拷問されないのですか。右だからですか」
などと刑事にくってかかります。

槇子の偽証によって、
勲は念願の獄中死ができずに出所してしまい、
今度は伊豆の海岸という獄の外で、
自らを「獄中死」させるのでしょう。

そして三島自身も、
市ヶ谷という、けっして獄中ではないところで、
自らをわざわざ思想という獄へ投じ
あのようにして獄中死してみせたわけです。

「わかってください。
 ぼくはこういう感じで生きてきました」

と、彼自身の心象風景を外在化させた結果だったのでしょうね。
 
2016/3/12(土) 午前 11:01
 
痴陶人さん:
篠田三郎吉田松陰はよかったですね。これもまた、シンクロニシテイですね。今こうやってやり取りさせて頂いているのも、同い年の二人の少年の個々の心の中に、偶然同じような心象風景が浮かんでいたからなのでしょう。その共通するところが何なのか、それを探ることが、今やっていることの意義のように思われます。

2016/3/12(土) 午後 0:51
そうですね。

東京と大阪、べつの都市で同じ時代をすごした少年たちの
心象風景や無意識的な願望が
これだけ共通しているのは非常に興味深いことです。

ふつう人が「興味深い」というと
対象は三人称であることが多いわけですが、
これは一人称の問題です。

私たちはいったいどのように育ってきたのか。……

「イリエ塾」へ行かれていたという痴陶人さんやナガレさん。
私は小学生のとき「四谷大塚」へ行っていました。

私の虐待被害を訴えるときに、
受けてきた教育圧力を語ると、
比較的にわかってもらいやすいのですが、
語っている私本人は、

「それは表層にすぎない。
 問題はもっと深部にある」

と思っていました。
 
いま私は、
教育圧力=虐待 ではないように思います。

ほんとうに喜んで、進学塾に通っていた同級生も
いたようだからです。

教育圧力を虐待たらしめるものは、
もっと深部で作用する何かだと考えています。

2016/3/12(土) 午後 1:35


ラスコーリニコフは、親に向うきべき殺意が他人に向かい、殺人を犯す人間の象徴であり、雛型であるような存在ですね。

ラスコーリニコフは、既に父親を欠いていて、父親を殺しようにも殺しようがない訳なのですが、それでも「罪と罰」は、父殺しの物語なのです。

カラマーゾフの兄弟」が父殺しの物語だというのは、フロイトに言われるまでもなく誰にでもわかることですが、何故「罪と罰」も父殺しの話なのか。

ラスコーリニコフが殺したのはアリョーナ・イワーノヴナ(金貸しの老婆)とその義妹のリザゥータであり、何故父殺しの物語か、それが「地下室の手記」と「罪と罰」を一つの作品として見た時に見えてきます。

地下室人には、ズヴェルコフ(野獣という意味があるらしいです)という同窓があり、ズヴェルコフは、広大な領地を持った貴族で、地下室人は、貧しい家庭に育っています。

ズヴェルコフは、領地の全ての娘に初夜権を行使し、全ての娘をものにしてやると豪語するような人物です。

地下室人の最初の英雄願望は、このズヴェルコフに決闘を申込みズヴェルコフを殺すという夢想に現れます。

ズヴェルコフが、村の娘に手を出し、年貢を搾り取っていたドストエフスキーの父親の投影であることは明らかですので、後は、ズヴェルコフが何故金貸しの老婆と同一視されるのかということになります。

それをお話しするのは、今は控えようと思います。いずれお話することになると思いますが、ドストエフスキーが父殺しの文学であることは、フロイトのお墨付きがあるのですから、「罪と罰」もしかりで今はよろしいかと。

