VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

同じ少女を愛した私たち(22)

同じ少女を愛した私たち(21)」からのつづき・・・

by 痴陶人 × 流全次郎
 
痴陶人:
男が女へやってはならない二つの愚行

父から逃げられない私(31)」で、ナガレの売春(買春)、強姦を巡る発言がちょっとした波紋をもたらしているようですが、ナガレの趣旨は別として、私はナガレが何も言わなくてもいい、ああいう荒唐無稽な屁理屈?哲学?を持ち出してくることを面白いと思いますし、評価します。

あれがナガレだから皆さん批判されますが、もし、それが名だたる文豪であれば、果たして批判されたでしょうか?

例えば、ナガレの発言が三島由紀夫ドストエフスキーがしたのなら、おそらく批判されなかったことでしょう。

私は、世の文芸評論家とは違い、三島やドストエフスキーを文学者というより、ACの心の在り方を探る対象として接してきたことを、この「チームぼそっと」と関わることで気づきました。

そして、三島やドストエフスキーは、その作品の中で、ナガレがやったような荒唐無稽な仮定を様々に立てています。

三島に関しては、ぼそっとさんとの間でやっている「三島由紀夫を読み返す」で明らかにしていこうと思っていますので、ここではドストエフスキーについてだけお話ししようと思います。

その前に、私の基本的スタンスを述べておきますが、私は、ナガレやぼそっとさんを、三島やドストエフスキーと同じ地平で見ているということです。

それは文豪、文学者ではなく、我々と同じように、心に病を抱えた生身の人間として見ているということです。

ドストエフスキーの「地下室の手記」は、限りなく短編に近い中編ですが、ここでドストエフスキーは、信じられない離れ業様々に果たしています。

例えば、「出会って直ぐに、言葉を交わさず男女が愛しあう(セックスする)ことは可能か」というまるでAVの企画のようなことをやっているわけです。

そしてドストエフスキーは、それを可能足らしめます。

私は、この小説を無類に面白く思い、繰り返し読んでいますが、「ドストエフスキーコペルニクス的な転換をもたらした」と評価はされるのですが、誰もこの作品を真っ向から語らない。

私のプライベートでも何人もの人にこの作品を勧めましたが、ほとんどの人が途中で挫折します。最後まで読んでくれた人も、吐き気がしたとか、不愉快になるとか言って、私と同じように面白いと言ってくれた人は一人もいません。

そこで私は、この作品に興味を持ってくれるように、この作品の惹句(キャッチコピー)を考えました。

地下室の手記」は、男が女に決してやってはならない二つの愚行によって成り立っています。

一つは、「事後の娼婦への説教」です。「君のような若く美しい女性が
こんなことをして生計を立てるなんて間違っている」性欲を満たした後のハゲ親父にこんなことを言われることが最悪のことであることは、男の私にも想像に難くありません。ゾッとします。春を買った男の罪を、春を売った女性に全てその罪を負わされているのです。ところが、世にこういう男は実に多い。

ドストエフスキーも主人公の地下室人もリーザという若い娼婦にこの説教を延々とさせるわけです。

ところが、ドストエフスキーのすごいところは、出会い頭のセックスで二人は愛し合ってしまうという風に描かれ、説教は愛の告白として作用し、その説教が娼婦という黒い靴を白い靴に洗うことになる。

文学的な錬金術でいうと、娼婦を処女に変える行為がこの説教だったわけです。

今度はリーザは処女として地下室人のアパートメントを訪れます。ところが地下室人は、使用人のアポロンと、醜い喧嘩の真っ最中、そして彼は、男が女にしてはならないもう一つの最低なことをやらかします。

醜い自分を見られた地下室人の心はささくれだっています。地下室人は、リーザを辱しめるべく、レイプ紛いの関係を迫ります。

ところが、先に会って直ぐに愛し合えた二人が、その愛を知った後ではその愛は不能に終わる。地下室人は、リーザに金を払おうとします。リーザはその金をかなぐり捨てて、涙ながらにアパートメントを駆け出します。

ここで地下室人がやったことは、「素人女に事後金を払う」という行為です。

「娼婦への事後の説教」「素人女に事後金を払う」これが私の考えた「地下室の」のコピーですが、事後(失敗に終わりますが)金を握らせようというのが、今回ナガレのいった万引きした人間がレジに 金をそっと置いていくという表現に非常に似ているのです。そして私にはどうも地下室人がナガレに似ているように思えるわけです。人をゾッとさせ不愉快にさせる偽悪的表現でありながら、その実本人は何ら偽悪的行為をしていないという部分の相似です。

