VOSOT ぼそっとプロジェクト

ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

三島由紀夫を読み返す(22)病人の資格

三島由紀夫を読み返す(21)」からのつづき・・・

by 痴陶人×J.I.
 
痴陶人:
実は、病人の資格がないという言葉は、ここ数ヶ月私自身が感じていた心境です。

イッパシの病人気取りでチームぼそっとに参加して、ぼそっとさんやナガレとやり取りしたり、ニャロさん初め多くの方の動画を拝見して、私が病人だなんて言ったら、バチが当たると思うようになりました。

ああ私は病人ではないんだなと、何か寂しいようなホッとしたような複雑な心境なのです。

一つだけ言えることは、私はチームぼそっとに出会えてよかったということです。

皆さんの苦悩の上澄みを飲ませて頂いただけですが、その上澄みは、私の人生に深い滋味を与えてくれたように思います。

皆さんに感謝しています。


[ 痴陶人] 2016/11/16(水) 午後 6:31

痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。

しかし、これは痴陶人さんとも思えぬ、
明晰に翳りのあるご解釈です。

紅孔雀さんのご発言で、
いつのまにか私たちは「病人」の代表として発言しているような格好になりましたが、
元はといえばそうではなく、
そもそも私たちはAC,成育歴に問題があるトラウマ・サバイバーとして生の声を発信しているのです。

今からでも痴陶人さんが私たちの仲間として、
自らの成育歴や人生の苦悩について、
作家の虚飾の入らない「生の声」を発信してくださるのなら、
それは大歓迎です。

医者から診断書が出れば、
社会的には「病人」です。
診断書など得ようとすれば、
いくらでも得られますし、
得たところで私たちにとっては何の価値もありません。

[ チームぼそっと ] 
2016/11/16(水) 午後 11:08
 

そうでした、そうでした。

私は、元々、病人としてではなく、ACとして、チームぼそっとに参画したのでした。

病人を生きづらさにまで解釈した、このチームぼそっとなら、私も参画する資格があると。

ことほど左様に、病者の定義は多用です。病人の定義など誰にもできません。

もしかしたら、生きるということそのものが病気なのかもしれません。

先日紹介した、ジャン・ジュネの言葉のように、刑務所内での犯罪者の格が、死刑囚に収斂されていくように、病者もそのような格に収斂されて行き、私のようなこそ泥は、犯罪者ではありませんなんていうような意識になるのでしょうね。

いやいや、不思議な世界です。

そして、今回の病人の資格という問題は、改めていろいろなことを考えさせてくれる、いい機会だったと思います。


[ 痴陶人 ] 2016/11/17(木) 午前 0:18 
もし、生きることそのものが病気であるなら、
人は程度の差はあれ、皆病人ということになります。

つまり病人としての資格は、人としての資格です。

そして、在日の人が朝鮮人として、日本人に尊敬されない限りはそのアイデンティティが満たされないように、人は、自分として他人に認められないと、そのアイデンティティを認められないのでしょう。

病人としての資格とは、自分が自分としてのあることの資格かもしれません。

そして、その資格は、自分が決めるものです。


[ 痴陶人 ] 2016/11/17(木) 午前 5:20
そう、結局は自分が決めるものですね。

ただし、それを「資格」などと呼ぶとなると、
持っていないほうが「欠格者」ということになり、
「下に見られる」ことになりますから、
アイデンティティと呼び換えてみたいと思います。

痴陶人さんの若き日の友人、崔さんの場合(*1)は、
これが顕著ですね。


「日本人の資格がないから朝鮮人だ」(*2)
などという論法は許されてはならないはずです。

*2.いまでは、朝鮮人という表現を忌避する目的で
在日」という語をつかう人が多いようだが、
これもまたいかがなものか、と私は思っている。
「在日(コリアン)」の意味するところは、また別である。

その逆、
朝鮮人の資格がないから日本人だ」
も、また然り。

崔さんは、けっして過去を否定することなく、
朝鮮人であるという自分のアイデンティティを保ったまま、
ふつうの日本人と対等に扱われたかっただけなのでしょう。

同じように私は、
母親に虐待された男性のAC、トラウマ・サバイバーであるという自分の過去を否定することなく、
また、「反市民」のように生きてきた自分の過去を否定することなく、
ACでない人々や、ふつうの「市民」と
対等にわたりあいたいのです。

背負っている経歴や外傷体験が何であれ、
ACの多くは、そうだと思います。

私が考えているほとんどのことは、
すでに痴陶人さんによって明晰な言葉にされているわけですが、
一点だけ見解が分かれている点があります。

私はやはり、紅孔雀さんは
私たちぼそっとプロジェクトのやっていることを
暗に批判するために、
一連の表現を出してきたのだと思うのです。

被害妄想だと言われてしまうかもしれませんけれども。

もちろん、痴陶人さんがおっしゃっている

島崎藤村坂口安吾への連想、
「昼は銀行員、夜はテロリスト」という紅孔雀さんの言葉、
石川啄木太宰治への嫌悪、
「鼻持ちならない虚無感」の由来、
「治りたがらない病人」の出自、

……などなどは、すべておっしゃるとおりでしょう。

それらはすべて認めたうえで、
それではなぜ、紅孔雀さんは北条政子論から
そちらの方向へ話頭を転じていったのか
を考えると、私はどうしても

暗然とした批判

という結論になります。

その批判の最先端には、

治りたがらない病人には 病人の資格がない(*3)

という言葉も持ち出してこられました。


これが、三島の言葉であろうが、太宰の言葉であろうが、
私はどうでもいいのです。

この文脈で、この言葉を持ち出してきている以上、
これは紅孔雀さんの言葉だと思います。

そして、意味するところはきわめて重大です。

痴陶人さんのいう

病人としての資格は、人としての資格です。

というテーゼに乗っかれば、
紅孔雀さんはこれによって
私たちACの人間としての資格を認めない
と言ってきたのに等しい。


私たちは、勝手に

「治りたがっていない」

などと決めつけられたうえで、

「人としての資格がない」

と言われたのに等しい。


それも、goodじいさんさん風にいえば、
「抜き身の刃」ではなく、
へたに「鞘におさめた刃」であることで、
いつでも
「そんなこと言ってませんよ」
と逃げていける距離から言ってくるところが、
なんともいやらしく狡猾に響いてきます。

なぜ、このようなことを言ってくるのか。

それは、やはり
私たちの発する「生の声」が
何かしらの理由で紅孔雀さんの耳に痛いからではないでしょうか。

いっぽう、私たちは、
このように生きてきた人生を否定されたように感じるので、
紅孔雀さんの言葉(*3)に怒っているのです。


 
 
 
 
・・・「三島由紀夫を読み返す(23)」へつづく
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