VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(18)「第二の性」事件

三島由紀夫を読み返す(17)」からのつづき・・・

by 痴陶人 × J.I.
 
痴陶人:


ボーヴォワール(*1)が嫌いだ。

ジェンダーという概念を発明し、女性開放運動の創始であり、サルトルと対等に付き合い、フランス婚の礎を作ったともいえる、この偉大な女性哲学者が私は嫌いなのです。


といっても私はボーヴォワールの著作を一行も読んだことはありません。ですが、もし読んだら、現代のフェミニストたちにあるヒステリックな論調はおそらくないと想像はしています。

優れた思想というのは、後世の論者に都合のいいように政治的に利用され、曲解されるもので、ボーヴォワールにその意図はないことが想像できるのです。

にも関わらず、私は今でもある理由から、ボーヴォワールを読んでみようとは思わないのです。

かといって、フェミニズムというものを私が嫌っているわけでもありません。

例えば、ぼそっとさんが嫌われている上野千鶴子女史の著作を、私は一時期面白く読んでいました。

「スカートの下の劇場」で上野女史は、女性の下着を考察する中で、男性の下着にも触れ、ボクサーパンツなどなかった時代に、女性がトランクスよりもブリーフを好む理由を、夫や息子が下着の中で男性器をぶらぶらさせているイメージを嫌うからだという大胆な心理学的考察をされていました。ブリーフは、ぺニスの拘束、性器の管理だというのです。

そして、下着を買い与えたり、洗濯する妻や母親の役得で、女性は、夫や息子の性器の管理もしていたというわけです。

女の子が生理で汚れた下着を父親にチェックされる心配がないのに反し、男の子は男性の生理ともいえる夢精の証拠を、洗濯物として母親に供する屈辱を味あわねばならないことを私は何度か経験していましたから、下着の管理=性器の管理という発想を非常に面白く思ったわけです。

今回のぼそっとさんのいう暗渠の声(*2)、塞翁先生のいう富士山の話で、私は私にもあった同じような体験を思い出しました。

*2.「暗渠の声

それは私が中学の2年か3年の時だったと思います。

ぼそっとさんと同じように、ある日ゴミ箱の中にティッシュの証拠を残したまま通学し、それを授業中に思いだし、ドキドキしながら走って帰宅したのです。

しかし、証拠は、私以外の者の手で既に隠滅され、代わりに怪盗ルパンが犯人の手懸かりを自ら残すように、私の勉強机の上にあるものが残されていたのでした。

それがボーヴォワールの「第二の性」という本でした。本の帯には、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と書かれていました。

私は母の陰湿なやり口を恨みました。そして、誰がボーヴォワールなんて読んでやるものかと思い、意思の弱い私が、未だにそれを励行しているわけです。

母は、私が男の性を露呈する度に、例えばぼそっとさんが給水タンクの隙間に隠したような悪書を、スピーカーの木の箱の上げ底に隠しているのを見つけたりした際に、その悪書を晒す代わりに、私の机の上に「第二の性」を置くのでした。

自分自身は、古い価値観に雁字搦めになり、父親の奴隷のように生きているくせに、ぼそっとプロジェクト風にいうなら、「ボーヴォワールを読んでいる私」は、進歩的で知性のある女性だと勘違いしている女、「婦人公論」辺りの影響でボーヴォワールの本を買ったけど、その意味を理解できているとは決して思えない、似非インテリに私は怒りを覚え、その後何度か、証拠のティッシュをわざとごみ箱に残し、その女に処理させてやりました。


[ 痴陶人 ] 2016/9/22(木) 午後 3:19
痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。

私は、自分の母親が単純な虐待母でなく、
へたに知的であったために、
似ても焼いても喰えない存在となりましたが、
痴陶人さんのお母さまもまた
ずいぶんとへたに知的で始末の悪い母親だったのですね。

私は上野千鶴子をけっして全否定していません。
フロイト的思考を受けつけない点は困ったものだと思っていますが、おおいに評価している部分もあります。
本物のフェミニストは、まわりまわって私のような反フェミニストと同じことを言っているものです。

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
は、サルトルが泥棒作家ジュネについて言った
「人は泥棒に生まれるのではない、泥棒になるのだ」
ですよね。

2016/9/22(木) 午後 4:31

後記:

ここに述べたように、
痴陶人さんの母親と私の母には、
共通点があるのだが、

「似非インテリに私は怒りを覚え、その後何度か、証拠のティッシュをわざとごみ箱に残し、その女に処理させてやりました。」

という痴陶人さんの表現から、
彼の母子関係は私のそれよりも
はるかに健康的な距離があったように私は感じる。

私は密着されていた。
まさしく強姦される女性が、強姦魔の体重でのしかかられ身動きがならない状態を、すべて精神次元の座標に一次変換したように密着されていたのである。

