VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(15)

三島由紀夫を読み返す(14)」からのつづき・・・

by J.I. × 痴陶人
 
 
J.I.:

「たとえばコイタス(性器の挿入)を含む虐待をしたから、
たとえば重度の解離という後遺症に悩むようになった」

というように、
特定の「病因」と「症状」を1対1対応で考えることを、
精神医学ではフロイト以来「特異的反応」というようですが、
精神医学者たちが考えているほど、
反応は特異的でない、つまり1対1対応ではないのでは、
と私は考えております。

痴陶人さんがおっしゃるとおり、
尾木ママの長女とニャロさんは、
「病因」は異なって「症状」がほぼ同じに聞こえますね。

ニャロさんも
父親はそれなりに地域で尊敬されている厳格な人で、
しかもニャロさんは長女ですから、
家族背景に似た要素はありますが、
しかしそれでも肉体的暴力のありなしという点は正反対です。

尾木ママ長女さんの話を読んで、まず思ったのが、
その長女さんは「私自身に似ている」と。

私の母は塾を経営しており、
私は地域で
「英語の先生のご長男」
「先生の家の息子さん」
と呼ばれて育ち、
友達の家をふくめて、地域のどこへ行っても
下手なことはできませんでした。

また、間食はもちろん、
お菓子の類はいっさい食べさせてもらえないで
子ども時代を送ってきたのです。

その反動として今、
「お菓子を喰い散らかす」
ということは(皆無ではないにせよ)ほぼありませんが、
そのかわり大酒を飲み、食生活は乱れ、
国民三大義務の一つ「勤労」をしておらず、
国民の税金で生きながらえさせていただいて、
おおいに「いい子」からはずれております。

これは表面的には
「お菓子を喰い散らかす」
という症状ではありませんが、
深層的には同じことなのではないかと思うのです。

つまり、尾木ママ長女さんと私は
「病因」は同じで「症状」が象徴的に同じである、と。

成育歴の中で不適切にずっと禁じられてきたことを
大人になってやっているだけなのではないでしょうか。

子ども時代に子どもをやれなかった人は、
どこか突拍子もないところで子どもをやってしまう。

ところが、大人になってから子どもをやると、
行為のスケールがすでに大きいですから、
ときにはとんでもないことになります。

子どもだったらお菓子の買い食いぐらいで済んでいたものが、
大人になったら胃壁が避けるほどの病的過食になるとか。

子どもだったら近所の子と泥まみれになって
兵隊さんごっこで済んでいたものが、
大人になったら自衛隊に突入して本当に腹を切り、腸が飛び出し、
世界のニュースでトップに扱われ、
それを見た少年たちの人生に終生の翳を落とすとか。

私は精神医学者でなく、一患者にすぎませんから、
フロイトが示した「特異的反応」という概念にとらわれず、
もっと幅広く起こっている事象と原因を考察して、
より本質に迫りたいものだと思います。

