VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(14)

三島由紀夫を読み返す(13)」からのつづき・・・

by 痴陶人 × J.I.
 
痴陶人さん:
ナガレさんとメールでいろいろやり取りをしました。受け持たれた学年は違いますが、担任が二人も被っていました。

どうやら私とナガレさんは、あの高校で、同じ地を這う動物として、住み分けていたみたいです(笑) 

だから、まだ突き詰めてはいませんが、どうも共通の友人はいないようなのです。

そんな中で、ナガレさんが、ある人物の名を出されました。その人物は、ある運動部の主将か副主将で、現役である優秀な大学に入学し、現在我々の母校の国語教師になったというのです。

名前を覚えていましたので、私は彼と3年の時同じクラスだったとメールを送りますと、ナガレさんは、俺が3年の時同級生だから、痴陶人は、1年か2年の時だろうと言われました。そして、私は彼との記憶を必死で探るのですが、ある一点を除いて、ほとんどといっていいほど記憶がないのです。

この一点というのは、彼本人というのではなく、彼が書いた文章のことです。

我々が3年生の時、おそらく、旺文社だろうと思いますが、まあ高校生作文コンクールみたいなものがあり、彼はそのコンクールで、一等賞の何とか大臣賞を受賞したのです。

勿論、学校でも褒め称えられ、学校新聞か何かに、全文が掲載され、私もそれを読み、彼の名を記憶に留めたわけです。

仮にその作文のタイトルを「父の背中」とでもしておきましょう。作文の内容は、一言でいうなら、学歴もない大工の父親が、何不自由なく育ててくれ、こうして学校にも行かせてくれた。その父の大きな背中を尊敬し、感謝するといったものです。

私はこの作文を読んで、ある女の子とその作文の話をした記憶から、てっきり3年の時の同級生と思い込んでいましたが、ナガレさんの指摘で違うことがわかりました。

私は彼と何年の時に同級生だったのか、いろいろ思い出そうとするのですが、思い出すのは、毎夜両親が喧嘩し、夜中トイレに行くには、喧嘩の真っ最中であるリビングを通らねばならず、それを避けるために、2階から雨樋伝いに降りてトイレに行こうとして転落死した奴や、入学間もなく、退学した進学校には珍しい髪を染めた女の子とかそういう連中のことばかり思い出して、彼の思い出が出てこないのです。

まあ、これは、私が若い頃から書かれた文章に興味があるとか、夭折者や去り行く人に対する興味があるだけかもしれませんが、ナガレさんと、共通の知人を探していて、よりによって真っ先に彼が出てきたというのが、何か非常に不思議な気がするわけです。

何故なら、ナガレさんとの奇妙な出会いなのか再会なのかをすることになったこのブログで私とぼそっとさんが、あるいは、ぼそっとさんとナガレさんが今やっていることと、「父の背中」の作品内容が、私にはくっきりとしたアイロニーに彩られた形で思い出されたかやです。

「父の背中」に書かれた父子関係は、前回お話しした「親子関係の原的負荷」の一形態ではあります。学歴はないが、寡黙に大工という仕事をして、自分を大学にやってくれる父親に対する尊敬と感謝の念が語られています。

やはり前回お話しした沢木耕太郎の「無名」は、「父の背中」の作者である私とナガレさんの同級生の描く父親像とかなり均質です。

ただ、時を経て、彼が父親に無意識の殺意を抱くようになったとは決して私には思えないわけです。

例えば、私が今ぼそっとさんとお話しているのは、原的負荷を健全な尊敬と感謝の発露という形では表現できない父殺しや無差別殺人に走るような人間の心のあり方ですし、ナガレさんがぼそっとさんに語っているのも、まだ連載途中でどういう方向へいくのか私には推測できませんが、「父から逃れられない私」というタイトルからも、決して尊敬と感謝で終わるようには思えないのです。

結局、彼の取り巻きにいたドラえもんスネ夫のような風貌の別の同級生を思い出すことで、私と彼とは、1年の時の同級生だということを思い出すのですが、何故彼に対する記憶が曖昧だったかのもわかりました。

それは、良識派で正義感も強かったように思う彼が、私にはあまり面白味のない級友だったことに尽きると思います。少なくとも彼は、父を殺すような奴ではないことが確かです(笑)

彼の名誉のために申し述べるなら、彼が母校の国語教師になっていることは、私やナガレさんがなっているより、母校の後輩たちにとってはなんて幸福なことでしょう。
ただ社会に出ても、依然地を這うように生きている私やナガレさんは、父親との関係においてさえも、表街道を歩く彼とは、こんなにも正反対の存在として位置付けられてしまう皮肉に、却って私はナガレさんとの奇妙なシンクロニイシテイを覚えてしまうのです。