それよりも問題は、ソーニャが何故近親姦を背負っているのかということの方です。 


2016/3/12(土) 午後 6:36
貧しい医師であったということですが、
彼自身の父―息子関係はどのようなものだったのでしょうね。
 
2016/3/14(月) 午前 11:35

それがアンリ・ トロワイヤの『ドストエフスキー伝』なんかを読んでもはっきりしないんですね。早くにして母親もなくしていますから、欠損家族の典型です。

恐らく三島同様、父性の扼殺を意図的にしているように思われます。

ただ宿痾の癲癇は、村人による父親の撲殺を聞いた時から始まっていますから、やはり筆舌に尽くしがたい何かがあったのでしょうね。

直接父親を語れない何かです。ドストエフスキーは、それを一生かかって作品にしたのだと思います。


2016/3/14(月) 午後 8:16
なるほど、私が「母」
一生かかって言葉にしようとしているようなものでしょうか。

ドストエフスキーは一度、死刑判決を受けるほど
「反体制」の人間だったころがあるでしょう。

反体制という立場を選択する人間にとって、
往々にして「体制」そのものが「父」だったりするでしょう。

全共闘世代の人々も、
いったい何割が「体制」そのものに「父」を投影していただろう
と私は思います。

このあたりのことは、以前、
それこそナガレさんと議論したことがあります。

虎の門事件のテロリスト、難波大助は
皇太子(のちの昭和天皇)を暗殺しようなどと
大それた反体制行動を起こすことによって
結局、衆議院議員だった父を自死に追いこみました。

あれは結局、父を殺したかっただけじゃないのか、
人騒がせな、と。

いっぽう、同じ反体制テロリストでも、
安重根は、ナガレさんによると
父との関係は良好だったと聞いたことがあります。

2016/3/14(月) 午後 8:51

はい、一生かかってやろうとする何か、これが本来文学であり、その部分の共感、賛同が私にはあります。

そうですか、私のリアル同級生とそんな話を。

尚更三人で盃を傾けないと。


2016/3/14(月) 午後 9:22
たまたま私がいま読んでいるフロイト関係の本に
ラスコーリニコフの名前の元になったと思われる
ラスコーリニキ(古儀式派)というのが出てきました。

読んでみると、これはようするに、
ロシア正教のなかで異端派みたいなものですかね。

罪と罰』が書かれるより100年くらい前に、
ロシア正教がロシアの国家宗教になっていく過程で、
それがいやで、
よく自分の農場を破壊して焼身自殺をしていった人々だということです。

そのような自傷的な宗教行動が、
スコープツィ(自己去勢派)やフリースツィ(自己鞭打苦行派)の成立に影響を与えたらしいとのこと。

つまり、ラスコーリニコフという名前じたい
かなり破壊・自傷志向の異端者を示唆していて、
私の言葉でいうと「反市民」ということになるのですね。

じっさい、そんな名前の若者がいたのか、
ちょっと首をかしげたくなります。

ポリフォニー」を考えるあまり、
ロシア人が読むと、
登場人物の名前の設定が、
あまりリアルでなかったのでしょうか。
……日本でいうと、大江健三郎みたいな設定の仕方をしているのでしょうかね。

2016/3/14(月) 午後 11:56

これまた面白いとこを突いてこられましたね。

江川卓によると、ラスコーリニコフは分離派で、金貸しの老婆を殺したと自首する塗装職人ミコールカが同郷で分離派ではなかったかと推測しています。

ソーニャとリザゥータは、鞭身派です。江川は、リザゥータのお腹がいつも膨れていたという表記から、彼女が教団の性の生け贄だったのではないかといっています。リザゥータは、ソーニャとはまた違った意味での娼婦性を負わされているわけです。

去勢派は、「白痴」のロゴージンです。ドストエフスキーは、究極の状況設定をさらりとやる人で、ナスターシャ・フィリッポヴナは幼い少女の頃からある男の囲われものとして過ごすわけですが、私は彼女を囲った男は、彼女を慰みものにしたのは確かですが、性器の挿入はしなかったと見ています。

それなのに黒い噂の犠牲になっている、ここにもマグダラのマリアがトレースされています。そして、男との手切れの宴で彼女に求愛するのが、ムイシュキンとロゴージンです。

実際去勢していたかどうかは別として、もししていたら、性器の挿入はできないでしょう。そしてムイシュキンは、不能であることが仄めかされています。なんと、ナスターシャを愛する男たちに一人として男はいなくなる。

