VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(13)

三島由紀夫を読み返す(12)」からのつづき・・・

by 痴陶人×J.I.

J.I.:

結局、その人が何を言いたいか、ですよね。
内容が、文体の出馬を要請しますよ。

私が本プロジェクトで
「生の声」を発するサバイバーたちの言葉が尊いと思うのは、
けっしてその人たちの「言い方」や「文体」のためではないわけです。

りっぱな語彙を使っているからでもなく、
美しい文体でしゃべっているからでもないです。

たとえば「盗みが止まらなかった私」の主人公、
リュウさんという人は、まったくといってよいほど、
いわゆる教養としての文学なんて読んでこなかっただろうけど、
彼の口から紡ぎだされる言葉は、
とてつもなく価値があると私は思っています。

また、痴陶人さんのご同窓、ナガレさんの
なども同様です。
荒しぼりの価値ある「生の声」だと思います。

「言い方」や「文体」を気にすれば、
それだけ自分を鎧(よろ)うことになり、
それだけ自分がほんとうに言いたいことから
どんどん逸れていってしまうでしょう。

三島が良い例です。

三島の場合は、意図的に逸らせていったところに
人間解釈の要諦があるわけですけどもね。
 
では、「言い方」や「文体」など
とことん無視すればよいかというと、
そんなことをやっているうちに
「わぁ!」とか「ぎゃあ!」とか
あげくの果てにはいっさいの「文法」を無視して、
放たれる言葉はただの叫び声になるかもしれません。
 
まさしく「文法」を習得する以前の
乳児の泣き声です。

それはそれで価値ある声だと思いますし、
そうした声を発するときの表情や身体が、
ときには言葉以上のものを語る場合もありますが、
もういったん大人になってしまった者の心の
大部分が「言葉」でできている以上、
「言葉以前」の音声だけ発信しても、
伝わる内容には著しく限界があります。

どこかで「文法」が入るのを
認めていかなくてはなりません。
 
村上春樹の場合は、両親ともに国語科の教師で、
食卓の話題が枕草子方丈記だったために、
古き良き日本語と、親からの圧力が
同一視されてすりこまれてしまい、
物心ついてからの彼は、
とにかく英語のペーパーバック小説を「ガリガリと読んだ」のでしょう。

ガリガリと読んだ」というのは、村上春樹自身の表現で、
ようするにわからない単語が出てきても気にせず、
そのまま読み進めていくといった意味だと思います。

大人としての人格が形成される時期に、
そのような言語を習得した彼は、
大人になって何か言いたいとなったときに、
とうぜん自分が習得した
「ペーパーバック英語の日本語版」の文法にもとづいて
新たに彼の言葉を紡ぎだしていったことでしょう。

そういう村上春樹にとっては、
私や痴陶人さんが人格形成期に習得してきた日本語は、
新たに読み取り方を学習しなければならない
いっしゅの外国語であるわけです。

たとえば私のように、
親から漫画を読むことを禁じられてきた人間は、
漫画の文法が頭に入っていないために、
大人になって漫画を読むのにも
「勉強」しなければなりません。
それは、「漫画の読み方」というのが、
一つのコードであり、外国語に等しい何かであるからです。

「マンガばかり読んでないで、勉強しなさい」
と怒られた人々は、私にとって
寺内貫太郎一家」の父親ほどに虚構の存在です。

村上春樹が、痴陶人さんにとっての日本語を
「文藝システム言語」と名づけているのは、
それが彼にとって「日本語」ではない、「外国語」である、
という認識を物語っていると思います。