ぼそっとプロジェクトでは、
本ブログに左側にずらっと、

「○○な私」
「××の私」
「△△する私」

などと多様なシリーズがならんでいますが、

「最大公約数を取ればACはみんな同じではないか」

ということを、
読者みなさまが気づいていただけるとありがたいです。

ところが、その最大公約数が何かということを、
こちらから具体的に提示できません。

それは私たちがこれから
言葉にしていかなければならない部分かな、
と思っております。

2016/3/31(木) 午後 6:36

痴陶人さん:
やっぱりなと思うことがあります。

それは、例の埼玉監禁事件のことです。今日、例の犯人が静岡から埼玉にヘリコプターで移送されましたが、犯人は一切顔を隠しませんでした。

これは、最近のこの手の犯罪者とは、一線を画します。清原が堂々と出来なかったことと好対照です。

つまり、あの青年に、私のいうユートピアの達成に失敗したという意識しかなく、疚しさはそれほどないということです。

下世話な言い方をすると、やったかやってなかったかというと、やってなかったから、顔を晒せたのだと思います。

また、少女もやられてなかったから、最終的に学習的無気力をかなぐり捨てて、逃げられたのだと思います。

にも関わらず、少女は出てきてしまいました。これから彼女は、監禁よりも辛い日常を強いられるでしょう。

母校や市は、全面協力と言っていますが、そんなことをいう個人ではなく、無名の正義は糞です。そんなおためごかしをいう奴が私は一番嫌いです。

彼女には、これからが地獄が始まるのです。殺されていた方がましだと思えるような。

私は彼女は、世間が思うほどの犯人に対する悪感情はないように思います。

でないと、二年も耐えられなかったでしょう。もしかすると、犯人を好いてさえいたかもしれないと思うのです。

ただ、それを勝る、両親に会いたいという思いを考えると、私は、嗚咽するような感情に揺すぶられます。

やったかやってなかったか、挿入のあるなし、そんなことに価値観を見ようとすると、物事の本質を見失います。そういう精神科医は、どんなにこれまで偉業をなせれていようとも、私は信用しない。

このことは、ぼそっとさんのおかれている精神医療の現場の争点とも一致しますし、私の同窓の最高に好きな女としかしたくないという、英雄的行為とも抵触します。


2016/3/31(木) 午後 9:28
たしかに、彼女の両親に対する真情は
どのようなものでしょうね。

加害者の男性は
「誘拐願望があった」
と供述を始めているようですが、
それは自分がだれかに
誘拐に相当する支配をされたことがあるからではないのか、
と私は勘繰りたくなります。

2016/4/1 (金) 午後 10:14

まだ事実の判明途上ですから、ぼそっとさんは、あまり断定的なことをいうのを避けて頂きたいのですが、私は一宿一飯の身ですから、勝手なことを言わせて頂きます。問題があれば、放逐頂きたく(笑)…

犯人の青年は、中学時代から誘拐願望があったことがセンセーションを起こしていますが、私はまたさもありなんです。

また、彼が私と同郷で、彼が国立中学の出身だということを初めて知りました。

そう、あの附属池田小事件の舞台となったあの超エリート校の出身だということです。

そして、あの事件は、15年前ですので、もし小学生の時からあの学校に所属していたとするなら、彼は8歳、被害者の児童たちとほぼ同じです。

私はあの事件の犯人にも、その育成歴を含め、大変興味を持っているのですが、別にその負の連鎖を言いたいわけではありません。ただ、考慮の余地はあると。

私が問題だと思うのは、あの中学にいるときに、監禁願望を抱いていたという、その中学時代の意味なのです。

テレビで専門家が、監禁する犯罪者の心理を要約し、「他者からの承認に飢え」ている人間が多いというのです。

やっぱりと思います。つまり、誘拐監禁する生け贄は、家庭に監禁されている自己の投影ではなかったかと思うわけです。

今回の事件は、私が心中密かに思っていたことがら、そしてぼそっとさんと最近お話ししていることと、様々に妙にシンクロするのです。

もし彼のユートピアが中学時代の自分の自己投影とするなら、虐待の連鎖に似た悪循環と、彼自身が監禁の犠牲者だという、最近我々の新説(笑)を裏付けるいい例症にもなります。

そして、虐待児童といい子の問題を考える上で、大変興味深い。

今日ブログに来られたmissさん、彼女もやはり虐待児童といい子の問題意識を持たれているようですね。

そして自己克服されているみたいです。長くお付き合い頂ければと思います。


2016/4/2(土) 午前 1:43
他者を監禁するとは、
自分の主体の範囲の拡大をねらうということですから、
どこかで自分の主体の範囲がおびやかされた過去がある
と考えるのが順当でしょうね。

岸田秀がいうように、
日本が黒船によるレイプを受けなければ、
朝鮮半島に版図を広げようとも思わなかった、
というのと同じだろうと思います。

そうですか、今回の監禁事件の犯人は、
附属池田小の、あの時期の出身ですか。

あのときの事件の実行犯は、
けっきょく、まちがいなく死ねるような「完璧の自殺」を
他者の手でほどこしてもらいたかったのでしょうけれど、
巻きこまれる他者にしてみれば、たまったものではないですね。