そしてこれは、ぼそっとさんとの関係にもいえます。


2016/3/28(月) 午後 3:32
三島がやっていたボディビルはもちろん、
私たちの世代の体力づくりでも、
よく「適切な負荷をかけなさい」ということが言われます。

負荷をかけることは、
ほんらい力を育てるために必要であるようですね。

しかし、負荷を加え方をまちがえると、
力を育てるどころか、
かえって筋肉組織をめちゃくちゃにしてしまいます。

星飛雄馬を見て育ったわれわれ世代は、
腿の筋肉を鍛えるために、
よく「うさぎ跳び」などやらされましたが、
あれほど膝に悪い運動はないと
大人になってから知らされました。

うさぎ跳びは、つらいだけで、
体力の増強には役立たなかったのです。

痴陶人さんもナガレさんも私も、
そういう負荷のかけられ方をしたのではないでしょうか。

負荷をかける目的が見失われ、
負荷をかけるという手段だけが自己目的化していったのでは。

少なくとも、私自身の場合はそうです。

私の場合は、
したくてしたくて、やれずじまいになりそうな行為は
「父殺し」ではなく、「母殴り」なのですが。

私の母は、殺してしまうと
喜んで、ペロリと舌を出して死にそうなので、
なんとしても生きながらえさせて、
それでいて生の苦しみに直面してほしい。
それでもこちらの怒りをしかと感じさせたい。
だから「母殴り」なのです。

痴陶人さんが引用してくれた
加藤典洋のいう「原的負荷」という概念には、
すでに「まちがった筋トレ」の要素が
含まれているのか、どうなのでしょう?

痴陶人さんやナガレさんのご同窓で、
いま国語教師になっておられる方に相当するような人が、
私の高校にもいました。

だから、なんとなくその国語教師さんという方が、
どういう方なのかは、
痴陶人さんの描写によって
私のなかで像を結んでいます。
 
加藤典洋によれば、
国語教師さんの父は、はたして国語教師さんに
「原的負荷」をかけたことになるのでしょうか。

また、「弁済」を求めたのでしょうか。
 
2016/3/29(火) 午前 0:17

痴陶人さん:
「親子関係の原的負荷」とは、以前ぼそっとさんが言われた

〉孝……子から親への愛
 慈……親から子への愛
 「孝慈」

セットであるべきの概念の慈の欠落に他ならないと思います。

特に、沢木耕太郎も含めた戦後に親に養育された世代には、この原的負荷が大きい。

何故なら戦前戦中派の我々の親の世代は、戦争のどさくさで、親にも子供にも、親らしいことをしてやった、親らしいことをしてもらった意識が希薄で、原的負荷としての孝の実践の強迫から距離を置けているからです。

それぞれの家庭に貧富の格差は多少あるものの、戦後日々の食がなんとか満たされた後、マズローの段階欲求ではありませんが、日本人は次々に自らの欲求を満たしていきます。

嗜好品(ビールやケーキ)趣味(釣りやゴルフ)電化製品(カラーテレビやマイカー)教育(ピアノや英会話)それらは親自らの欲求充足でもあるのですが、彼らは食べるものがあるだけで幸せと思えという自分の実体験を聞かせながら子にケーキを与える恩着せをやっていたように思うのです。高度経済成長で、物質的な繁栄をすればするほど、子供の原的負荷も肥大すると私は思います

私はダウンタウンの松本が作詞した「チキンライス」という歌が涙なくては聞けません。

 親孝行って何?って考える
 でもそれを考えようとすることがもう
 親孝行なのかもしれない

 子供の頃たまに家族で外食
 いつも頼んでいたのが
 チキンライス

 豪華なものを頼めば
 二度とつれてきてはもらえないような気がして

 親に気を使ってたあんな気持ち
 今の子供に理解できるのかな?