別にナガレを擁護するつもりはありませんが、ナガレは、買春もレイプもしたことがないだけでなく、未だ女性体験がないということを念頭に置いてやって欲しいと思います。

ナガレのいっているのは、あくまで想念であり仮説であるに過ぎないのです。
流全次郎:
> 痴陶人

「 それは、おそらく、塞翁先生のリップ = サービスだな 」

 いや、じゅうぶんにあり得たことだと思う。

「 ナガレが医者になることを望んでいたのは、サトウ アイコ ではなく、ナガレ自身なんだよ 」

 そうだよ。

 「 同じ少女を愛した私たち( 21 )」に出ているように、

「 あの娘に、つきあってもらうために、医者になろう 」

とは、俺は思わなかった。

 あの娘のこととは関係なく、俺は、精神科医を志した。

( 直接のきっかけになったのは、ロバート = レッドフォード 監督の映画「 普通の人々 」だった )

 ただし、俺が、医者になろうが、大富豪になろうが、あの娘は、俺と結婚してくれたかもしれないが、俺を愛するようになることは、決してなかっただろう。

( これは、「 風と共に去りぬ 」の スカーレット = オハラ と レット = バトラー との関係だな )

「 まあ、この男( ひと )で、いいか 」

ぐらいには想ってもらえたのではないかという自信はあるが、せいぜい、そこまでだっただろう。

 あの娘が、26歳の時に結婚した相手の、ある中央省庁の官僚の男のことも、あの娘は、

「 まあ、この男( ひと )で、いいか 」

ぐらいにしか、想っていなかったのではないだろうか?

 あの娘に、男を愛する情熱を感じたことは、なかった。

 何と言うか、恋愛に関して、「 無気質 」だった。
 ( 誤字ではない )

 大勢の男たちから愛されるが、誰のことも愛さない女だった。

( 高校生の時に、あの娘に片想いしていた同級生の男を2人知っている。卒業した後で、その2人から告白された。2人とも、あの娘には、告白しなかったそうだ )

 もっとも、あの娘に最後に会ったのは、あの娘が19歳の時だ。

 あの後、あの娘は、どう変わったのだろうか?

 もし、あの娘が俺を愛してくれるなら、父親の虐待と、強迫性障害の症状とに苦しんでいた、あの頃の俺を愛してくれたはずだ。

( 実際、高校生の時に、そういう少女たちが、数人いた )

 あるいは、生活保護を受けて精神病院に通っている今の俺を愛してくれるはずだ。

 あの娘が官僚と結婚した後も、あの娘への愛は、冷めなかったよ。
痴陶人:
>>それは、おそらく、塞翁先生のリップ = サービスだな 

いや、じゅうぶんにあり得たことだと思う

何が十分にあり得たんだい?

慧眼であったことがか?

ナガレの発言は、それが動画の中でも書き言葉でも、時々主語がなくなる。それは話の巧拙、文章の巧拙とはまた違った意味での主語の喪失だと私は思っている。

今日の文章は、特に、支離滅裂でナガレが何を言いたいのかさっぱりわからない。

片想いした級友二人は何を思っていたのか、男を愛せない不感症の女が、何故、精神病院にかかる今のナガレを愛するのかも。そしていったいナガレは、サトウアイコを愛しているのか、憎んでいるのか。

家を捨てて出ていった母親に対する幼子の愛憎あわせ持つ混沌としか思えない。

ナガレのロジックの魅力的なところは、主観のdynamismにある。ところが、面白いと思って振り返ると、その主観の席に、いつもナガレがいないんだよ。観客は、dynamismな魅力的な主観を誰が言ったかと振り向いてるのに、ナガレは、どや顔で観客と一緒にその空席を見て笑っている。

オバQにこんなギャグがあっただろう?オバQと誰かが喧嘩を始め、砂ぼこりが巻き上がる。次のコマでオバQが登場し、あの喧嘩はだれがやってんの?と指を指す。

ナガレには、あのオバQみたいなところがある。

ナガレのなりたかった精神科医でもない私に言われたくはないだろうけど、どう考えても、ナガレの病は、この主語の喪失、つまり主体の真空化にあると思う。

皆がナガレの主観に興味を覚えて、質問なり反論すると、ナガレは、他所からその主観を持ってきて補完する

そして論理は破綻、つぎはぎだらけの荒唐無稽な理屈だけが残る。

言い過ぎたかな。


あの娘に、男を愛する情熱を感じたことは、なかった。
何と言うか、恋愛に関して、「 無気質 」だった。
 ( 誤字ではない )


いや、私は十分にそれを感じたよ。

私が大谷直子の目に託していった「静かな情熱を湛えた目」がそれだし、昨日の「阿修羅のごとく」で私がぼそっとさんに語った、女性の秘めたるエロチシズムがそれだ。
All Right Reserved (C)VOSOT 2013-2020