ナスターシャがすぐヒステリーを起こし女王然としているのは、挿入なきフラストレーションであるかもしれません。

そしてナスターシャは、処女のままナイフを突き刺されて死んで行くのです。あくまでも私の解釈ですが。

もしかしたら、「白痴」は「罪と罰」よりもぼそっとさんの関心を惹くかもしれません。是非御一読を。

はい、ドストエフスキーの登場人物の名前は、いくつものポリフォニーで成り立ち、変な名前が多いのだそうです。ラスコーリニコフは、江川がロシアの電話帳を調べていなかったといってます。

因みにラスコーリニコフを日本名にすると、割崎英雄ということになるそうです。(頭を)割り裂く(=分離)英雄です。

大切なことを書き忘れました。ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、ファーストネーム、セカンドネーム、サードネームの頭文字が、ロシア語のΡ・Ρ・Ρ。これが逆さまから見ると6・6・6という悪魔の刻印を意味するというところから、アンチキリストを導き出して行くというのが、江川の謎ときの根幹です。


2016/3/15(火) 午前 6:53
 
去勢派にしても、鞭身派にしても、
宗教の持つ自傷性があまりにもわかりやすく
表象に出ているのですね。

フロイト流にいえばタナトスということになりますか。

私たちACの症状を見ていても、
すべての症状にこうした自傷性が見られます。

アルコール依存は肝臓を痛めつけ
ギャンブル依存は財布を痛めつける。

窃盗症は経歴を痛めつけ
強迫は時間を痛めつける。

逆に、こうした自傷性がないのであれば、
それはすでに症状ではなく
健康そのものということになりますね。

釈尊が、あれこれ苦行を重ねたあげく
「こんなことをしていたのでは悟りは開けない」
と、すべての自傷的な行為をやめたところで
原始仏教の悟りの境地にいたったということが、
ほかの宗教(主に一神教)から
原始仏教は宗教ではない」
と言わしめているのかな、とも思います。

……。
……。

ところで痴陶人さんに
私からのメールは無事届いていますか。
 
2016/3/16(月) 午後 1:36

私は村上春樹をあまり好きではないのですが、それでも初期のものは一応目を通しています。

そんな初期の作品の中で、作品名は失念しましたが、作品自体というより、前書きだっか後書きだったかに、
「誰とでも寝る女が好きだ」という記述があり、やられた~と思った記憶があります。

これは私の語感の問題かもしれませんが、誰とでも寝る女は、ぼそっとさんのabーuse同様、私の女性解釈の幅を広げてくれるのです。

誰とでも寝る女は、個人に向けると、公衆便所とかビッチとかさ○子とかポルノ的な言葉となり、フェミニストの怒りを買うこと必至ですが、それは、女なら誰とでもしたい男の逆説として(願望の投影)、いわば性における超人、スーパーウーマンとして存在することになります。そしてそれは女という性の可能性と能力をも指し示す。男の場合、ポテンシャルの上でもアビリティーの上でも誰とでも寝ることは不可能な訳ですから。

ドストエフスキー川端康成は、処女に娼婦を見、娼婦に処女を見る人ですが、誰とでも寝る女は、幼女(スヴィドリガイロフが自殺する前に見る夢の中に現れる)少女(「悪霊」のマトリョーシャやスヴィドリガイロフりに凌辱されたという少女)娼婦(ソーニャや「地下室の手記」のリーザ他数多の娼婦たち)、巫女(鞭身派の教団の性の生け贄)そして言外に親とでも寝る近親姦の女性も含むことができます。

そしてそれらの女性を誰とでも寝る女と一括りにすることで、男の罪がきっちりと反転して貼り付けておくことができるように思えるわけです。

こういう言葉がさらりと出てくるところが、やはりただ者ではないとは思うのですが、村上春樹のカーディガンの袖を胸元に結んで著者近影に映るあの風貌は、軽薄なテレビプロデューサーのような、あるいは、クールビズを気取った市役所の係長のような印象を抱かせ、どうしても好きになれない(笑)。