2016/4/2 (土) 午後 4:14

はい、間違いなく附属池田中学出身です。ただ、中学からの編入も考えられます。

しかし、もし小学生の時なら、宅間が潜入した小2のクラスメートあるいは、隣のクラスとかだったかもしれません。

また、中学からの編入組であったとしても、世の中の中学生以上に、あの事件に興味を持ったことはおそらく間違いないでしょう。

負の連鎖の可能性はないとはいえません。例えば、犯人のパイロット願望は、宅間にもありました。宅間を教祖としている可能性はあります。

ただ、私が思うのは、宅間とは全く別に、家庭内監禁環境があったのではないかというのが、私の推理です。

世の中の人が、中学生の時から、監禁願望を抱いていたと聞いて、なんと早熟な鬼畜だと思っているのは嘆かわしい。

彼はそんなこと思ってませんよ。むしろ、誘拐する少女を救済したい、例の救済願望です。健気な少年の自分を投影した救済願望です。

ただしこれは、彼が中学生の時に抱いていた誘拐監禁願望ですが。

例えば、身近で起こったあの凄惨極まりない宅間の事件は、あの学校の児童の心にトラウマを残したことは、誰の想像にも難くないでしょう。

そして、その児童たちがなにか、人生に小さな躓きを起こしたとき、他の地域で育った人間なら思わない、「宅間のようになってやる」という腹いせの選択肢が生まれる。

宅間は、逮捕時顔を隠しませんでした。もしかすると、今回の犯人も宅間を見習っている可能性はあります。

この辺りが私のいう負の連鎖の可能性です。


2016/4/2(土) 午後 5:28 
今回の誘拐事件の寺内容疑者の父親が、
被害者ではなく、
お客様、お取引先様をはじめとする関係者の皆様」
に対するお詫びをホームページに掲載し、
営業を自粛するという事態になっている(*1)ようですね。

*1. J-cast News 2016.4.2. 14:59

このことから私は、
あまり健全な父子関係ではないように思います。

19世紀フランスの作家フローベールは、
自身の作品『ボヴァリー夫人』が風俗紊乱の裁判となったとき、
ボヴァリー夫人は私だ」
と言いました。

私は、秋葉原無差別殺傷事件を聞いたとき、
「実行犯、加藤智大は私だ」
と思いました。

痴陶人さんは、今回の誘拐事件を見て、
「寺内容疑者は私だ」
と思っていらっしゃるわけでしょうか。

2016/4/2 (土) 午後 6:32


私は、プライベートでもバーチャルな世界の仲間(エロ川柳道場)でも、ついつい熱い人間だと思われる傾向があり、尊敬する紅孔雀さんからも浪漫主義者と言われましたから、多分それは間違ってはいないのでしょう。

ただ、そういう部分とは正反対の部分も確かにあり、妙に醒めている部分があることを自覚しています。

その醒めている部分の私からいうと、私は、まだフローベルの「ボヴァリー夫人は私だ」といえるような犯罪者と今のところ出会えていないのです。強いていうなら、それが三島でしょうか。

例えば、カポーティーの「冷血」の主人公や、沢木耕太郎山口二矢、ぼそっとさんの秋葉原男とは、私はまだ出会えていません。

もしそういう人物と出会えていたら、私もその人物に自己の思いを仮託して何事かを書けると思うのですが、残念ながら、私はいつもディレッタントです。

2016/4/2(土) 午後 7:24
醒めている部分がおありだから、痴陶人さんは、
私がひそかに「平成の小林秀雄」と呼ぶほど
批評力に秀でておられるのでしょう。

いっぽう、私にとっても、秋葉原男は、
私の一面でしかありません。

彼は、じっさいに「大義なきテロ」を起こしてしまった人。
私はまだ「テロを起こさないテロリスト」。

だから、加藤智大の書いた『殺人予防』などという本を
もし私が書いたとしても
一冊も売れないどころか、
書いた本人が価値を見出せないでしょうね。

昨年のシャルリー・エブド事件以来、
共感や連帯のフレーズとして
「私が<攻撃されている者>だ」
という言い方で立場の表明がされることが多くなりました。

イメージ 1
しかし、彼らは
「私はシャルリー」
「Je suis Charlie」
とはいうけれど、
「シャルリーは私だ」
「Charlie, c'est moi.」
とはいわない。