となると、逆に
村上春樹の日本語は、
私たちにとっての外国語のようになります。

大江健三郎村上春樹のちがいは、私が思うに、
大江健三郎でひねりだした言語で書いて、
それを「私の新しい日本語」と呼ぼうとしました。
 
そして、それは成功しました。
大江のノーベル賞授賞の理由にも
たしかそういうくだりがありましたからね。

いっぽう村上春樹は、
たしかに新しい日本語かもしれないけれど、
彼から出てくる言語は、
彼のから出されているものだ、ということだと思います。

どちらが良い悪いではなく。

では、そういうときに
からへは、どのように移行するのか。

これは結局、
「意識」からどれだけ「無意識」へ下りていくか
ということであって、
村上春樹はその術をよく知っていると思います。

だからこそ河合隼雄に接近し、
ますますユング的な術に磨きをかけ、
書くときに音楽などをかけて一種の自己催眠をかけ
意識的に無意識に下りていっているのでは、
と私は推測しております。

とはいえ、村上春樹の無意識への下降は、
きわめて浅いものであり、
私が治療に必要とするにははなはだ役不足です。

2016/3/22(火) 午後 5:04

痴陶人さん:
実は私は、文体というものがよくわかっていなかったのですね。文体って何だろう、若い頃からいつもそれを理解したいと思っていました。

ところが、文体を追い求めれば追い求めるほど、文体というものが何だかわからなくなる。

三島の「文章読本」は、文体論にかなりの紙数を費やしていますが、明確な提示は何もない。

森鴎外谷崎潤一郎は、文体を持ち、同時に名文家、バルザックは悪文家だが、文体を持った作家だ。志賀直哉川端康成は、名文家だが文体を有さないなどと述べるのですが、何のことやらよくわからない。

後年、坂口安吾の「堕落論」を読み返した際、安吾志賀直哉島崎藤村を批判する際に、文体と文章という違いで批判しているのに接し、三島の文体論がここから来ていることを確信しました。

結局三島のいう文体とは、文章表現における作家の肉体のようなものではないかと私なりに思い至ることになりました。作家に情報をインプットした際に、アウトプットされるその作家ならではの機構です。

今回のぼそっとさんの村上春樹の文体分析で、私には文体の本質が朧気なりに見えてきた気がします。

村上が国語教師を両親に持ち、ペーパーバックをガリガリ読み、ユングや音楽を巫女として無意識を自動速記のように紡ぎ出してゆくのが彼の文体と指摘されたことで、私はあることに気づきました。

現代の小説は、商品としての共通言語を必要とし、作家の文体というものが見えにくい時代なのかもしれませんが、そんな中、犯罪者の書く文章、秋葉原男や酒木薔薇や宮崎勉などの文章には強烈な文体があるということです。

ぼそっとさんは、文体ではないとおっしゃいますが、リュウさんやニャロさん、ナガレさんにも、その人にしかない文体(話体)があります。

この発見は非常に重要に思われます。何故なら同じACを土壌にすると考えられる精神疾患者と犯罪者と作家に文体があるというのは、AC解明の何かのヒントであると思われるからです。

もしかして文体(話体)とは、ACにとっての心の鋳型のようなものではないか。インプットされた情報をそのようにしか解釈できず、そのようにアウトプット(自動速記、口からつい出てしまう)何かです。

個性とも解せますが、それでは収まらない牢獄の鉄格子のようなもっと強烈な枷が文体なのではと思えてきたのです。

文体の構造把握から、その人の疾患の原因を探るということは十分可能なように思われます。


2016/3/23(水) 午前 7:08
たしかに三島のような人にとっては、
文体は、三島の言葉が着こなして外を歩く衣裳のようなものだったのでしょう。
彼においては、肉体そのものもボディビルで鍛え衣裳にしてしまいましたからね。

作家であってもなくても、痴陶人さんおっしゃるとおり、
皆、その人特有の発話、発語スタイル(話体、文体)がありますね。

防犯カメラが街のあちこちに設置されるようになった今日では、
何かあると、顔を隠している容疑者の場合は、
映っている人の「歩容(歩き方)」を分析して
犯人を割り出していくのだそうですが、
歩容でさえ十人十色であるならば、話体、文体もそうであって
なんら不思議はございません。