まず私は、この文脈で
「その女に」
とは書けないだろう。
あまりに怒りが大きすぎて、生々しすぎて書けないのである。

hashuさん
人としての性に、親が絡む…そういうところにひとつの病理があるのかも知れませんね。

1人の男性として開花する時期、生々しい性を認めない親を感じ、自ら(少年時代)、そこに蓋をしてしまう…。

これは、hashuさんの以前のコメントからの抜粋だ。誠に深い洞察で、スマホのメモ帳にコピペしておいた。

ジェンダー被害を女性は述べるが、
何故男性のジェンダー被害は述べられないのだろう

と私は以前からそう思っていた。

男の子は、フロイトのいうところのオイディプスの構図の中で、父親から去勢され、母親の恋人となることを阻まれて両親の永遠の子供となるべく育てられる。

ところが、ある時期が来ると、さあ、女を愛せ、結婚して生殖し子孫を残せと社会から強烈な要請を受ける。

それに順応できる男はいいが、そんなに簡単に順応できるものだろうか?

そのいきなり無理矢理の順応を迫られた時の男の子の苦悩、誰も言わないから言うが、三島由紀夫の「仮面の告白」は、それを描いていると私は思う。

ボーヴォワール風にいうなら、
人は男として生まれて来るのではない。男になるのだ

男こそ、そういってしかるべき存在で、社会は男になることを無理矢理要請する。

ここに男のジェンダー被害はあり、男はもっとそれを声を大にして言ってもいいと私は思ってきた。



人の性に親が絡む。そこに病理はある

hashuさんのこの指摘は鋭く、その干渉が母親であった場合、男の子は男になれなくなる。マザコンの問題しかり。ロリコンの問題しかり。

男になれなければ、大人としての社会生活は難しくなり、病に陥る可能性も高くなる。

何故男性のジェンダー被害が述べられないのか、その一つのいい例が今回ぼそっとさんの婦人公論」事件(*3)の顛末であると思われる。


それをやると、

「何を子供の頃の話をいい大人が
いまさら女々しくぐちゃぐちゃ言ってやがんだ」

という空気にされてしまう
のがオチなのだ。

これこそが男性のジェンダー被害であり、
女性がその被害を声高に訴えることができるのに反して、
それができない分、その影響は存外大きい

と私は思っている。

ぼそっとさんの「暗渠の声事件(*4)や私の「第二の性事件」は、確かに近親姦被害ではないかもしれないが、明らかにab―useではあり、語られない親の絡んだ男の性は、病理を生み、それこそ塞翁先生の専門である近親姦や性犯罪加害者の育成を陰で下支えしているように私は思うのだが、考えすぎであろうか。

*4.「暗渠の声

男性加害者を生むのは、紛れもなくその親、そしてその母親だと私は思う。

情緒的近親姦こそ、現代精神科医は研究すべきであり、フロイトを学んで、彼らは何やってんだかと私なんかは思うのである。

[ 痴陶人 ] 2016/9/24(土) 午前 0:19
塞翁先生の治療が、
近親姦や性犯罪を陰で下支えしている、
というのは、まさにそのとおりですね。

 
婦人公論の座談会(*5)と、塞翁先生が、ぼそっとさんの「暗渠の声」事件を近親姦性的虐待と認めないと判断される背景には、間違いなく言葉の齟齬の問題がありますね。



殴る蹴るが虐待という狭義と同じように、
挿入のあるなしが近親姦
性的虐待と限定されてしまっています。


本来近親姦性的虐待abなuse(*6)で語られなければならないはずで、
それに理解を示さない精神科医というのは無意味とさえいえる。

*6.[ab]とは「異常な」を表わす接頭辞
[ab]+[use]=[abuse]とは
「異常な」「(客体としての)利用」が
「虐待」の原点であるというJ.I.の持論

殴る蹴るの虐待、挿入のあった近親姦にだけ病理が訪れるとするなら、世の中もっと簡単です。

それがなかった者にも心の病が現れている現状をなんとかするのが、精神科医の役目であり、病気から病因を限定するのを仕事と考えているなら、本末転倒です。

そのやり方では、心の病も犯罪もこの世から減らないでしょう。

心の病が先鋭的に現れるのが犯罪で、日本の殺人事件のほぼ半数が無理心中を含めた親族間の殺人です。

もしその殺人が殴る蹴るの虐待や、挿入のあった近親姦被害の患者にだけ高い確率で現れるのであれば、それらだけを取り出して集中的に治療するというのもいいかもしれませんが、おそらくほとんどの殺人者(親族間に限らず)は、必ずしも殴る蹴るの虐待や挿入のある近親姦を受けていないが、心を病んだ人物であるように思えます。

情緒的近親姦こそ、現代精神科医が大至急取り組むべき課題だと私は思います。


[ 痴陶人 ] 2016/9/24(土) 午前 0:38

まさにおっしゃるとおりです。

物と物の接触や衝突や摩擦や挿入を研究するのは物理学。

心と心のそれらを研究するのは精神医学や心理学であるはずです。



 
・・・「三島由紀夫を読み返す(19)」へつづく
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