ボヴァリー夫人は私だ」
「Madame Bovary, c'est moi.」
というのは、後者なのです。

これは、同じようで、
やはり何かちがうように思うのです。

後者のほうは、「ボヴァリー夫人」という
社会から攻撃される存在を嗅ぎつけ、
自分の中にもそうした部分があることをカミング・アウトし、
攻撃されている者の代弁を買って出ている。

ボヴァリー夫人」にあたる者は、
けっして社会的に正義ではない。

ひるがえって
「私はシャルリー」
というとき、
立場につながろうとはしているのだけれど、
「シャルリー」にはすでに社会的な正義が
保証されている。

言い換えれば、
同じく共感し、連帯するにしても、
ボヴァリー夫人」は社会から承認されていないが、
「シャルリー」は承認され、敬意すら持たれている。

社会から承認されていない者に、
私が共感し、自己同一視するわけは、
やはり、幼いころの「世界」であった「家族」のなかで
本来的な意味での自分の存在を
承認されていなかったからだろう、
と思うのです。

2016/4/2 (土) 午後 10:29

 
小林秀雄は面映ゆいですね。同じ褒めて頂くなら、澁澤辺りがよかったのですが、澁澤もう、私の同窓にいってますものね(笑)

はい、私も、

ボヴァリー夫人」という
社会から攻撃される存在を嗅ぎつけ、
自分の中にもそうした部分があることをカミング・アウトし、
攻撃されている者の代弁を買って出ている。


そういう意味で、この犯人を語っています。今リアルタイムであの犯人を庇うと、たとえば私がブログをやっていればブログ炎上は必至です。

私は別に彼を庇うつもりはありません。ちゃんと法にのって裁かれるべきだと思っています。

私にも被害者の少女に対するシンパシーは、いえもしかしたら人並み以上にあると思いますよ。

私のいってるのは、そういうことを捨象しての話です。

それはそうと、フローベルと澁澤からの関連なのか、澁澤の「サドの生涯」が原作となった三島の「サド公爵夫人」の中に出てくるルネ(サド公爵夫人)の「アルフォンスは私だったのです」というあの有名な台詞が、フローベルの「ボヴァリー夫人は私だ」の本歌取りだったことに今思い当たりました。

フローベルは、三島の顕示系の作家ですから、まず間違いないでしょう。

「アルフォンスは私だったのです」は、被虐者の立場の人間が、加虐者の立場の人間と同じだといっているわけですが、この台詞は、何か非常に示唆に富んでいるように思います。

例えば、ぼそっとさんが秋葉原男に、たとえ一瞬でも私だと思ったとしたら、これも被虐者の立場の人間が加虐者の立場の人間に吐いている言葉となりますね。

今回の誘拐監禁犯が、誘拐した少女は実は私だったのですなどと言ったら、大変なことになりますが、もし彼すらも何らかの囲われもの「監禁される私」だったとしたら、それなりの意味を持つようになると思います。

ここには、虐待や暴力やいじめの連鎖を考える上で大切な何かがあります。


2016/4/3(日) 午後 10:37
マゾヒストとサディスト、
貯蓄癖と浪費癖、
それらが表裏一体のもので、
ふとしたはずみでひっくり返るように、
いじめーいじめられ関係も表裏一体のものでしょうね。

だいたい学校でのいじめっ子というのは、
家庭の中でいじめられっ子だろうと思うのですよ。

そういうことに関して、
正確な統計が取れないのが残念です。

家庭の中では「いじめ」と言わず「虐待」と言うわけですが、
考えてみれば、これはおかしな話で、
私はいじめと虐待は連続している現象だと思います。

私自身の原家族の生活をふりかえっても、そう思います。
母も父も弟も、
みんな寄ってたかって「家庭内いじめ」をしていました。
そういう現象のなれの果てにできあがるのが、
本ブログでもよく出てくる「家族のゴミ箱」という表現です。