みな、心の奥底から、言葉にならない何かを
必死に言葉にしようとして繰り出すとき
もっとかっこいい話体や文体を、と心がけている余裕など
ないわけです。

逆にいえば、話体や文体を意識して
しゃべっている、書いている、となれば、
その人はまだ表面的な地表を…、
観光地、歓楽街、官庁街などほとんど真実を含まない地表を
優雅に滑走しているのでしょう。

地表から上を見上げれば、空があり、
その向こうには宇宙があります。

宇宙には、未知があふれています。
星雲、恒星、惑星、ブラックホール、……
それこそ「綺羅星の如く」たくさんの謎が、
広大な彼方から私たちの好奇心をいざないます。

しかし、私たちの足元には地球があり、
この内部も謎に包まれています。

何百光年離れた星へ探査機を飛ばすのがむずかしい一方では、
たかだか何百km掘り下げて、もぐっていくのもむずかしい。

それでも多くの人は空を見上げます。
天文学のほうが地質学よりも
夢とロマンがあるように思うのでしょう。

しかし、大震災の発生などをみればわかるように、
私たちの人生にもっと直接な影響を与えるのは、
私たち自身に地味に踏みつけられ、
その下に広がっている未知の領域、地球の内部なのです。

地球は、自己。

私はロケットを打ち上げ、宇宙空間に飛するよりも
自分の人生の基盤となっている地表を
地味に掘っていくことを選んでいます。

そうしないと今の生活がままならないからです。

けれど、これはこれでなかなか大変です。
地下へ至れば至るほど、圧力も高くなってきて、温度も上がってくる。

地表を優雅に滑走しているときに使っている
文体、話体という乗り物の多くは
地下の深さが大きくなるにつれて使い物にならなくなってくる。

そうした高圧高温の環境で、
最終的にどんな文体、話体が残るか。

……それは、人それぞれであることでしょう。


文体の構造把握から、その人の疾患の原因を探るということは十分可能なように思われます。

まさにそれこそがフロイトがやったことでしょうね。

2016/3/23(水) 午後 12:04

ぼそっとさんが考古学者のように、自分という地層の記憶に沈潜し、意識、無意識を含め、そこから真実を発掘されようとしていることは、そしてその書為に干からびた雑巾から一雫の水滴を搾り取ろうとされていることは、ぼそっとさんが日々書かれているものを読んでいて、よく伝わって参ります。

一方で、今回比喩にされた

〉地表から上を見上げれば、空があり、
その向こうには宇宙があります。
(中略)
〉しかし、私たちの足元には地球があり、
この内部も謎に包まれています。

この地上と地中に人物を住まわせ方や地下室人として、方や天翔ける神(英雄)として、描こうとしたのが「地下室の手記」と「罪と罰」二作に渡るドストエフスキーの試みであり、そういう世界の把握は、私にはドストエフスキー的に映るわけです。

それはともかく、紅孔雀さんところで何度か話題に上がったことのある沢木耕太郎というノンフィクション作家の話です。

彼が初めて書いた「血の味」というフィクション(小説)は読まれましたか。あるいは、その後に書かれた「無名」というエッセーを。

この二作も小説とエッセーではありますが、二つで一つの作品といっても過言ではないのですが、沢木は15年前に書いて、9割りを書き上げていたこの「血の味」を父が死んだことで、自分が何を書きたかったかを突然理解し、一気に書き上げることが可能になったといっています。

沢木は、カシアス内藤という二流ボクサーとの度重なる交流で、「一瞬の夏」他私ノンフィクションという方法論を確立しますが、こと父親との関係では、ノンフィクション作家であるにも関わらず、フィクションという方法論で描こうとします。

これは自己の内面をノンフィクションの手法で描くフィクションとも解せますが、ぼそっとさん流にいうなら、所詮フィクションとは、他者に仮託した自己ですから、虚実の実ではなく、虚の側への着地で、ぼそっとさんとは真逆の方法論ということになるのでしょう。