 今日はクリスマス
 街はにぎやかお祭り騒ぎ

 七面鳥はやっぱ照れる
 俺はまだまだチキンライスでいいや


ぼそっとさんの「スパゲッティの惨劇」とは、全く逆の話で、その比較はやはりぼそっとさんが虐待されていた査証にもなりますが、この歌には、原的負荷が巧みに表現されています。

沢木耕太郎のいう健気な少年の救出ですね。

松本といえば、私たちの一コ下です。やはり才能豊かな人なのでしょう。同世代の時代感覚を巧みに言葉にできる人です。


2016/3/29(火) 午前 7:53
なるほど、「親子関係の原的負荷」は
「慈」のない孝慈、
「孝」の強要、
と考えるとわかりやすいですね。

痴陶人さんやナガレさんが話題にしている
ご同窓の国語教師さんは
彼の父から「孝」を強要されたのでしょうか。

私が思うに、おそらく強要はされていないから、
健全な「孝」を自発的にささげるようになり、
『父の背中』などという文部省選定型の作文を書いて
文部大臣賞までもらったのではないでしょうか。

私は日々、強要されましたね、
拷問や脅迫とともに。

ふつうに接していれば、
いっしょにいる人間のあいだには情愛が湧きます。
それはたとえ親子であっても同じだと思います。

だから孝慈というのは、ある程度まで
ほんらい人工的に徳目とするようなことではなくて、
人として、ほうっておけば自然にいだく
感情ではないか、と思うのです。

人は誰でも、
タブラ・ラサ(精神的白紙)の状態で生まれてくるわけであって、
生まれながらにしてひねくれている人などいないでしょう。

この私すら
きっと生まれたときには素直で、
母に愛情を感じる素地をじゅうぶんに持って
生まれてきたのだと思います。

ところが、いろいろひどいことをされるものだから
怒りを抱えるようになった。
しかし、その怒りが発露できない数々の舞台装置があるものだから
怒りは地底深くにもぐり、化石となっていった。……

「食べるものがあるだけで幸せと思え
 という自分の実体験を聞かせながら
 子にケーキを与える恩着せをやっていた」

とは、まさにおっしゃるとおりで、
もしかしら、それは私たちのように、
戦前に生まれた親に育てられた世代に
特徴的なものかもしれませんね。

私の親は、それぞれ個人的には
両親ともに戦前戦後を通じて、
それほどの飢餓は体験しなかったはずなのですが、
やはり吸ってきた時代の空気はそういうものだったのでしょう。

では、フォアグラを取るアヒルのように
食べ物を強制的にたっぷり喰わされて育った私が
もし親になっていたら、どのような親になるか。……

「自分は虐待されてきたのに、こいつらはされていない」
などという、あらぬ妬みを持って、
加害としての「恩着せ」を子どもにおこなっているのではないか、
と私個人は思うのです。

虐待の連鎖、というやつですね。

虐待の連鎖は必ずしも起こるわけではありません。

本ブログにご寄稿いただいた
なんであんたはこうなのよ」シリーズのオーさんなどは、
「虐待の連鎖をしない」ということが
人生の重要な課題であり、
みごとそれをやってのけた、すごい方の例だと思います。

メンタル取材を考える」のアヤさんも、そうですね。

しかし、皆が皆、オーさんやアヤさんのようにできるわけではない。

とくに私の場合は人間ができていないので、
きっと連鎖をやってしまう。
そういうことが無意識的にわかっているからこそ
私は子どもを持たない人生を選択したのだと思います。

いっぽうでは、
ダウンタウン松本の「チキンライス」と私の体験にも、
たしかに連続するものがあります。

松本は、
「もっと高いものなど頼んだら、なんだか親に悪いなあ」
という、ささやかな自発的断念、
いわば穏やかな「自粛」。

私の場合、その断念は、
きわめて初期の段階から
意識よりももっと深いところに強烈なかたちで内在化されていて、
「高いものを頼む」
という選択肢がはじめから存在しないように
育てられてきました。

だから、いまだに
苦労してまで金持ちになりたいという気にならず、
金があれば幸福になれるとも思えず、
こんな暮らしをしているのでしょう。
 
2016/3/29(火) 午後 12:03

加藤典洋が原的負荷を「弁済不能」と述べたことは慧眼だと思います。私は弁済不能と同時に、それでも永遠に弁済し続けねばならないのが、原的負荷のように思えます。ある意味それは原罪のようでもありますね。

そして原的負荷は、親にとってのいわゆるいい子であることの言い換えかもしれません。

いい子というのは親のいいなり、思うなりということで、ぼそっとさんのいつも言われる主体の剥奪は、虐待がなくとも親が子をマインドコントロールすることで可能となります。

私がコラボの際、最初に申し上げた虐待のあるなしに関わらず、人がACになる可能性というのは、この部分です。

今日本を騒然とさせている埼玉女子中学生誘拐監禁事件で出てきた「学習性無気力」、私はこの言葉を初めて知りましたが、この事件で私が思ったのは、犯人の男が恐らく自らの性的ユートピアの実現に、少女を誘拐監禁したのでしょうが、もしかしたら家庭というものは、大なり小なり、親が子供をいい子として、学習的無気力に貶める親の子に対する合法的監禁なのではないかと思いました。勿論私のいうのは、象徴的な意味合いですが。