いまの治療共同体にたどりついてからも、
一時期、幼少期と同じように女性たちにいじめられていました。

痴陶人さんも、いじめられっ子だった時期はありませんか。

2016/4/4 (月) 午後 2:29

これは、三島のピュグマリオニズムを語る際にお話しようと思っていたのですが、いい機会ですから、ここでします。

ピュグマリオニズムとは、人形偏愛症(人形愛)とも呼ばれますが、女性を人形のように扱いたい願望のこともいいます。

今回の埼玉少女誘拐監禁事件のニュースを家人と見ていて、犯人はコイタスに至らなかったのではというのが、私と家人の共通認識でしたが、家人は、犯人は少女をペットのように考えていたのではといいました。

家人は、先の女性を人形のように扱いたい願望をいったのでしょうが、私は大筋でそれを認めながらも、若干の違和感を覚えました。

何故なら、女性をペットのように扱うというのは、少女を他者(物)として扱うことで、ペットを(性)奴隷という言葉に置き換えると、多くの誘拐監禁事件の本質たるポルノグラフィと何ら変わらなくなるからです。

私は今回の事件は、これとも少し違ように思えるのです。私は本来的な人形愛の方ではなかったかと思うのです。

私は、三島のピュグマリオニズムを考えた時、男の子と女の子の人形遊びの違いに思い至りました。

たとえば、女の子の人形遊びですが、女の子は、人形を抱いてあやしたり、人形にミルクを飲ませたり、リカちゃん人形のお洋服を着せ変えたりして、人形を他者(子)として扱い遊びますが、男の子の場合、人形は自己だということです。

私自身がウルトラマンのエンビ人形を操る時、ウルトラマンウルトラマンではなく、他ならぬ私自身だったということです。

ミニカーを操る時も、飛行機のプラモを飛ばすときも、男の子は、操ってるのではなく、スーパーカー零戦になっているということです。

男の子のごっこは、すべからくこれで、仮面ライダーブルース・リーごっこもこれです。

江戸川乱歩の「人でなしの恋」が何故あんなに怖いのか、ヒッチ・コックの「サイコ」のアンソニー・パーキンスの母の女装が何故あんなに怖いのか。

それは「人でなしの恋」の主人公が人形を可愛がっているというより、人形になりきっていることだと思います。

「サイコ」も然り。アンソニーが殺した母親になりきっていることが怖いのです。

女装癖の人の女装とコスプレの女装の違いは、女を装うのではなく、女になりきることだと思いますが、あまり話を広げずにおきましょう。

つまり、今回の誘拐監禁犯に、私はどこか少女への自己投影を見てしまうわけです。何故だかはわかりません。あくまで私の直感的、感覚的なことで、間違っているかもしれません。

また、先に私は少女が犯人を好いてさえいたかもしれないといいましたが、言葉が足りなかったかもしれません。私のいいたかったのは、ストックホルム症候群としての好意です。

私にいじめられっ子の時期があったかどうかのご質問ですが、幸いなことにというか、残念なことにというか、私には、それらしき時期は思い当たりません。

ただ、私は物心つく前から暴力やいじめということに対して非常に敏感で、またそれを非常に恐れていました。


2016/4/5(火) 午前 7:31
たしかに、ウルトラマンなどの人形で遊ぶとき
男の子にとって人形は自分ですね。
自分より強い「補助自我」でもあり、
ファルス(象徴的男根)でもあるでしょう。

ファルスは、男の子が成長するにしたがって、
知識になったり、筋肉になったり、
所持品になったりしていきますね。

女の子は、人形で遊ぶとき
自己を母に同一化させているのでしょう。
だから、やがて子どもを持ちたいと思うようになる、
ということになっているようですが、
まあ、そこは人によってさまざまに変転していくわけですね。