つまり、沢木耕太郎ですら、父親との関係を書くことは、フィクションでしか叶えられなかったということなのでしょう。

「血の味」は、不思議な父殺しの話です。憎しみのない父殺しです。

憎しみのない潜在意識下の父殺し願望ということになると、また、そのきっかけが、女装した元プロボクサーということになると、何やらオイディプスの匂いがしてきますが、ここではいいでしょう。

沢木は、
『私の分身である少年はどうしても父親を刺さなくてはならなかった。なぜなら、健気な少年であった私は、小説の少年を通してただの一度もしたことのない反抗をしようとしていたからだ。私は健気な少年であることを永く引き受けてきた。(略)畏怖する父親は同時に自分が守らなくてはならない父親でもあった。私は、その絶対的な矛盾の中にあった少年時代の私を救出しなくてはならなかったのだ。』

こう述べます。

健気な少年であった自己の救出は、ぼそっとさんにもあるのではないでしょうか。

加藤典洋は、「無名」の解説「ノンフィクションと反抗の不可能性」で、
「関係の原的負荷」という概念を思い付きます。

『親が子どものために何かをするというのは本能で、もともとは無償のものである。しかし、近年はだんだん親の本能も子供としての野生も弱ってきているところから、それが子どもからすると、愛情として、有償のものとして、受けとめられるようになる。すると、親子というどんな人間にとっても原的であるはずの関係が、子どもにとっては、初原的な負荷になる。(中略)すると、親と子の関係には、かつては親が子どもを理不尽に抑圧する、これに対して子どもは反抗する、という近代的な範型があったのに対し、いまは、親が子どものことを心配している、子どもがこれをひしひしと感じ、それが逆に負荷となって子を縛る、というこれとちょうど逆の脱近代の範型が現れるようになってきたことが見えてくる。この親からの原的な負荷、負い目は、そもそも弁済不可能である。そのうえ、いったん内在化されると、自分から切り離せない。子どもがこれをナシにしようと思えば、自分を消すか、親を殺すしかなくなる。親と子の関係が原的な負荷を帯びるようになるとどうなるか。 

近代的な親への反抗は姿をひそめる。その代わり、反抗を不可能にする親への負い目が、他に表現の出口のないため、子どもの自分殺しの一方法としての、親殺しとなって噴出してくる…。』

現代の親殺しする子どもの犯行は、この要素が強いと私は思います。反抗できないいい子の遅すぎる最初の不幸な反抗が存続殺人として現れるということです。

報道などで親を殺している子どもは、定職に就かないことを詰られたとか、たわいもないことが原因になっていることが多いですが、こういう親子関係には、職に就きたいと思っている子と、職に就いて欲しいと思う親が共依存しているのでしょう。こういう関係の親子にとって、言葉一つで関係は清算されてしまう。

ここにも承認欲求の不充足が起因しているように思われます。 


2016/3/24(木) 午前 6:55
私は沢木耕太郎『血の色』『無名』ともに読んでいませんが、
彼は彼なりに、きわめて初期のころからつねに
「いかにして真実を描くか」
という方法論の模索をしているように思います。

この模索ゆえに、ノンフィクションなる分野を突き詰めて
その結果としてフィクションに到ったのではないでしょうか。

そこに、私はドキュメンタリー映像を突き詰めて
またの日の知華』という劇映画へと到る原一男
似たような軌跡を読み取ります。

私に言わせると、
そもそも「ノンフィクション」というジャンル名は怪しいのです。

およそ事実や真実は、
言語に変換された時点ですべてフィクション(虚構)であるはずです。

しかし、それでは
「すべてが嘘である」
と短絡的に片づける輩が出てきて、
真実が言語を媒体として他者へ発信できなくなってしまうから、
苦し紛れに「ノンフィクション」という分野がひねり出されたのでしょう。
 
ノンフィクション(non-fiction)という語は、
けっして和製英語ではありませんが、
まるで「ヘアヌード」と同じくらい
和製英語によくある粗製性を私は感じます。