それと、文学をポップアートにしてしまった功績と功罪を私は村上には感じています。

読んではいませんが、「海辺のカフカ」も父殺しなんでしょ?だったら、
やはり彼も二大禁忌なんだよなあ。


2016/3/18(金) 午後 9:13 
私も村上春樹は、初期三部作から
「ハードボイルド・ワンダーランド」までしか読んでいません。

いまに到るまで、もっとも印象に残っているのが、
『遠い太鼓』という随筆集、紀行文です。

「文学をポップアートにしてしまった」
とはおっしゃるとおりで、
村上春樹に言わせれば、
それまでの日本の文学は
「文藝システム言語」で書かれているのに
すぎないものである、と。

だから、もっと普遍的な言語で書こうとして、
あの文体に行きついたのだというわけです。

しかし、「文藝システム言語」に慣れている者にとっては
それがポップアートに映りやすい。

おかげで、世界各国で翻訳されて大いに売れたのでしょう。
川端康成などと違って、主語述語がしっかりしているので、
翻訳者たちも困らなかっただろうと思います。

村上春樹の文体でAC問題を語ることは
おおいに可能だと思います。

村上春樹は、河合隼雄との交流が幸いして、
だいぶユングに通暁しているようですし、
また、たとえば音楽と文学の関係など
ユング心理学を実践的に創作活動に役立ててもいるようです。

しかし、村上春樹自身が、
西洋の作家が多くそうであるように、
私小説的な雰囲気をとことん排することを
「知的」だと思っているきらいがあり、
そういう傾向があるうちは、
彼は自分の成育歴のことを文学にすることはないでしょう。

村上春樹が、だれか他者に仮託して自分を描くことは
これまでもやってきたでしょうし、
これからもあるでしょうが、
それではしょせん限界があると思います。

私の「スパゲッティの惨劇」という
取るに足らない小文でさえ、
「私がよく知っている他人のエピソード」
として書き綴るならば、
何か決定的なものが欠け落ちるように思うのです。

結局、いつぞやの繰り返しになりますが、
私にとって文学とは高雅な教養ではなく
今日一日を生き延びるための握り飯である、
ということになります。

私の考える文学は、
息も絶えだえのAC人生を生きていくために必要なものであり、
もしそうした人生にさらなる負担をかけるものならば、
いかに上質な教養であっても
それは私が相手とする文学ではないことでしょう。
 
2016/3/20(日) 午後 7:16
 
 
英語にご堪能なぼそっとさんならではの視点ですね。

そういう文体の確立は、大江が最初でしょうね。三島が、ノーベル賞を諦めたのもここだと思っています。

次は大江だよと、大江がノーベル賞を取る20年以上前から三島は天性の傾向と対策で、予言していますからね。

私は、ノーベル賞を大江がとったことを誇らしく思っています。それは私の文学観とさほどずれないからです。

しかし、村上春樹ノーベル賞を取るというのはちょっと違う。

先に村上の文学をポップアートに喩えましたが、それをファッションやモードに喩えると、彼がノーベル賞を取り、世界に認められるというのは、UNIQLOが世界に認められるのに等しく思えるのです。

UNIQLOが世界に認められることも、それはそれなりに誇らしいことではあるのですが…。

あくまでぼそっとさんの握り飯のお裾分けに預かっている私の個人的な意見ですが。

『遠い太鼓』何かありそうですね。探してみます。

ちょっと教えて頂きたいのですが、ユングとは如何なる人なのでしょうか?私の感性から、どうもフロイトの亜流としか思えなかった彼が、「危険なメソッド」を見た後、案外私はフロイトよりもユングに近いと思っていたところに、近頃の度重なるぼそっとさんからのユング指摘で、俄に興味が湧いてきました。