人はそうそういい子でばかりはいられません。いい子というのは、家庭に監禁された親にとってのいい子という意味で、親さえいなければ、どんなに厳格な家庭に育った子女でも盗み食いや自涜くらいはします。

ただ、原的負荷のいい子のマインドコントロールの怖いところは、その盗み食いや自涜が、罪の意識として跳ね返ってくることだと思います。

この悪循環をどう断ち切るか、ここが問題ですが、虐待を受けている児童のみならず、いい子は、これを断ち切れないのです。

何故なら、いい子は、監禁によって、虐待とはまた別の形で、主体を骨抜ききにされているからです。

学習的無気力です。

ご質問に答えていませんでしたね。

私とナガレさんの同窓が、原的負荷を親に掛けられていたかどうかという問題ですが、原的負荷とは、別に同窓や沢木耕太郎に限らず、かけられずとも自分からかかる、いい子にとっての魔法か呪詛のようなものだと私は思っています。


2016/3/29(火) 午後 9:40
痴陶人さんのお話が、
非常に重要な核心に迫ってきたのを感じます。
地表を掘っていったとしたら、
めざす鉱脈が出てきたあたりでしょうか。

ほんらいは、
私が書き言葉をつむぎだす能力が追いつかないので、
カメラの前の対談で
このあたりのことをお話ししたいものですが、
まあ、それはいずれの機会を楽しみにすることとして、
とりあえず今は、もう少し痴陶人さんのお考えを
お聞かせください。

> いい子というのは親のいいなり、思うなりということで、ぼそっとさんのいつも言われる主体の剥奪は、虐待がなくとも親が子をマインドコントロールすることで可能となります。

なるほど。

すると、そのマインドコントロール自体が、
子どもの存在を乱用する
「ab+use」としての虐待、ということはありませんか。

また、子どもを学習性無気力にする行為じたいが、
広義の虐待とは考えられませんか。

さらに、痴陶人さんのお考えでは、
人が育っていくときにACになっていくか、いかないか、の境目は、
そのマインドコントロールのありなしということになるでしょうか。

そのマインドコントロールや、
子どもを学習性無気力症にする行為がどういうものか、
ACでない一般の方々にもわかるように、
われわれが言葉にしていけたらいいな、
などと私は思っているわけです。

「魔法」や「呪詛」を言葉にするのは、
たいへんな作業ではあることでしょうけれども。

2016/3/30(水) 午前 2:10


そうですね、私がまだ虐待とabuseを分けて発語している証ですね。ただ、ここが原的負荷の厄介なところです。

前回ぼそっとさんが私とナガレさんの同級生の原的負荷を、親から強要されたかどうかの私への質問の際に

私が思うに、おそらく強要はされていないから健全な「」を自発的にささげるようになり

と仰言いましたが、この「自発的」という部分が非常に大事です。虐待児童は、命令、強要があるから孝を実現しなければならないと思うのかもしれませんが、私のいう「いい子」は「自発的」に親の望む「孝」を先取りして実践しようとするわけです。

そして私自身が私と両親の間で起こったことをまだ、abuseと思いたくないから別次元の現象と捉えてしまうのでしょう。

しかし虐待児が虐待を愛と思いたい心理機構と、私(=親に対するいい子)のabuseと思いたくない心理機構は恐らく同じなのです。

この、ぼそっとさんが広げられた、いわゆる虐待とabuseの差を、子に現れる現象として今度は縮める必要を今感じています。それがぼそっとさんと私のコラボの意味だと思います。


2016/3/30(水) 午後 9:28
もうお気づきだと思いますが、
痴陶人さんの考えに触発されて、
本日2つめの記事(*3)を出させていただきました。


言われてみれば、そうなのです。

過去の私自身をふくめ、
家庭内虐待を受けていた子どもは
身体的には拘束されていないけれど、
精神的に監禁されていたのに等しいのですね。

今回の少女監禁事件も、
まだ取り調べが進んでみないとわからない部分も大きいものの、
加害者が「殴ったり蹴ったり」という虐待をした結果というよりも、
ここから外に出ても、お前を待っている人などいない」
という言葉を少女の耳に流し込み、
いわば、
「ここから外に出ても、お前は存在承認されていない」
という洗脳、精神的虐待の結果のようですね。