とすると、沢木耕太郎が父親との関係を描くのに、
『一瞬の夏』などで用いてきた愚直なまで(に見せかけた)のノンフィクションという方法論を捨てて、
フィクションを選んだ、ということに、
果たして本質的にどれほどの意味があるのか、
と首をかしげたくもなります。

沢木耕太郎がノンフィクションではなくフィクションを書いた!」
といえば、
少しはよけいに本が売れるのでは、
と狙ったのかも、とも。
 
ついでに言ってしまうと、
さきほど「愚直なまでに(に見せかけた)」
と不穏な字句をカッコでくくらせていただきましたが、
私は『一瞬の夏』ですら、初めて読んだ時から、
「愚直なまでのノンフィクション手法に見せかけたフィクション」
の臭いを感じていました。

ご存じのとおり、私は蔵書を持たないので、
内容はうろ憶えなのですが、
『一瞬の夏』の初めの方に
沢木自身と思われる「私」が
ある飲み屋の親父さんが有名スポーツ選手の引退した姿である
と勘違いをして「誤報」してしまった、
と悔やんでいるようなシーンがあったと思います。

私は、ズバリ、あれは作り話だと思います。

真実は、おそらく彼は意図的な「誤報」をしたのでしょう。
つまり、「有名スポーツ選手が引退して飲み屋をやっているところに出くわした」という記事内容がすでに彼の意識的な作話だったのではないでしょうか。

したがって、「誤報」したことへの悔恨も作り物でしょう。
そうした悔恨に類する感情はあったかもしれませんが、
あそこに描かれていたような感情ではなかったと思います。

では、なぜ彼があのようなシーンを冒頭に描いたかというと、
そのような作り話が、
あの作品の導入部には効果的だからです。

沢木耕太郎は、いっぽうでは
そのような作為をする自分に罪悪感も抱えていて、
それゆえに潔癖症的に
「事実とは何か」
を徹底的に追い詰めていく(ように見せかける)のでしょう。

『キャパの十字架』などは、
まさにロバート・キャパに自己の鏡像を写し見て、
執拗に真実をあばきだそうとしているように
私には見えます。

潔癖症の患者がもともと罪悪感中毒と深い親和性がある、
というフロイト的な解釈もここで役立つかもしれません。

ほんらい事実は書き得ないもの。
書き得るのは、しょせん
事実にもとづいたフィクション。

そういった前提は、もちろん
私が本ブログに懲りずに連綿とつづっている
たわいない患者社会の権力闘争や
自身の幼少期を描いた拙文にもあてはまります。

なのに、それでも、少しでも事実に近づける姿勢で
言葉を紡ぎだしていくのは、なぜか。

私の場合、その答えは
「治るため」
ということになります。

知識や教養の迷宮に入りこんで、
かえって「治る」ことから遠ざかるようならば、
いまの私は迷うことなく知識や教養をしりぞけます。

そのうえで言えば、痴陶人さんのおっしゃる、
「健気な少年であった自己の救出」
とは、まさしくそのとおりです。

私たちの治療共同体の言葉でいえば、
という、ちょっと気色わるいカタカナ英語になります。

私たちの治療共同体は、
ちょうど戦後まもないころの
進駐軍のものなら何でもありがたがった日本人のように、
どんな当たり前のことでも
カタカナでつづった偽物の英語やフランス語にすると
たちまちありがたがって神棚にお供えして拝む風潮があるものですから。

引用していただいた加藤典洋の解釈は、
私自身をふくむ、われわれの世代に多くあてはまると思います。

とくに
「親からの原的な負荷、負い目は、そもそも弁済不可能である。そのうえ、いったん内在化されると、自分から切り離せない。子どもがこれをナシにしようと思えば、自分を消すか、親を殺すしかなくなる。」
といった一節など、痛切に突き刺さってきますね。

2016/3/24(木) 午後 15:45




・・・「三島由紀夫を読み返す(14)」へつづく
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