VOSOT ぼそっとプロジェクト

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三島由紀夫を読み返す(17)フロイト論

三島由紀夫を読み返す(16)」からのつづき・・・

同じ少女を愛した私たち(17)」からもつづく・・・
by J.I.×痴陶人
 
J.I.:

では、三島はフロイト
どのように評価していたのでしょうか。

このような文献を掘り返してみました。

フロイト「芸術論」(*1)


 十九世紀の科学的実証主義が終焉して、ヨーロッパでは知性万能の時代が過ぎた。一九〇〇年代のヨーロッパを風靡したのは、反動的に起こった反知性主義、反合理主義の潮流である。ニイチェの時代、ショーペンハウエルの時代、ドストイエフスキーの時代がこうして始まり、今次大戦後の実存主義に至るまで尾を引いている。

 フロイトはこういう時代に彼の精神分析学を流行させ、科学の名の下に、反合理主義的風潮の時好に投じた。はじめからフロイトはイロイッシュな存在である。非合理的世界の合理的解説が彼の唯一の武器で、しかもその体系は強引な仮説の上に立っているこの合理的仮装が、当時の反知性的知識階級の嗜好を満たすと同時に、うしろめたさに弁明を与えたのである。科学的見地からみれば、素人のわれわれにも、フロイトユダヤ的夢判断よりもハヴロック・エリスの夢の研究のほうが妥当なように思われる。しかしフロイトの魅力はもとよりその妥当さに在るのではない。フロイトの強引な仮説は今日われわれの社会生活の常識にまでしみ入りおくればせに北米合衆国を風靡して、おかみさん階級までがアナリシスに熱中している。古典的合理主義の支配している米国では、性慾その他の非合理的世界がいつも恐怖の対象になっているので、フロイトはもっぱらその合理的側面から、DDTみたいに愛用されているのである。その結果アメリカの民衆はますます勇敢になりつつある。

 フロイトは中学生のころ私の座右の書であったが、今この「芸術論」を再読してみて、カントが芸術にぶつかって「判断力批判」で失敗したように、フロイトも芸術でつまづいて、ここで最もボロを出していると思われるところが多い。極度に反美学的考察のようにみえながら、実はフロイトが陥っているのは、美学が陥ったのと同様の係蹄である。芸術の体験的把握を離れた分析の図式主義と、芸術を形成する知的な要素と官能的な要素との相関関係の解明にとどまって、「鶏が先か卵が先か」という循環論法に終始している。

 しかし可成反復が多くて退屈だが、ダ・ヴィンチの画解から幼児の同性性欲的傾向を類推する大珍論「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の一記憶」は一読の価値があろう。私としてはむしろ、「無気味なるもの」や「フモール」等のエッセイに、フロイトのねばっこいユダヤ人気質とエッセイストの才能を見出して、興味がある。

 高橋義孝氏の訳文は、きわめて明確な、ドイツ的正確さを持ったものである。
*1. 強引な仮説の魅力 ― S・フロイド著『芸術論』
<初出>日本読書新聞 昭和二十八年十月十九日
<初刊>「芸術論」フロイト
「文学的人生論」河出新書 昭和二十九年十一月
新潮社版 三島由紀夫全集 第26巻 所収
 
 
 
痴陶人:
三島の批評を要約するとフロイト理論は、『強引な仮説の上に立った非合理的世界の合理的解説』ということになるでしょうか。
 
そしてこの指摘は、かなり的確でありまた、「イロイッシュな存在」を含め三島自身の作風をも言い表しているように私には思えます。
 
三島由紀夫を合理の人と解する向きがありますが、私はそうは思いません。
「非合理的世界の合理的解説」をした人であり、その論理もかなり牽強だと思います。
 
強引な仮説の典型は、例のオイディプスコンプレックスですが、三島は以前にも挙げた「魔」において、「現代的状況とは、人間性の暗い本源的衝動の一定の条件の下における組合せ、その寓話的再現に他ならないからである」と述べていますが、この寓話というのがオイディプス神話であるように私には思われますし、彼の生き様そのものがオイディプスに範を見ています。
 
例えば、彼の英雄の条件「殺される王子」ですが、単に殺されるだけではダメなのです。父王を殺し(殺さなくとも謀叛を起こし)その咎で殺される王子でなければならないのです。
 
これは、聖セバスチャン、大津皇子、二・二・六の将校、神風連、特攻隊、西郷隆盛に至るまで全てこの規矩に則っています。
 
三島自身の自決もこの規矩にピタリと嵌まりますが、その雛形こそが、オイディプス王の寓話的再現といえるでしょう。
 
確かにフロイト論理は、強引な仮説ですが、この仮説にピタリと嵌まると、様相が普遍的な真理に見えてきます。
 
例えば今回のナガレの去勢ですが、
 
「 俺が父親にされたことには、『 去勢 』ということばがピッタリする。あれは、『 去勢 』という1つのことばで表現できる。 」
 
ナガレは正に自分に起こっていた現象を去勢という言葉以外で考えられなくなるほど、フロイト理論に絡めとられるわけです。
 
逆説めきますが、我々病者はフロイト理論を予言のように見てしまいますが、いくら強引とはいえこれはフロイトが病者の心を帰納して導き出した科学的合理によって成り立っている査証であると思われます。
 