日々あまた起こっている事件のなかで、
なぜ、この朝霞誘拐事件に痴陶人さんはかくも惹きつけられ、
まだメディアで報道されていない、
被害者・加害者の心理の細部まで克明に
想像することができるのでしょうね。

2016/4/5 (火) 午後 6:55

それはやはり、少女が出てきたことと、犯人が顔を隠さなかったことでしょうね。

少女は誘拐時もう中学生でした。性に目覚めていない小学生ではなく、出てきたら世間から、どういうことをされたと思われ、そのことで後ろ指を指されることをわかっている年齢で、それをちゃんと理解した上で、覚悟して逃げたのだと思います。

犯人は、顔を隠したら、そういうことことをしましたと表明してしまう。私は顔を晒すことで、少なくともそういうことがなかったのだと証明する強い意思のようなものを彼から感じました。

虫のいい話ですが、そうすることで少女と二人の関係を守りたかったのだと思うのです。

犯人は1年ほど前、恋人ができたと友人に漏らしていたらしいですが、誘拐監禁という手段は間違えましたが、少女への思いは恋であり、愛だと思いたがっている、そして千葉のアパートでの生活も監禁ではなく、愛の巣だったと思いたがっている、そして最後の一線を踏み越えていないからこその少女の逃走と犯人の顔出しが私の中でしっくりとくるのです。

もし最後の一線を踏み越えていたにしても、彼はそれを強姦ではなく、愛の営みだったと思いたいし、思っているんじゃないかと思うわけです。

それとやはり、誘拐監禁願望が、中学生の時からあったという自白ですね。もし彼が私なら、優等生であったはずの彼に、皆が思うような鬼畜な願望はなかったと思うのです。まあ、インターネットの普及で私たちの中学生の頃とは、随分状況は違うのでしょうが、我々が吉田松陰に心酔したように、中学生というのは、またまだヒロイックなものに憧れる純粋な年頃だと私は思うわけです。

たとえそれが監禁だとしても、その夢想には、彼なりの何らかのユートピアがあったように思う。

私のメールアドレスのnightporterですが、これはシャーロット・ランプリング、ダーク・ボガート主演の映画「愛の嵐」の原題です。

この映画は、ナチのユダヤ人収容所で起こる、収容所の記録係と囚人の女性の奇妙な愛の物語です。

シャーロットは、ホロコーストを逃れるため、夜毎半裸になって歌い踊って、将校たちの宴を盛り上げます。映画ですから描かれていませんが、彼女は自ら進んで性の生け贄に身を投じたことでしょう。

戦争が終わり、ダーク・ボガートは、人目を憚るようにホテルのナイトポーター、つまり夜勤専属のホテルマンをしています。

そのホテルに世界的名声を博すピアニストの妻に収まったシャーロットがやって来て、不幸な再会を果たすのですが、シャーロットは恐怖とトラウマに苛まれながらも、男との逃避行へと身を委ねてしまうのです。

ここに描かれているのは、歴史的で大規模なナチによる誘拐と監禁です。

そして支配と被支配の関係から起こる陽性転移と陰性転移、ストックホルム症候群もあるでしょう。しかし、この皮肉な結末は、私の中で非常に象徴的な何かを残しました。

今回の事件もこういう結末になると私は思っているわけではありません。ただ、メアドにこんな映画のタイトルを忍ばせていることからもわかると思いますが、私は世の人よりは多く、こういう問題をずっと考えてきた人間だということです。

そういう人間の直感であり、感覚です。

この事件は、何故か私の中の何かを刺激するのです。

ちなみに今週土曜、75歳になったシャーロット・ランプリングベネチア国際映画祭で主演女優賞を獲った「さざなみ」という映画を観に行きます。


2016/4/6(水) 午前 8:44
この事件は、何故か私の中の何かを刺激するのです。

痴陶人さんの中の何が、
はたして刺激されているのでしょうね。

もし容疑者と入れ替わって
痴陶人さんと被害者である少女が
締め切ったマンションの一室で向かい合ったとしたら、
何歳ごろのご自分になられているでしょうか。

2016/4/6 (水) 午後 2:02





 
 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(16)」へつづく
All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020