フロイト派、ユング派といわれるまでに、何故ユングは単なるフロイトの弟子ではなく、心理学の二大巨頭と解されているのでしょう。

あまりにも初歩的な質問で申し訳ありません。


2016/3/21(月) 午後 8:20
今日のニュースで、
人工知能が書いた小説が新人賞の一次選考を通過した」
というのがありましたが、
囲碁や将棋の世界でコンピュータが人に勝つだけでなく、
今後、小説もコンピュータに書かれるようになっていくのでしょう。

しかし、このさきもコンピュータの書く小説というのは、
三島のように一つの語彙の選択に天才的なひらめきを感じさせるようなものではなく、どの言語にも訳しやすい、文法構造の明確な、痴陶人さんがおっしゃるところのユニクロ的な文体になっていくような気がします。

となれば、ある意味で村上春樹の延長が、
これからは文学の主流になっていってしまうのではないでしょうか。

大江も、たしかに新しい文体を作ろうとしました。
しかし、彼の場合、20世紀芸術によくあることながら、
実験精神が先走ってしまっている気がします。

そこへいくと村上春樹は、
既成の日本語ではないながらも、
日本語としても「こなれた」文章を書くと思います。

『遠い太鼓』は、
ようするに「メイキング・オブ・村上ヒット作品」ともいうべき「舞台裏日記」です。
資料的価値はありますが、作品ではありませんね。
あまりお勧めはしません。

ご希望に添えず申し訳ありませんが、
ユングは、私は人に語るほど知らないのです。
しいていえば、とらえどころがなくて、
ホンワカしている、といったことでしょうか。
フロイトがシャキッとしているのに対して。

たしか岸田秀ユングについて言ってましたね。
「○○本能、××本能、と説明に必要な数だけ本能を作っていったら、そりゃあ、なんとか理論にはなるだろうよ。でもねえ」
といったことを。
 
2016/3/21(月) 午後 9:16

このさきもコンピュータの書く小説というのは、三島のように一つの語彙の選択に天才的なひらめきを感じさせるようなものではなく、どの言語にも訳しやすい、文法構造の明確な、痴陶人さんがおっしゃるところのユニクロ的な文体になっていくような気がします。

私が言いたかったことをズバリと言葉にして下さってありがとう御座居ます。

そうなんです。ご存じかと思いますが、私は川柳をやっておりまして、主語述語を明確にしてゆくと、十七文字で何かを表現することは困難になります。

例えば尾崎放哉の「咳するも一人」を「ボクが咳するもそこには誰も居なかった」とやれば、台無しですよね。

高度な日本語というのは、主語述語を明確にしなくともその意を万人にわからしめる部分があります。いわば多国語の詩に近いのかもしれません。

私が村上をユニクロだというのは、色やパターンの言語構造を提示して、どこの国の人にもわかる日本語を作った功績に対してです。その日本語で何を語ったかという疑問が私にはあるわけです。

私には僕の好きな場所なんてどうでもいいのです(笑)。

日本語の進化と捉えられている村上語は、私には退化と映る。日本語をペーパーバックの翻訳にしているようにしか見えないのです。

ただ面白いのは、ぼそっとさんのご指摘で、彼がユングを下敷きにしているということを知ったことです。

言語を明確にした分、その精神性に曖昧を残したとすると、奴はなかなかの確信犯、日本語をよくわかった人なのでしょう。

私のユング解釈は、ぼそっとさんの解釈、フロイトはシャキッとしてて、ユングはぼやっとしてると、全く同じです。

多分フロイトの無意識の明確化という革新について行けなかったのではないかと思うのです。科学的根拠がないから、無意識を無意識のまま本能という名に止める。

そうすることで、彼の心理学は、神秘主義とも一脈通じることになる。私は神秘主義なら、神秘主義でもいいと思うのです。

例えば、先にぼそっとさんの挙げられたバタイユ。彼の所まで神秘主義が行けば、それはそれでシャキッとするのですが、ユングが何を言いたいのか、私にはわからない。

そうですか、ユング…悩ましい存在です。

2016/3/22(火) 午前 2:56
・・・「三島由紀夫を読み返す(13)」へつづく
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