恐らく、フロイト理論に眉に唾する人は健全な方だろうと思います。
 
フロイト心理学の弊害は、健全な方の健全な性欲にまで敷衍させようとしたところにあると思われます。
 
しかし精神的病者にはピタリと当てはまる。
 
昨日私は、「白痴」がオイディプスを換骨奪胎しているといいましたが、これは逆かもしれません。フロイト理論がドストエフスキーを換骨奪胎した可能性もあります。
 
同時代の人ですから、互いに影響を与えたのでしょう。ここにもう一人の同時代人ニーチェを加えてもいいのですが、彼ら三人は、共にイロイッシュな逆説の人であり、ドストエフスキーニーチェは共に癲癇という精神病を患っていましたし、フロイト神経症患者でしてた。
 
彼らの病んだ心が共鳴しあい、作品や哲学や心理学を生んだのかもしれません。別に共鳴し合わなくても構いません。個々にというのであれば、逆に病んだ心の普遍的な(一定の)在り方というものが実証されることになります。
 
ぼそっとさんが先日病状を縦割りにする必要はないと言われましたが、私もそれに賛成です。
 
癲癇と神経症が共鳴し合うように、去勢と不能が共鳴し合うように、病んだ心の一定の在り方というものがあり、それを追求するのが、心理学であり精神治療だと私は思います。
 
 
J.I.:
私が、三島によるこのフロイト評を発見したとき、
最初に思ったことは、

「へえ、三島もちゃんとフロイトを理解していたんだ」

ということでした。

かなり碩学の知識人でもフロイトを誤解している人は多いです。

最近、私がこの耳で聞いた人からいいますと、
フェミニズムの巨匠、東大名誉教授の上町百鶴子さんなど

「なんだ。この人ですらフロイトがわかってないのか」

とがっかりしました。

自分の心の構造にぐいぐいと入ってこられるので、
思わず無意識的な防衛がはたらき、
否認によって撥ね返してしまうというのが一つの理由。

そして、こうした思考体系につきまとう
物証のなさや胡散臭さと
どのようにつきあってよいかわからない
というのが二つ目の理由でしょう。(*2)

*2.たとえば紅さんの7月26日の御記事と
コメントのやりとりをご参照のこと。

三島も、作品のいたるところでフロイトをけなしていますね。

精神分析そのものをとりあげた小説『音楽』は、
全篇をつうじてフロイトへの揶揄といった側面がありますし、
また、最後の大長編『豊饒の海』全四巻のあちこちで
主人公本多の口をかりて、名前を出すのもはばかるほどに、
「ウィーンの俗悪な学者」
の悪口を言わせています。

だから、三島もわかっていないのだと思っていました。

そうしたら、けっこうわかっている。

「トーテムとタブー」「文明への不満」など
中後期の大作を読んだようには感じられないけれど、
本質をとらえているし、時代的な位置づけもわかっている。

フロイトが出てきたビクトリア時代というのは、
時代そのものが強迫がかっているような空気があって、
当時の健全でりっぱな市民ほど、
こんにちの私からすればおかしいところがありました。

だからフロイトは、すべての人間にあてはまる
心の動きに関する原理原則を追及したわけです。

その前の時代の巨匠シャルコーのように
自分の頭でモノが考えられない「頭ない人」だけでなく、
知識階級も上流階級も「頭ある人」もすべて含めて
治せるような精神医療を
フロイトは模索したのでした。

ニーチェドストエフスキイを高く評価していました。

強引な仮説は、ときには外すことも多かったけれど、
私たち人類に新たな地平を切り拓きました。

痴陶人:
私は、「音楽」をフロイトへの揶愉だとは思いませんし、「豊饒の海」は、作品を仏教的非合理で貫いていますから、どうしてもそうならざるを得なかったのだろうと思っています。

三島のフロイトと心理学に対する態度は、キリストやキリスト教に対する態度と似ています。

恐らくキリストやフロイトキリスト教や心理学は、多くの作家のモチーフとなっていますから、それをあえて誉めることはしなかったということだと思います。

今回ぼそっとさんが挙げられたこのフロイトの「芸術論」に対する考察も一読するだけでは、フロイト批判にも聞こえますが、よく読むとフロイトの悪口は書いてないですね。ちゃんとフロイトの本質を突いています。

中学時代の座右の書というだけあって、ちゃんと三島の血肉になっているのでしょう。そうでなければ「仮面の告白」は書けなかったと思います。
J.I.:
 
なるほど。
 
そう言われてみれば、そうかもしれませんね。
 
豊饒の海』の主人公本多は、いわば人造人間ですから、
本多の思想や世界観そのものが、
仏教的非合理にもとづいた「つくりもの」で、
そのうえに立ったフロイト観だということを
思い出さなければなりませんね。





 
 
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