「虐待とabuseの差を……」
とおっしゃる痴陶人さんの問題意識は、
おそらく多くの児童虐待の専門家の頭を
悩ませてきたことだと思います。

それゆえに彼らは
「精神的虐待」
「情緒的近親姦
といった言葉をかつて日本社会に送り出しました。

でも、まだそれらが人口に膾炙していないもどかしさを
私などは感じますし、
一部の専門家、たとえば塞翁先生などは
もはや情緒的近親姦とは言わなくなるなど、
後退や撤退をしている様子さえ見受けられるのです。

これは、私のようなACにとって
ゆゆしき事態と言わなくてはなりません。

虐待児が虐待を愛と思いたい心理機構と、
私(=親に対するいい子)のabuseと思いたくない心理機構は
恐らく同じなのです。

おっしゃるとおりですね。

およそ人間の赤ちゃんというものは、
生まれてきたときはみんな
外から為される行為は
すべて愛だと思うように
できているのではないかと思います。

何かされることは、すべて愛にもとづくものだ、
と受け取るように、できているのだと思います。

やがて、大きくなるにつれて、一つ一つ、
「どうやら、こういう場合はそうではないらしい」
と、悪意の存在を考えるようになっていくのではないでしょうか。

そして、その学習は、
私たちの年代になっても、まだ中途で進行中なのだと思います。

とにかく、国語教師さんの親と、痴陶人さんの親では、
「いい子であれ」
と送られてくるメッセージの内容の詳細か、
またはメッセージの送り方の様態が、
どこかで違ったのではないでしょうか。

逆に、痴陶人さん・ナガレさん・私の親のそれらには、
どこか共通点があったのでしょう。

そういうことを
言葉にしていきたいですね。

2016/3/30(水) 午後 10:16

今読んでビックリしたのですが、私が次に書こうとしていたのは、尾木ママの話でした。

またもやシンクロニイシテイなのか、紅孔雀さんところでもいつも感じた、似た者同士の発想なのか。

一つだけ言えるのは、以前お話ししたドストエフスキーの「白痴」でのナスターシャ・フィリッポブナの少女時代の囲い者としての生活は、今回の事件に似ています。

あの少女は、この後の人生で、汚れを背負って生きていかざるを得ませんが、もしかしたら、万人が考えるような、つまりコイタスはなかったと私は推測しています。

いつも酔って書いてますが、今日はもうこれ以上書けません。

明日以降にまたコメントします。


2016/3/30(水) 午後 10:50
生徒や学生を何百何千と教え、教育本を数百冊出している教育評論家の尾木ママは「しくじり先生」というテレビバラエティーの中で、自分の子供の教育のしくじりを語りました。

彼は長女次女に対するそれぞれの失敗談をしましたが、私が印象に残ったのは、長女の失敗談の方です。

長女はいわゆる優等生、私のいう「いい子」で、幼い頃から間食を一切しない子だったらしいのです。

尾木ママは、教育者ですから、虫歯予防や栄養学の見地からでしょう、○○ちゃん偉いねえ~とそれを褒め続けたのだといいます。

彼女は、大好きなお父さんに誉められて、嬉しかったからでしょう、友達の家に行って、お菓子を出されても、一切手をつけなかったそうです。友達の家でも、さすが尾木ママの娘○○ちゃん偉いと、それが習い性となる。

ところが、大学生になり、何かあったのでしょう、自室に引き篭もることがあり、心配した尾木ママが無理矢理長女の部屋に押し入ると、部屋には無数の食べ散らかした菓子と菓子袋が散乱し、長女は、菓子をむさぼり食っていたのだといいます。

尾木ママが、驚いて長女から、話を聞くと、幼い頃から皆が間食する菓子が食べたくて食べたくて仕方がなく、大学生になって、菓子を過食するようになったと泣いて打ち明けたのだとか。

ここにあるのは、本日アップされた当ブログの「積もってゆくお菓子のゴミ」のニャロさんとは、真逆の過食です。

方や虐待に合い、その何らかの精神的穴埋めに過食に走り、方やぼそっとさんがいうように、虐待児童にも理解のあるらしき、教育者の父親の尾木ママの元で育ちながら、両者に全く同じ症状が現れるということが、私の興味を惹くわけです。

つまり、虐待児童といい子が同じ症状に陥る原因は何かということです。

ここが、ぼそっとさんと私のコラボの意味だとそれを言おうとしていたら、ぼそっとさんが尾木ママを出して来られてビックリしたというわけです。


2016/3/31(木) 午後 5:55
 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(15)」へつづく
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